第11話 誰が得をする
前回の続きです。
宿舎の応接の間は、午後になっても火が入っていなかった。
家令は先に来て、立ったまま待っていた。白い手袋を胸の前で揃え、エリゼが入ると深く頭を下げる。王都の屋敷から、朝のうちに馬車を出したという。
「旦那様のお言葉を、お伝えいたします。」
エリゼは向かいの椅子に座った。背もたれには触れない。
家令は懐から紙を出さなかった。覚えてきた言葉を、覚えてきた順に口にする顔だった。
「噂には、応じられませんように。殿下に、ご自分から詰め寄られませんように。夜会までは、何事もなかったようにお過ごしください。――以上でございます。」
「理由は?」
「承っておりません。口頭で伝えよ、とだけ。」
(口頭で、ね)
そこに父の考えが出ていた。紙に残せば、あとで誰かが読む。困るのは言葉の中身ではない。公爵家がこの件で娘に指図した、という形のほうだ。
家を煩わせるな。定例の手紙にあった一行が、今日は声になって届いただけだった。
「承知しました、と伝えてください。」
家令の肩が、わずかに下がった。言い返されるのを覚悟していたのだろう。
「……よろしいのでございますか。」
「何が?」
「いえ。お嬢様なら、ひと言おありかと。」
「言っても、何も変わらないでしょう。」
家令は目を伏せた。否定しないところが、正直な人だった。
言い返す言葉がないわけではない。言い返しても、何も変わらないだけだ。
噂に応じれば、噂が一つ増える。王子に詰め寄れば、四日前の庭で言えなかったことを、もう一度言えずに終わる。詰め寄った、という話だけが残る。
(お父様の禁止は、私の結論と同じ。なら、逆らう理由はない)
家令が下がろうとしないので、エリゼのほうから聞いた。
「屋敷のほうで、この件に名前を出してくれる家の話は? 学園の学友の家で。」
家令は少し間を置き、首を横に振った。
「お嬢様のお名前が出ますと、皆さま、季節のお話に変えられるそうでございます。」
柔らかい言い方だった。柔らかくしてあるぶん、中身ははっきりしている。
名前を貸す学友はいない。茶会で特待生を罵った令嬢の隣に、自分の家の名を並べる理由がない。それはエリゼにも分かる。認めた非礼は、認めたまま紙に残っている。消す気もない。
マリエの顔が、一度だけ頭をよぎった。
廊下で、壁に寄らなかった娘。エリゼ本人からは何も来ていない、と言ってくれた娘。
(でも、あの子に弁護を頼んだら、その一言は別のものになる)
被害者が、加害者の側に立つよう頼まれた。そういう話にすり替わる。頼んだ瞬間、証言は取引に見える。六日前に頼まなかった理由は、今日も変わらない。
「お嬢様。屋敷に、何かご用はございますか。」
扉の前で、家令が振り返った。
「一つだけ。私の名で支払った請求の控えを、束のまま届けてください。ここ数年のものを。」
「かしこまりました。仕立ても、菓子も、すべてでよろしゅうございますか。」
「すべて。一枚も抜かずに。」
家令は理由を問わなかった。問わないのが、この家の家令の仕事なのだろう。夜会の支度のためだと、勝手に受け取ったかもしれない。それで構わない。
扉が閉まる。
一人になって、エリゼは膝の上で手を組んだ。正面には火のない暖炉。灰はきれいに掃いてある。
二日前の夜、別の炉で見た灰を思い出す。欠けた円と、短い縦線。
(あれは、まだ形でしかない。店の名前にはなっていない)
束を頼んだのは、その形を確かめる手が、ほかに思いつかなかったからだ。確かめられなければ、あの欠けは一生ただの欠けのまま。期待はしないでおく。
――孤立している。
感情ではなく、状態として並べてみる。
父は動くなと言う。学友の家は名前を出さない。マリエには頼まない。王子は証を求めて去った。ハンナは、止まった顔を一度見せたきり。
(数えれば、味方はゼロ)
前の人生でも、似た夜があった。反対する人の顔を数え、味方になってくれそうな名前を一晩かけて並べた。
翌朝、その名前はほとんど役に立たなかった。肝心の一点が噛み合っていなかったからだ。噛み合わないものの前では、何人が頷いても通らない。逆に、それさえ噛み合っていれば、頷く人は一人で足りた。
十人が隣に立っても、汚れた制服は汚れたまま。誰が汚したかは、空欄のまま。
(足りないのは人数じゃない。紙だ)
エリゼは机の紙を一枚借り、ペンを取った。
書く前に、もう一つの問いを転がす。
訴えは匿名で、夜会の夜まで留められている。留める側には、その夜を待つ理由がある。
婚約を静かに解くだけなら、家と家とで片がつく。公爵家の体面も、形だけは保てる。
けれど、人の目のある広間で壊れたら?
壊れたこと自体が、皆の見ている前での事実になる。クローデルの娘は、しばらくどの席にも座れない。
そして、空いた席は、空いたままにはならない。
(誰かが座る。座りたい誰かが、いる)
王子の隣という席は、ひとつしかない。ひとつしかないものは、欲しがる人の数だけ争いになる。
ペン先が、紙の上で止まった。インクが一滴、小さく滲む。
エリゼは、父の言葉と、頼まないと決めた相手と、借りられない名前とを短く書きつけた。一行あけて、その下にもう一行。
――婚約が公の場で壊れれば、得をする家はどこか。
答えの欄は、空けたままにした。
浮かぶ顔は、まだない。浮かんだとしても書かない。紙のない名前を書けば、その人は自分の中で先に有罪になる。先に有罪にした相手の言葉は、何を言っても、そう聞こえてしまう。
廊下を、生徒が二人、笑いながら通り過ぎた。応接の扉の前で声が一度だけ落ち、また上がって遠のく。中に誰がいるか、分かっている声の落とし方だった。
エリゼは顔を上げなかった。
(あの二人の名前を知っても、紙は一枚も増えない)
紙を二つに折り、袖に入れる。
孤立は、今日で固まった。固まったものは、もう揺らさなくていい。
味方の数を数えるのは、ここまで。
ここから先は、誰が得をするのかを数える番だ。
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次回は「第12話 侯爵令嬢の茶」です。




