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第19話 選ぶ前

前回の続きです。

ロゼッタの手から、扇が落ちた。


床に当たる音は、小さかった。小さかったのに、広間の端まで聞こえた。誰も拾わない。ロゼッタは落ちた扇を見下ろし、それから顔を上げた。口が開いて、何かを言おうとしていた。


「……違い、ます。」


声は、言葉の途中で細くなった。


「わたくしは、ただ、エリゼ様が……殿下の……」


続きは出てこなかった。何を否むのか、何を言い訳にするのか、文の形にならない。周りの令嬢たちは、もう彼女の隣にいなかった。半歩ずつ退いた足が、いつのまにか一歩になり、二歩になっていた。ロゼッタの周りだけ、床の灯が広く見えた。


ロゼッタの膝が、折れた。


淡い色のドレスが、床に広がった。誰かが短く声を上げた。駆け寄る者はいない。座り込んだまま、ロゼッタは両手で顔を覆った。肩が震えている。泣いているのか、息ができないのか、エリゼの位置からは分からなかった。


茶席で見た顔を、思い出した。同情の言葉より先に、壇上へ動く目。婚約の行方を案じる声。あのとき、エリゼは何も糾さなかった。糾しても、茶席の言葉は帳面にならない。帳面にならないものを持って広間に立てば、今夜ここで崩れていたのは、自分のほうだった。


ハンナは、主の隣で立ち尽くしていた。一度口にした名を、取り戻すことはできない。取り戻そうともしていなかった。ただ、どこを見ればいいのか分からない目で、床の一点を見ていた。


今朝、この侍女に髪を結われた。櫛の入れ方も、ピンの順も、いつもと同じだった。同じ手が、印章を持ち出して商会へ行った。エリゼはその二つを、どちらも本当のこととして並べた。


エリゼは、ロゼッタに何も言わなかった。言うべきことは、紙とハンナの口が、もう言った。そこに自分の言葉を足せば、紙より大きな声で人を責めることになる。


壇上で、セドリックが官吏に何か短く告げた。官吏がロゼッタのほうへ歩き出す。そのとき、特待生たちの輪から、一人が前へ出た。


マリエ・ランベールだった。


飾りの少ないドレスで、磨かれた床の上を、まっすぐ中央まで来た。エリゼの二歩手前で止まり、壇上に向かって一礼した。


「殿下。一つだけ、申し上げてもよろしいですか。」


セドリックは、少し間を置いて頷いた。


マリエは、エリゼのほうを見なかった。壇上だけを見ていた。


「茶会のあと、エリゼ様ご本人から、わたしが何かをされたことは、ありません。」


それだけ言って、もう一度礼をした。付け足しはなかった。エリゼを庇う言葉も、ロゼッタを責める言葉も、なかった。見たことと、見なかったことだけを言って、マリエは元の輪へ戻っていった。


廊下で話した日、エリゼは彼女に何も頼まなかった。味方になってほしいとも、証人になってほしいとも言わなかった。被害を受けた人に自分の側へ立つよう求めれば、その言葉は、どれほど正しくても頼まれた言葉になる。マリエが今ここで言ったのは、頼まれていない言葉だった。だから、重さがあった。


「では、クローデル様は……」


「何も、なさっていなかったの?」


扇の角度が、ばらばらになった。こちらを避ける扇と、向き直る扇が混じっている。入口で聞いた「よく顔を出せるものだわ」の声は、もうどこにもなかった。


セドリックが、壇を降りた。


段を一つずつ踏んで、中央まで来た。官吏が止めかけて、やめた。王子は、エリゼの前に立った。さっきまで見下ろしていた距離が、今は同じ高さにある。


「エリゼ。」


敬称は戻っていなかった。けれど、呼び捨ての硬さも消えていた。


「先ほどの罪状は、取り下げる。嫌がらせの件も、王家への侮辱も、そなたに負わせるべきものではなかった。」


広間のあちこちで、息が吐かれた。


「取り下げ……」


「殿下が、ご自分で。」


汚れた制服は、官吏の腕の中で畳まれていた。畳まれた布は、もう誰の罪の証でもなかった。


「私は、訴えと、その制服だけで、ここに立った。確かめるべきことを、確かめなかった。」


セドリックは、そこで一度、言葉を切った。


「婚約の破棄も、撤回させてほしい。」


エリゼは、答えなかった。


答えられなかったのではない。答えないと決めた。


この広間で、今、はいと言えば、それは王子への答えではなく、この広間への答えになる。何百という目の前で、助かったばかりの娘が撤回を受ける。その絵は美しい。美しいぶん、あとから外せない。いいえと言っても同じだ。晴れたばかりの汚名の上で王子の申し出を退ければ、それもまた広間が見たがる絵になる。どちらを選んでも、選んだのは自分ではなく、この夜の灯になる。


「殿下。」


エリゼは、静かに言った。


「お申し出は、確かに伺いました。お答えは、今夜はいたしません。」


セドリックの目が、わずかに揺れた。怒りではなかった。拒まれたのとも違う、行き場を探す目だった。


「……そうか。」


短い返事だった。咎める響きはなかった。答えを急かす言葉も、足されなかった。


それ以上、彼は何も言わなかった。エリゼも言わなかった。


二人のあいだに、少しの沈黙が置かれた。広間の誰も、その沈黙に口を挟まなかった。挟めば、自分がどちらかの側に立つことになる。立ちたい者はいなかった。セドリックは一度だけ目を伏せ、それから、官吏たちのほうへ向き直った。ロゼッタとハンナの扱いを、短く指図する声が聞こえた。その声は、もうエリゼに向けられたものではなかった。


エリゼは、その場から動かなかった。


少し前まで、婚約は王子の手の中にあった。破棄するかどうかを、彼が決めた。汚名は、周りの口の中にあった。自分が何をした者かを、差出人のない紙が決めていた。


今は、どちらも違う。


婚約を続けることも、終えることも、自分の側にある。どちらを選ぶかは、まだ決めていない。決めていないことを、決めていないまま持っていられる。それが、今夜手に入れたもののすべてだった。


袖の中は、もう空だった。


夜が明ける前、クローデル家の紋を押した封書を抱えて、早馬が一騎、学園の門をくぐった。

お読みいただきまして、ありがとうございました。

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次回は「第20話 行き先未定」です。


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