第12話 侯爵令嬢の茶
前回の続きです。
招待のカードは、薄い藤色だった。
ヴァルナ侯爵家、ロゼッタ。ささやかなお茶を、とだけ添えてある。
(知らない名前だ)
知らないまま、エリゼは宿舎の南棟の小さな客間の前に立っていた。ハンナは連れてこなかった。侍女の手があると、自分の目がその手に甘える。今日は、自分の目だけで見たい。
扉が開くと、甘い焼き菓子の匂いがした。
「エリゼ様。来てくださって、嬉しいわ。」
窓際の席から、令嬢が立ち上がった。淡い金の髪を耳の後ろで緩くまとめ、笑うと目尻が下がる。声は明るく、よく通った。
エリゼの体が、先に膝を折った。礼の深さは体が決める。侯爵家の娘には、この深さらしい。
卓には茶器が二人分。ほかの客はいない。壁際で、控えの侍女が一人湯を見ている。
窓辺には白い薔薇が一輪。卓掛けの刺繍は、カードと同じ藤色で揃えてあった。
(思いつきのお茶じゃない。支度に何日もかけてる)
噂まみれの娘を、わざわざ一人だけ呼ぶ。親切か、好奇心か、それとも。決めるものは、まだ卓の上にない。
今日は聞く側に回る。自分から話題は出さない。相手が何を先に聞き、何を最後まで聞かないか。その順番だけを持ち帰る。
「どうぞ、お座りになって。今日は、お話を聞いて差し上げたくて。」
「お招き、ありがとうございます。こうしてお話しするのは、初めてでしょうか。」
「あら、そうだったかしら。」
ロゼッタは首を傾げ、すぐに笑った。
「でも、わたくしはずっと存じ上げておりましたのよ。エリゼ様は、学園でいちばん目立つ方ですもの。」
(目立つ、ね。いまは悪い意味で)
エリゼは曖昧に微笑んで、勧められた席に腰を下ろした。
座ると、ロゼッタは身を乗り出した。
「お辛いでしょう。あんな噂、ひどいわ。」
「お気遣い、ありがとうございます。」
エリゼは茶に口をつけた。熱い。唇を湿らせる程度で、受け皿に戻す。
「わたくし、ずっと心配しておりましたのよ。」
そこまでは同情だった。続いたのは、問いだった。
「殿下は、何かおっしゃって?」
二杯目を注ぎに来た侍女の手が、途中で止まった。止まって、また動く。
「特には。」
「そう。でも、ご婚約のほうは……お父様は、どうお考えなのかしら。公爵様が、殿下に何かお話しになるとか。」
「父は、何も申しておりません。」
嘘ではない。家令が伝えたのは、動くなという言葉だけだ。婚約の行方ではない。
ロゼッタは一瞬だけ唇を結び、すぐにほどいて笑った。
「そうよね。こんなことで、せっかくのご婚約が揺らぐなんて、あってはならないもの。わたくし、それだけが気がかりで。」
(……気がかりの向きが、ずれてる)
前の人生で、同情されたことは何度もある。大きな失敗をした夜、誰かが黙って飲み物を置いていった。そういう人が最初に聞くことは決まっていた。
大丈夫か。何があった。本当なのか。
まず体のこと。それから、起きたこと。
ロゼッタは、そのどれも聞かない。
制服のことを口にしない。茶会のことも聞かない。噂が本当かどうかにも、関心がないように見える。
気にしているのは、殿下が何と言ったか。公爵家がどう動くか。婚約がどうなるか。
(起きたことじゃない。これから起きることばかり)
「夜会には、お出になるの?」
三つ目の問いだった。
「まだ、決めておりません。」
「まあ。」
ロゼッタは目を丸くした。同情より、驚きのほうが大きい顔だった。
「お出にならないと、殿下がお寂しいわ。エリゼ様がいらっしゃらなかったら、どなたが殿下のお隣に立つのかしら。」
冗談の調子だった。控えの侍女が、小さく笑う。
エリゼは笑わなかった。この体は、笑いたくないときに笑わない顔を知っている。
「殿下のお隣は、殿下がお決めになることです。」
「ええ、もちろん。」
ロゼッタは焼き菓子の皿を、こちらへ押した。
「召し上がって。蜂蜜が入っていますの。」
一つ取る。甘い。噛みながら、聞いたことを並べた。
同情の言葉が二つ。問いが三つ。問いはどれも、婚約の行方を向いていた。
(それだけ。それ以上の意味は、ここで作らない)
心配性の令嬢かもしれない。王家の縁談が揺れるのを、家の者から聞かされて案じているだけかもしれない。他人の婚約に関心を持つのは、罪ではない。
問い返すこともできた。
どうして、婚約のことばかりお聞きになるの?
そう言えば、ロゼッタは笑って答えるだろう。心配だからですわ、と。それで終わる。残るのは、問い詰めたという形だけ。しかも、こちらが疑っていると、相手に先に教えてしまう。
(お茶の席で問い詰めても、証拠にはならない)
エリゼは二杯目を、半分だけ飲んだ。
「エリゼ様は、お強いのね。わたくしなら、泣いてしまうわ。」
「泣いても、制服の染みは落ちませんので。」
言ってから、しまった、と思った。制服という言葉を、こちらから出してしまった。
ロゼッタの顔を見る。笑みは崩れていない。
崩れていないことを、エリゼは覚えておいた。覚えておくだけにした。
「本当に、ご立派。」
ロゼッタは話を変えた。夜会の衣装の色、庭の薔薇、先生の口癖。どれも他愛ない。その合間にも、殿下の名前が二度挟まった。
時計の針が一周するのを待って、エリゼは立ち上がった。
「今日は、ありがとうございました。」
「またいらしてね。わたくしは、いつでもエリゼ様の味方ですわ。」
味方。
その言葉が、扉の手前で背中に届いた。
部屋に戻り、袖の紙を開く。いちばん下に、二日前の問いがある。
――婚約が公の場で壊れれば、得をする家はどこか。
答えの欄は、空いたまま。そこには何も書かず、紙の端に今日見たことだけを足した。
ヴァルナ嬢は、噂が本当かどうかを一度も聞かなかった。聞いたのは、婚約の行方だけだった。
(答えじゃない。候補が一人、見えただけ)
見えた、と、そうだ、の間には、紙が一枚要る。
エリゼは紙を畳み、藤色のカードと一緒に引き出しへしまった。指には、まだ蜂蜜の甘い匂いが残っている。
屋敷から届く請求の束。その中に、あの一枚があるかどうか。
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次回は「第13話 印の照合」です。




