第10話 燃えかす
前回の続きです。
夜の使用人廊下は、ランプが間引かれていた。ランプとランプの間で、壁の影が長く伸びている。
階下の広間から、食器の触れ合う音が小さく上がってくる。使用人たちの遅い夕食の刻限だ。
ハンナもそこにいる。着替えのあと、下がってよいと告げたのはエリゼ自身だった。いつもより、少し早く。
「今夜は、もう下がっていい。」
「……よろしいのですか。まだ、御髪を解いておりません。」
「自分でやる。」
「かしこまりました。」
侍女は礼をして、何も問わずに出ていった。
食事のあとは洗い場を手伝う、と別の使用人から聞いている。聞いた話だ。だから、時間には余裕を見ない。
――思ったより早く戻る。そう決めておく。
靴は履かなかった。石の床の冷たさが、足の裏から上がってくる。
階段の途中で、一度だけ立ち止まった。
――引き返すなら、今だ。
引き返さなかった。
庭で王子に証を問われてから、二日。
口では足りない。なら、口以外のものを探すしかない。まず見るべきは、自分の身の回り。それを仕切っているのは、ハンナだ。
手がかりは二つ。染料で汚れた制服と、許可を断った朝の、あの止まった顔。
――疑っている、とは言わない。自分にも。
疑いは、答えが先にあって、そこへ材料を寄せていく形になりやすい。今夜するのは、見ることだけ。何もなければ、何もなかったと書く。それも一行だ。
扉に鍵はかかっていなかった。
――見られて困る物がないからか。見に来る者などいないと思っているからか。
鍵のない部屋に入るのと、鍵を開けて入るのは違う。そう言い聞かせても、踏み越える一歩は重かった。
音が立たない幅だけ、扉を開ける。
狭い部屋だった。寝台、手洗い、小さな机。高い窓から入る月の光が、壁の上のほうだけを白くしている。
かすかに、焦げた匂いがした。
寝台は、角まできっちりと布が折り込まれている。
持ってきた手燭を、机に置いた。
机の上は整っている。ペンは一本、インク壺の横にまっすぐ。紙の束は角が揃っている。
――整いすぎている。……いや。几帳面な人の机は、どれもこう見えるのかもしれない。
印象は、机の上に置いておく。
引き出しを、上から開けた。開ける前に、中の並びを目で覚える。
一段目。便箋、針、糸巻き、予備のエプロン。便箋はまっさらで、書きかけも、受け取った手紙もない。束の厚みを指で測る。減った跡は、分からない。
二段目。小さな布袋に、銅貨が数枚。
――多いのか、少ないのか。
この家の給金を、エリゼは知らない。知らない物差しでは量らない。
三段目。古い櫛と、繕いかけの靴下。
報酬と呼べる紙は、ない。
見た順に戻す。
――以前のお嬢様なら、今ごろは。あの言葉の続きを、この部屋は知っているのだろうか。
寝台の下も覗いた。埃が薄い。何かを出し入れした跡か、掃除が行き届いているだけか。どちらとも言えない。
振り返ったとき、炉が目に入った。
灰が、まだ温かかった。
部屋を暖めるほど冷える夜ではない。手をかざすと、かすかに熱が残っている。今日の夕方か、その少しあと。
――私の部屋の炉には、この数日、火が入っていない。
ハンナが入れなかったからだ。主人の炉には入れず、自分の炉にだけ入れた。そこまでは、見たことと言っていい。
灰の層に、形を残した黒い切れ端が混じっていた。
紙を焼いたあとだ。
――見られたくない紙を焼いた。……いや、それは想像だ。焼いた、までが見たこと。
そっと指で広げる。触れたそばから崩れて、粉になる。インクらしい筋はあっても、一語も読めない。
――文字は、死んでいる。
息を詰めて、次の切れ端へ移る。これも読めない。その次も。
残っていたのは、灰のいちばん端。焼け残った紙の角に、赤茶の色がわずかにあった。
封蝋か、判の跡か。円が途中で切れて、縦に短い線が一本。円の残りは、焦げて消えている。
――商会の印に、似ている。
前の人生で、請求書や納品書の隅によく見た形だ。
でも、似ているだけ。円と線だけの印なら、この町に同じようなものがいくらでもあるかもしれない。一つしかないかもしれない。今夜の手元では、決められない。
持ち出すことは、できなかった。伸びかけた指が、途中で止まる。
主人が侍女の部屋から灰を持ち去った。それだけで、あとで何を示しても、出どころから疑われる。それに、この崩れ方では運ぶあいだに粉になる。
エリゼは懐から、自分の紙を出した。
手燭の光の下で、欠けた印を写す。欠けた円。短い縦線。切れている位置。線の長さ。見たとおりの大きさで、足さず、補わずに。
――欠けているところを、想像で閉じない。
閉じた円を描けば、それはもう自分の描いた印になる。
写した線を、もう一度灰の上の欠けと見比べる。ずれていない。
写し終えると、灰を炉に戻した。切れ端の向きも、なるべく元どおりに。指の黒い粉は、手洗いの水ではなくハンカチで拭う。水に黒が残れば、誰かが来たと分かる。
――知られてはいけない。知られれば、次の紙はもっと早く焼かれる。
机に蝋が落ちていないか確かめて、手燭を取った。
そのとき、下の階で足音がした。
ハンナではない。歩幅が違う。巡回の使用人だ。
手燭を吹き消し、扉を閉める。暗闇が、一気に落ちてくる。階段ではなく、自分の棟へ戻る短い通路へ。壁に手をついて進む。
――見つかったら、何と言う。
言い訳は用意していない。用意した言い訳は、それだけで何かを認める。
心臓がうるさい。うるさいだけで、見たものは増えない。
背後で、足音が使用人廊下へ曲がっていった。扉の前で止まる気配はない。
エリゼは、長く息を吐いた。足の裏が、ようやく石の冷たさを思い出した。
懐の紙が、胸に当たって乾いた音を立てる。
――報酬の紙は、なかった。燃えたあとがあった。印の欠けだけが残った。
物証は、あの部屋にはない。あるのは、写した欠けた円と、短い縦線だけ。
店の名を当てはめたくなる。当てはめたくなるから、今夜は名を書かない。欠けたものは、欠けたまま持っておく。
自室の扉に手をかけて、エリゼは懐の上から紙を押さえた。
円の、焼けて消えた残りの半分。
それはこの家のどこかに、まだ焼かれずに眠っているかもしれない。
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次回は「第11話 誰が得をする」です。




