第13話 印の照合
前回の続きです。
請求の束は、前の晩に届いていた。
公爵家の封蝋で閉じた、厚い包みだった。屋敷の使いが、受付を通さずに部屋の前まで持ってきた。家令がそう言いつけたのだろう。
受け取ったのは、エリゼ本人だ。ハンナは湯を取りに出ていた。包みはまだ開けていない。机の下の、足の届くところに置いてある。
朝の支度が終わると、エリゼはハンナを呼び止めた。
「少し、座って。」
ハンナは座らなかった。盆を胸の前で持ったまま、扉の近くに立つ。侍女が主の前で座らないのは作法だ。エリゼもそれ以上は言わなかった。
「制服が汚れた朝、あなたはどこにいた?」
「お嬢様のお支度をしておりました。」
答えは早かった。考える間がない。
(覚えていたのか、用意していたのか。……この速さじゃ分からない)
「その前の晩は?」
「いつもどおり、下がって休んでおりました。」
「私が、いつもの注意を止めたあと。誰かに、何かを頼まれたことは?」
「ございません。」
声は平らだった。盆の縁を持つ指も動かない。十五日前に見せた、あの止まった顔は出てこない。
出てこないように、あの日から顔を整えてきたのかもしれない。それすら、見ただけでは言えない。
「染料を扱う店に、心当たりは――」
言いかけて、エリゼは口を閉じた。
(駄目。それを聞いたら、何を追っているか教えることになる)
炉の灰は、あの夜のまま戻してある。灰を見られたと知れば、ほかに残っているものまで消されるかもしれない。消されたあとで悔やんでも、紙は戻らない。
「……いい。下がって。」
「お嬢様。」
ハンナは一度だけ、こちらを見た。
「何か、お疑いでございますか。」
「いいえ。聞いただけ。」
ハンナは頭を下げて出ていった。扉の閉まる音は、あの朝ほど強くない。静かに閉めることを覚えた手の音だった。
口は割らない。問う前から、半ば分かっていた。
(証拠もなしに人を問えば、相手に時間をあげるだけ)
それでも問うたのは、答えではなく、答え方を見るためだった。答え方は、どれも整っていた。整っていることは、罪ではない。
エリゼは扉に鍵をかけ、包みを机に上げた。
封蝋を割る。
中身は、請求書と受領の控えだった。店ごとに紐で括ってある。仕立屋、手袋屋、靴屋、文具商、菓子屋。どれも、エリゼ・クローデルの名で支払われたものだ。
この体が、何を着て、何を履き、何を食べてきたか。知らない人生が、紙の厚みになって積まれていた。
手袋は、一冬に五組。菓子屋の控えには、同じ焼き菓子の名が月に二度ずつ並んでいる。
(甘いものが好きだったのかな、この子)
好きだった、と言い切れるほどの紙ではない。月に二度、買っていた。それだけだ。
前の人生で、知らない店の古い書類の山を一晩で読んだことがある。朝には、その店の癖が見えていた。人も同じだ。
けれど今日は、癖を読む日ではない。探しているのは、印の形ひとつ。
エリゼは束を店ごとに並べ直した。上から順に見れば、途中で目が慣れて違いを見落とす。同じ店の印をまとめて見れば、その店の印がどれくらい揺れるかも分かる。
(揺れ幅も知らずに、似てる、なんて言えない)
袖の紙を開く。六日前の夜に写した形が、隅にある。円が途中で切れて、縦に短い線が一本。灰の端に残っていた、それだけの形だ。
一枚ずつ、隅の印を見ていく。
仕立屋は四角。手袋屋は、紋章を真似た盾の形。靴屋は印がなく、署名だけ。
文具商の印は、円だった。ただし、欠けていない。
欠けていない円に、欠けた円を重ねたくなる。その気持ちを、指で押さえた。
(似てる、は、同じ、じゃない)
括りを三つほどほどいたところで、薄い茶色の紙が出てきた。
布地の請求だった。外套用の毛織、裏地の絹、飾り紐。日付は、二年前の冬。
右下に、赤い印。
円の右上が、わざと途切れている。途切れた口の下に、短い縦線が一本。
エリゼは袖の紙を横に並べた。
欠けの位置は、右上。灰の欠けも右上だった。線の長さは、円の半径の三分の一ほど。灰のほうも、そのくらい。線はまっすぐ下ではなく、わずかに左へ倒れている。紙に写した線も、同じ向きに倒れていた。
(――焼けて欠けたんじゃない。最初から、欠けた形の印だったんだ)
同じ括りの中に、もう二枚あった。春の外出着の布地と、夏の日除けの薄絹。どちらにも同じ赤い印。押す力で濃さは違うが、形は変わらない。
三枚とも、印の上に同じ店の名が刷ってあった。
ルブラン商会。染物・布地。
(……見つけた)
胸の奥で、何かが小さく跳ねた。跳ねたものを、深く息を吐いて落ち着かせる。喜ぶのは早い。見つけたのは店の名前で、犯人の名前ではない。
声には出さなかった。見たまま、袖の紙に写す。
この名を、前から知っていたわけではない。部屋の物にも、人の話にも、今朝まで一度も出てこなかった。
灰の形が先にあって、束があとから名前を出した。その順番も、名前の横に小さく書き添える。印から店へ。逆ではない。
次に、同じ店の請求を全部抜き出した。布地が六枚、飾り紐が二枚。最後の請求は、一年と少し前。
染料の注文は、なかった。
念のため、ほかの店の括りも最後まで見た。染料も、染め直しも、どの請求にも出てこない。この一年、クローデルの名でルブラン商会に払った金は一枚もない。
(じゃあ、制服を汚した色がこの店から出たのだとしたら)
その代金は、家を通っていない。誰かが別の財布で払ったか、別の名で注文したか。どちらなのかは、この束からは分からない。
束に書いていないことを、束の答えにしてはいけない。
エリゼは請求書を元の括りに戻し、布地の三枚だけを抜いて別にした。灰は持ち出せなかった。でもこれは、自分の名で払った、自分の家の紙だ。持っていても、盗んだとは誰にも言わせない。
窓の外で、昼の鐘が鳴った。
ハンナは何も言わなかった。けれど灰の印は、ルブラン商会の印と同じ形だった。そして、その店への染料の注文は、家のどこにも残っていない。
注文の中身を知っているのは、もう、あの店だけだ。
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次回は「第14話 夜会の招待」です。




