第1話 鏡
二十話で完結する話です。魔法は出ません。
令嬢の体で目を覚ました女が、自分の居場所を一つずつ確かめて、自分で選べるところまで戻る話です。
朝の光が、天蓋の縁だけを白くしていた。
(……天井が、遠い。)
目を開けて、最初に思ったのはそれだった。覚えている天井は、もっと低い。隅に小さな染みがあった。ここには染みがない。布張りの天蓋が、ゆるく影を落としているだけだ。
彼女は起き上がった。
腕が細い。袖は白い。手首の細い鎖が、動かすと冷たかった。指を一本ずつ折る。動く。痛みはない。
(爪の形まで、私のじゃない。)
右の中指の横に、薄く硬いところがあった。ペンを握る指だ。
(この子も、字を書く。毎日、たくさん。)
前の人生のことは、すぐに出てきた。大学の階段。夜まで灯の消えない事務所。机で冷めていく珈琲。提出の前夜、誰かの数字を疑って、朝まで根拠を並べ直したこと。
(そっちは、全部ある。)
ないのは、この寝台の上で、この体が何を見てきたかだった。
絨毯は厚い。カーテンは重そうだ。床に降りても、足はふらつかなかった。踵の置き方まで、考えずに決まる。背筋が勝手に伸びる。
(体は知ってる。頭が知らない。)
化粧台の鏡に、知らない娘がいた。
栗色に近い髪。整えた眉。十七か、十八か。頬に手を当てると、鏡の娘も同じ頬に手を当てた。
「……誰。」
声まで違った。高い、というより、この部屋の空気に合うよう磨いてある。言葉はこの土地のもので、訳した覚えもない。唇が先に動き、意味があとから追いついた。
前の名前を、小さく口にしてみた。鏡の娘の唇が、その形に動く。
(……似合わない。)
音が、この顔から浮いていた。借りた服の上に、自分の名札だけ留めたような浮き方だった。
笑ってみた。鏡の娘は、口の端だけで笑った。何度も練習したような、揃った笑い方だった。
(……笑い方まで、よそ行き。)
(落ち着いて。分からないときは、見えているものだけ数える。)
前の仕事で身についた癖だった。胸の動悸は、納期の朝に近い。
頬の内側を噛んでみた。痛い。
(痛いから夢じゃない、とは言えない。でも、痛いまま時間は進んでる。)
時計はない。窓の光の角度だけが、少しずつ動いていた。
カーテンを細く開けた。石の中庭。揃いの服の人影が、遠くを横切る。
(学校……に似てる。似てる、だけ。)
遠くで鐘が鳴った。七つ。
(朝の七時――いや、待って。前の世界の数え方が、ここで通じるとは限らない。)
鐘が七つ鳴った。確かなのは、そこまでだ。
部屋を見て回った。
天蓋付きの寝台。重いカーテン。誰かが整えた水差し。枕元に、読みさしの本。開いた頁は読める。詩のようでも、礼法のようでもある。
目に入った一行を、声に出さずに読んだ。目上の方より先に、席を立ってはならない。
(寝る前に、こういうのを読む子なんだ。……読まされてた、のかもしれないけど。)
机には、封を切っていない手紙が積んであった。
(積んである。誰かが、ここへ運んで、置いていく。)
宛名に手を伸ばしかけて、止めた。
(まだ。見たものと、あとで聞くものを混ぜたら、引き剥がせなくなる。)
衣装箪笥を開けた。どれもこの体の寸法だ。一枚を肩に当てると、ぴったり合う。
(合うのが、かえって気持ち悪い。)
端に、同じ形の服が二着掛かっていた。窓の外の人影が着ていたのと、同じ色だ。
(あの中の一人なんだ。この体も。)
袖を通しかけて、手を止めた。
(着たら、出ていく人の格好になる。出ていく先を、まだ知らないのに。)
服を元の場所に掛け直し、扉を閉めた。
下の段の靴は、どれも爪先が少し擦れていた。この体は、これを履いてどこかを歩いてきたのだ。どこを歩いたかは、靴は言わない。
(この体は、ここに住む準備ができてる。中身だけが、今朝着いた。)
化粧台の小瓶を開けた。花ではない、少し苦い匂い。栓を戻し、瓶を元の位置に置き直す。
(動かしたものは、戻す。この癖なら、ここでも使える。)
椅子に座って、昨日を呼び戻してみた。事務所の最終便のあと、数字の一行が説明と合わなかった夜。その続きが、この朝ではない。
(橋がない。だったら、無理に架けない。)
ないものを、あると言う。それがいちばん、あとで高くつく。
戻る方法も考えかけて、やめた。手がかりがない。手がかりのないことに、朝を全部使う気はなかった。
(戻れるかは、あと。今は、この部屋で今日を越える。)
(順番に行こう。ここはどこか。この体は誰か。――誰が、この部屋に来るのか。)
もう一度、鏡に近づく。灰色がかった緑の瞳。長い睫毛。目の下に、薄い疲れの色。
(よく眠った顔じゃない。昨夜、何か考えてた?)
鏡の娘は、怖がる顔をしていなかった。困っても顔に出さないように育った顔、に見えた。
(見える、だけ。決めつけない。)
指を折って、数え直す。
(分かってること。広い部屋。若い女の体。外に、揃いの服の人たち。鐘が七つ。……分からないこと。それ以外、全部。)
扉の向こうで、衣擦れがした。
ノックが二度。間の取り方が、使用人のものだった。
彼女は鏡から目を離さなかった。
(返事、できない。名前を知らない。)
知らない名前で呼ばれて頷けば、それを自分だと認めたことになる。
「お嬢様。」
女の声だった。
「お目覚めでございますか。朝のお支度に参りました。」
(支度。……毎朝、来てるんだ。この人。)
返事をしないまま、息だけを浅くした。扉の向こうも、黙って待っている。急かさない。慣れた待ち方だった。
「……お嬢様?」
二度目は、少しだけ声が低かった。
「……では、のちほど、また伺います。」
(のちほど。つまり、また来る。次は、返事を待たずに開けるかもしれない。)
(お嬢様。)
胸の中で、一度だけ繰り返した。
(そう呼ばれる体なんだ。なら――この体には、もう待ってる人がいる。)
起こしに来る人がいる。朝の支度を整える人がいる。返事のない扉の前で、次の言葉を選んでいる人がいる。
中身が今朝着いたことなど、誰も知らない。
扉の向こうの誰かは、この体の名前を知っている。
知らないのは、中にいる彼女だけだった。
お読みいただきまして、ありがとうございました。
続きが気になった方は、評価やブックマークをしていただけると励みになります。
次回は「第2話 部屋の名前」です。




