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第20話 行き先未定

最終話です。二十話で、ここで終わります。


朝の光が、窓枠の縁だけを白くしていた。


エリゼは、いつもより遅く目を覚ました。体は重くない。頭も痛まない。昨夜の広間の灯が、まだ瞼の裏に少し残っているだけだった。


起き上がって、しばらく寝台の端に座っていた。二十日あまり前、この部屋で初めて目を覚ましたときも、こうして座っていた。あの朝は、自分が誰かも分からなかった。鏡の中の顔に、返事のできる名前を持っていなかった。


今は、名前がある。エリゼ・クローデル。公爵家の娘。昨夜、第二王子から婚約を破棄され、同じ夜のうちに、その撤回を申し出られた。申し出には、まだ答えていない。


扉が叩かれた。二度。間の取り方が、ハンナのものではなかった。


「お嬢様。お目覚めでしょうか。」


年かさの侍女の声だった。家令の下で働いている女で、顔は知っている。ハンナは昨夜のうちに、身の回りの役を解かれていた。どこへ移されたのか、エリゼは聞いていない。聞けば、答えは来る。来た答えに、自分が何かを言いたくなる。言いたくなることは、今朝の自分の仕事ではなかった。ハンナのことは、昨夜、殿下が官吏に指図した。その先は、自分が決める話ではない。


「どうぞ。」


侍女は盆を持って入ってきた。湯と、薄い茶と、封書が一通。封蝋に、クローデル家の紋がある。


「旦那様から、早馬で届きました。」


エリゼは封書を受け取った。薄い。初めの日に届いた定例の手紙は、便箋が三枚あった。家の体面、婚約の重み、波風を立てるなという言葉が、丁寧な筆で並んでいた。今朝のものは、指で挟むと、一枚しかないのが分かった。


侍女が下がるのを待ってから、封を切った。


文字は、父のものだった。定例の手紙と同じ筆だ。ただ、行が少ない。


昨夜のことは聞いた。

お前の判断に任せる。

殿下との婚約を続けるか否かは、お前が決めよ。

どこに住み、どう暮らすかも、同じだ。

家は、どちらも指定しない。

ヴァルナ侯爵家の処置は、王家が扱う。


それで終わりだった。署名があって、日付がある。


便箋の裏を返してみた。何も書いていない。封筒の中も覗いた。二枚目はない。追って書く、ともない。父は、これで全部だと決めて封をしたのだ。


エリゼは、もう一度初めから読んだ。


慰めの言葉はない。よくやったとも書いていない。叱る言葉もない。定例の手紙にあった、家の体面という言葉が、一度も出てこない。波風を立てるな、という一行も消えていた。


家と婚約の結びつきが、自由のない理由だった。父の手紙を初めて読んだ日に、そう書いた。婚約を捨てれば家が割れる。だから、動けない。あの日の紙は、今も机の引き出しにある。


今朝の手紙は、その結びつきを、父の側からほどいていた。婚約を続けても、家は何も言わない。終えても、何も言わない。どこへ行けとも、どこにいろとも書いていない。書いていないことが、この手紙のいちばん長い部分だった。


侯爵家の一行だけが、少し調子が違った。王家が扱う。父は、それ以上を書かなかった。書かないことで、その件を娘の手から外していた。ロゼッタの処分を見届けることも、侯爵家に何かを言うことも、エリゼの役目ではない。そう読めた。


手紙を膝の上に置いた。


窓の外で、中庭の石が朝日を返していた。制服の人影が、遠くを横切っていく。初めての朝に見たのと、同じ景色だった。同じ景色が、今朝は少しも怖くなかった。


机に向かった。引き出しを開けると、この二十日あまりの紙が、日付の順に重なっていた。いちばん上は、昨夜遅くに書いた短い行だ。いちばん下の一枚には、天蓋付きの寝台、重いカーテン、水差し、とだけある。名前も、身分も、まだ書けなかった朝の紙だった。見たものを、見たとおりに並べることから始めた。並べ方は、最後まで変えなかった。変えなかったから、昨夜、一枚の写しで足りた。


エリゼは束を戻し、新しい紙を一枚出して、ペンを取った。この部屋に来てから、毎晩、見たものだけを行に分けてきた。今朝も、同じようにする。


汚名は外れた。茶会の非礼は認め、詫びた。染料の注文は、自分のものではないと紙で示した。ハンナが、ロゼッタの名を言った。マリエが、茶会のあとには何もなかったと言った。殿下は、破棄の撤回を申し出た。答えは、まだ出していない。父は、婚約も住まいも、自分に任せた。侯爵家のことは、王家が扱う。


そこまで書いて、ペンが止まった。


次の行に、何を書くか。


婚約を続ける、と書くこともできる。終える、と書くこともできる。どこで暮らす、と書くこともできる。どれを書いても、今朝は誰も止めない。


止めないから、書かなかった。


決めるためのことは、まだ揃っていない。殿下の申し出が、昨夜の広間の灯の中でだけ出た言葉なのか、灯が消えたあとも残る言葉なのか、まだ見ていない。自分がこの土地で、何をして生きたいのかも、まだ見ていない。見ていないものを、あるように書けば、あとでいちばん高くつく。前の人生でも、この部屋でも、そうだった。


エリゼは、空いた行の頭に、小さく線を一本引いた。ここは書くための場所だ、という印だけを残した。


ペンを置く。茶は、少しぬるくなっていた。一口飲んだ。苦くはなかった。


空いた行を、もう一度だけ見た。埋めたい、という気持ちはあった。埋めてしまえば楽になる。楽になるために書いた行は、あとで自分を縛る。昨夜まで、婚約と汚名がそうしていたように。今度は、自分の書いた一行が同じことをする。それは避けたかった。


鏡の前を通るとき、足が止まった。


栗色に近い髪の娘が、こちらを見ていた。初めての朝と、同じ顔だ。けれど今は、この顔に返事ができる。呼ばれた名前を、自分の名前として受け取れる。


受け取ったうえで、この先をどうするかは、まだ決めていない。


決めていないことを、決めていないまま持っていられる。婚約にも、汚名にも、家の体面にも預けずに。それを誰に言う必要もなかった。


扉の外で、朝の廊下が動き始めていた。足音と、盆の触れ合う音と、遠くで誰かを呼ぶ声。どれも、昨日の朝と変わらない。変わったのは、その音の中に、自分を待っている結論が一つもないことだった。エリゼは窓を少しだけ開け、入ってくる風の温度を確かめた。


行き先の行は、まだ白いままだった。

お読みいただきまして、ありがとうございました。

二十話、ここで完結です。

最後まで読んでくださって、本当にありがとうございます。

感想をいただけると、とても嬉しいです。


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― 新着の感想 ―
第二王子、断罪される側が無実の証拠を揃えるのではなく断罪する側がこの者は言い逃れ出来ないと言う証拠を揃えなくては。 噂だけで罪を問うてたら冤罪ばかりが生まれてしまう。
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