第18話 帳面を開く
前回の続きです。
破棄の言葉が落ちたあと、広間はしばらく息をしていなかった。
エリゼは、落ちた言葉を拾わなかった。泣きもしない。膝も折らない。壇上のセドリックを見上げたまま、自分の中で、聞いたことを順に並べ直していた。罪状は二つ。嫌がらせと、侮辱。侮辱は嫌がらせの上に立っている。嫌がらせは、茶会の一度と、そのあとに分かれる。証として示されたのは、汚れた制服と、差出人のない訴え。
全部、聞いた。聞き終えたから、答えられる。
「殿下。」
声は、思っていたより静かに出た。周りが黙っているぶん、よく通った。
「お答えしてもよろしいでしょうか。」
セドリックの眉が、わずかに動いた。取り乱した弁明か、泣き落としを待っていた顔だった。どちらでもない声に、一拍、返事が遅れた。
「……申してみよ。」
「まず、春の茶会のことです。」
エリゼは一度、特待生たちの輪のほうへ目をやった。マリエがいる。目が合う。逸らさない。
「わたくしが茶会の席で、ランベール様を罵ったこと。これは認めます。」
「認めたわ。」
「ご自分で?」
ざわめきが起きた。ロゼッタの扇が、ほんのわずかに開いた。
その日のことを、エリゼは覚えていない。ただ、この体に来てから、何人もの口から同じ話を聞いた。侍女が言った。別の使用人も言った。マリエ本人も、罵られたことは覚えていると言った。見た人が複数いて、話の中身が揃っている。記憶がないから違う、と言えば、確かめようのないことで人の目を否むことになる。
「あの席での言葉は、非礼でした。ランベール様に、お詫び申し上げます。」
マリエに向けて、軽く頭を下げた。長くはしない。ここで長く下げれば、許しを求める仕草になる。許すかどうかを、この場で彼女に預けるつもりはなかった。
顔を上げて、壇上に戻る。
「ですが、そのあとのことは別です。」
「別、とは。」
「その制服を染めた染料を、わたくしは注文しておりません。命じてもおりません。」
「口で言うだけなら、誰にでもできる。」
セドリックの声には、庭で聞いたときと同じ硬さがあった。あのとき、エリゼは証を持っていなかった。だから、命じていない、とだけ言って黙った。
今夜は違う。
「はい。ですから、紙をお持ちしました。」
左の袖に指を入れた。布の包みを抜き、ほどく。二つ折りの紙を、灯の下で開いた。広間じゅうの目が、その一枚に集まるのが分かった。
指先が、わずかに震えていた。震えを止めようとはしなかった。止めようとすれば、そちらに気を取られる。紙の折り目を伸ばし、墨の行が灯を受けるように傾けた。昨夜、商会の奥で番頭が写してくれたときと、文字は一つも変わっていない。変わっていないことを、もう一度目で確かめた。
「ルブラン商会という染物商の、注文の帳面の写しです。番頭が、控えから一枚だけ写したものです。控えそのものは、今も商会にございます。」
官吏の一人が、壇から降りてきた。エリゼは紙を差し出し、官吏が読みやすいよう、指で行を示した。
「注文の品は、染料です。色の記しは、青がかった濃い紫。」
官吏の目が、捧げられた制服へ動いた。広間の何人かも、同じほうを見た。
「日付は、ランベール様の制服が汚れて見つかる、三日前です。」
「その紙が偽りでないと、どう示す。」
「商会の番頭は、ジルと申します。控えの帳面は、店の奥にございます。どなたかをお遣わしになれば、今夜のうちにでも照らし合わせられます。わたくしが持っているのは、写し一枚だけです。一枚しかないものを、これ以上に言うつもりはございません。」
セドリックは、すぐには返さなかった。官吏が紙から顔を上げ、王子を見た。王子は、小さく顎を引いた。続けよ、という意味だった。
「……それで。」
「注文の名は、こうあります。ヴァルナ侯爵家、ロゼッタ様付きの侍女。」
「ヴァルナ家の?」
「まさか。」
令嬢たちの輪で、ロゼッタの周りだけ、人が半歩ずつ退いた。ロゼッタ本人は、扇を開いたまま動かなかった。
「ただ、注文の際に見せた印章は、わたくしのものです。クローデル家の、わたくし個人の印。帳面にもそう控えてあります。」
広間が、またざわめいた。
「では、やはりそなたが。」
「わたくしは、自分の印章を自分で持ち歩いておりません。」
エリゼは、そこで初めて、後ろを振り返った。
ハンナが立っていた。両手を前に重ねたまま、顔色がない。灯の下で、唇だけが薄く白かった。
「わたくしの身の回りの品を預かっているのは、この侍女です。印章もそうです。」
ハンナの名は、紙には書いていない。紙にあるのは、ロゼッタ付き侍女という名と、エリゼの印章。その二つが同じ注文に並んでいる理由を、エリゼは知らない。知らないことを、自分の口で埋めるつもりはなかった。埋められるのは、その場にいた人だけだ。
侯爵家の名も、同じだった。紙にあるのは侍女という肩書きで、ロゼッタ本人の名ではない。茶席で見た目の動きは、紙にならない。紙にならない名を口にすれば、今度は自分が、差出人のない訴えと同じことをする。だから、ロゼッタのほうは見なかった。
「ハンナ。」
名を呼んだ。
ハンナの肩が、小さく跳ねた。
「前へ。」
ハンナは、一歩出た。もう一歩。主の隣まで来て、止まった。
「侍女が?」
「公爵家の……」
周りの目が、主から侍女へ移った。セドリックも、壇上からハンナを見下ろしていた。
「わたくしは、あなたに染料の注文を命じましたか。」
ハンナは答えなかった。
「わたくしの印章を、ルブラン商会で見せたのは、誰ですか。」
長い沈黙があった。ハンナの指が、重ねた手の中で白くなっていく。許可を求めてきたあの日、次の言葉を失った顔を一瞬だけした。今の顔は、あのときの続きだった。命令を待たずに動く手は、命令がないと、行き場をなくす。
「……わたくしです。」
かすれた声だった。
「お嬢様のお言いつけでは、ありません。」
「では、誰の。」
ハンナの目が、一度だけ、令嬢たちの輪のほうへ動いた。そこに扇を持って立つ人を、見た。
「報酬を、くださったのは。」
唇が震えた。
「ロゼッタ様です。」
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次回は「第19話 選ぶ前」です。




