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第2話 部屋の名前

前回の続きです。

昼の光が、机の上まで届いていた。


朝のノックは、やがて諦めたように遠のいた。扉は開けなかった。


(お嬢様、とだけ言われても。どこの誰のお嬢様なのか、分からない。)


腹が空いた。喉が渇いた。体の要求だけは、前の人生と同じだ。


水差しの水を一杯飲む。ぬるい。


(夜に汲んで、朝は誰も替えに来なかった水。)


横に小さな呼び鈴があった。鳴らせば誰かが来る。来た誰かは、こちらの名前を呼ぶ。


(呼ばれた名前を、確かめもせずに自分のものにしたくない。先に、机を見る。)


呼び鈴には触れず、机に座った。


未開封の手紙が三通。紋章入りの紙だ。盾の中に、翼をたたんだ鳥が一羽。表の宛名を読んだ。


「エリゼ・クローデル様。」


声に出してみる。


(……他人の名札を読んでるみたい。)


(でも、一通じゃ決められない。宛名は、書いた人がそう思ってる、ってだけ。届け違いかもしれない。)


引き出しを開けた。


便箋、封蝋、小さな印章。印章の底には、手紙と同じ鳥が彫ってあった。


(この部屋の主は、この紋で封をしてきた。)


二段目には、中身を抜いた古い封筒の束。差出人の字は、少なくとも三通り。宛名はどれも同じだった。


エリゼ・クローデル様。学園宿舎、東棟。


(別々の手が、同じ名前を書いてる。一人の書き間違いなら、字は一つで済む。)


三段目の奥に、硬い紙が一枚。学園の印が押された在籍の書付だった。


名の欄に、エリゼ・クローデル。肩書きの欄に、クローデル公爵家息女。保証人は、クローデル公爵。


(父親……と言いたいけど。書いてあるのは、同じ家名の当主、まで。)


宛名。印章。書付。


三つが、同じ一つの名前を指していた。


便箋を一枚引き寄せ、ペンを取った。試しに、その名前を綴ってみる。


考えるより先に、手が動いた。流れるような字だった。最後の一画まで、迷いがない。


(……手は、この名前を知ってる。何百回も書いてきた速さだ。)


中指の横の硬いところが、ペンの軸にぴたりと収まっていた。


彼女は、ようやく決めた。


(この体の名前は、エリゼ・クローデル。)


「エリゼ。」


声に出す。


「……エリゼ・クローデル。」


二度目は、少しだけ舌に馴染んだ。


(慣れなくていい。間違えなければ、それでいい。)


鏡を見る。顔は変わらない。変わったのは、こちらの呼び方だけだった。


エリゼは紙の端に、見たものだけを書いた。


「公爵家の令嬢で、学園にいる。」


(なぜ学園にいるのか。家は遠いのか。家族は何人か。机の上にないものは、紙に書かない。)


三通の手紙は、封を切らずに戻した。


(開けたら、読んだと相手に分かる。私が何を知ってて何を知らないか、先に数えられたくない。)


扉が、今度は遠慮なく開いた。


仕立てのよい地味な服の女が、盆を持って入ってきた。湯気の立つ茶と、薄い菓子。エリゼを見て、一瞬だけ眉を動かす。


(驚き、じゃない。予定と違う、って顔。)


「お嬢様。朝、お呼びしてもお返事がありませんでした。お加減が悪いのですか。」


(この声。朝の、扉の向こうの声だ。)


「少し。」


「では、今日の講義はお休みとお伝えしておきます。」


返事を待たずに、女はそう決めた。


(私の休みを、私より先に決める声。)


「あなたは。」


「ハンナです。お忘れですか。」


聞きたいことは山ほどあった。昨日何があったか。ここはどこか。自分は何のためにいるのか。


(一度に聞けば、話を盛られる。どこまでが見たことで、どこからが都合か、分けられなくなる。)


エリゼは茶に手を伸ばさず、ハンナの手元を見た。爪は短く整えてある。盆を置く動作に、迷いがない。


(この部屋の物の置き場所を、主より知ってる手だ。)


「お茶を、お注ぎいたしますか。」


「自分でやる。」


ハンナの手が、ポットの上で一拍止まった。


「……さようでございますか。」


(止まった。この体は、自分では注がない人だったらしい。)


「名を、もう一度。」


「ハンナ、でございます。クローデル公爵家より、エリゼお嬢様のお側に上がっております。」


(エリゼお嬢様。宛名と印章と書付に、人の声まで重なった。)


エリゼは頷いた。顎を引く角度まで、体が知っていた。


「そう。」


それ以上は聞かない。


ハンナの目が、机の上の三通に止まった。


「そちらのお手紙、まだお開けになっていないのですね。」


「ええ。」


「お嬢様らしくございませんこと。」


(らしくない。この人は、私の「らしさ」を知ってる。私より、ずっと。)


ハンナは怪訝な顔のまま菓子を置き、カーテンを整えて出ていった。開け幅は、朝エリゼが開けたより、指二本ぶん広かった。


(直された。私が開けた幅じゃなく、この部屋のいつもの幅に。)


いつもの幅を知っている人間が、主の目の前で、黙って元に戻したのだ。


(ハンナ。私の予定も、好みも、「らしさ」も知ってる人。味方かどうかは、まだ分からない。)


茶は冷めてから一口。菓子は半分。


(空腹だと、考えが短くなる。短い考えは、間違える。)


菓子は甘すぎなかった。この体の好みに合わせてある、と舌が言った。


(舌は覚えてる。頭は覚えてない。好みまで他人に知られてるって、便利で、ちょっと息苦しい。)


紙の行が、少し増えた。


名はエリゼ・クローデル。宛名、印章、在籍の書付で一致。手も、その名を覚えている。


公爵家の令嬢。学園の宿舎にいる。


侍女はハンナ。本人がそう名乗った。


(最後の一行だけ、重さが違う。紙で見たものと、口で聞いたもの。同じ段には並べない。)


名前と身分。今日、それだけは手に入った。


紙を二つに折り、引き出しの奥へ入れた。


(朝は、自分が誰かも分からなかった。今は、呼ばれたら振り向ける。それだけで、足場が一枚できた。)


窓の外の中庭を、揃いの服の生徒が二人、並んで歩いていく。


(あの子たちは、自分の名前を宛名で確かめたりしないんだろうな。)


名前は、手に入った。


その名前に何が結びつけられているのかを、エリゼはまだ知らない。


午後の茶の盆に、それは封を切られて載ってくる。

お読みいただきまして、ありがとうございました。

続きが気になった方は、評価やブックマークをしていただけると励みになります。

次回は「第3話 父の手紙」です。

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