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第17話 婚約破棄

前回の続きです。

広間の中央は、思っていたより明るかった。


吊り灯の真下だった。自分の影が、足もとに小さく丸まっている。壇までは十歩ほど。見上げる角度で、セドリック・リュシアンが立っていた。周囲の人の輪は、一定の距離を空けて止まっている。誰も近づかず、誰も離れない。見るための距離だった。


ハンナは、エリゼの斜め後ろで止まった。中央へ呼ばれたのは主だけだ。侍女がそれ以上前に出れば作法に外れる。外れないところで、ハンナは止まっていた。


セドリックは、しばらく何も言わなかった。広間が完全に静まるのを待っている。弦の余韻が消え、誰かの杯が卓に置かれる音がして、それも消えた。


「エリゼ・クローデル。」


呼び捨てだった。婚約者を呼ぶときの敬称が、落ちている。


「今、呼び捨てに……」


「しっ。」


広間のどこかで、小さく息を呑む音がした。


敬称を落とすのは、怒りの勢いではできない。こういう場で、王子の口は習ったとおりに動くはずだ。それが動かなかった。今夜の言葉はもう、壇の上で組み上がっている。


「この場に集う者たちの前で、告げねばならないことがある。」


セドリックの声はよく通った。震えてはいない。怒りに任せた声でもない。前もって言葉を決め、何度か口の中で確かめてきた人の声だった。


「そなたは、この学園に学ぶ特待生、マリエ・ランベールに対し、長きにわたって執拗な嫌がらせを重ねてきた。」


罪状の一つ目が、そこで置かれた。エリゼは頭の中で、その文を二つに分けた。茶会の一度と、その後。前者は、自分の知らないところで起きたことだが、複数の口から揃って聞いている。後者は、まだ誰の目からも聞いていない。セドリックはその二つを、一つの文にまとめて言った。


「春の茶会において、そなたは衆目の前でランベールを罵った。これは多くの者が見ている。」


見ている、と言った。そこは正しい。


「その後も、嫌がらせは止まなかった。持ち物が失われ、机に心ない紙が置かれ、そして。」


持ち物が失われた、というのは、エリゼは見ていない。机の紙も、見ていない。誰が見たのかも、今の言葉には入っていなかった。見た人の名がない話は、聞いたとおりに覚えておく。否むのでも、認めるのでもなく、聞いた、とだけ置いておく。


セドリックが片手を上げた。壇の脇から官吏が進み出る。両手に、布を捧げていた。広げると、制服だった。予備の制服。裾と胸に、青に近い濃い紫の染みが広がっている。灯の下で、色はいっそう暗く見えた。


「あれ、教室の前で見た……」


「ひどい色。」


広間がざわめいた。扇の陰で、何人かが頷き合った。


「これが、その証だ。」


セドリックは制服を示した。


「ランベールの予備の制服が、染料で汚された。水では落ちぬ色だ。偶然にこのような汚れ方はしない。何者かが、意図して染めた。そしてこの件について、学園には幾度も訴えが寄せられている。いずれも、そなたの名を挙げて。」


訴え。差出人のない紙のことだろう。エリゼの部屋にも、似た紙が来ていた。名を書かずに人の名を挙げる紙は、何枚集まっても、書いた人の顔を持たない。


袖の中の紙が、肘の内側に当たっていた。


今、出すことはできる。出して、この染みの出所はここにある、と言うことはできる。だがそれをすれば、宣告の途中で口を挟んだことになる。王子の言葉を遮った、という事実が、紙より先に広間に残る。それに、まだ罪状は一つしか聞いていない。一つ目に答えているあいだに、二つ目が別の形で置かれるかもしれない。答えるのは、問われたことを全部聞いてからだ。前の仕事で、相手の話を途中で遮って、あとで本当に問われていたことを取り違えたことがある。同じ間違いは、ここでは取り返しがつかない。


エリゼは手を下ろしたままでいた。


「加えて。」


セドリックの声が、わずかに低くなった。


「そなたは王家の婚約者でありながら、王家が学びの機会を与えた者を、身分を理由に貶めた。特待生の制度は、王家の名において設けられている。その者を辱めることは、王家の名を辱めることに等しい。これは、王家への侮辱である。」


二つ目。特待生への嫌がらせと、王家への侮辱。後者は前者の上に立っている。前者が崩れれば、後者は立つ場所を失う。逆に、前者を認めたまま後者だけを争うことはできない。問われているのは、実のところ一つだった。茶会のあとに続いたとされる嫌がらせを、誰がやったのか。


エリゼは、壇上の顔を見た。セドリックは、こちらを見下ろしていた。目の奥にあるのは、憎しみではなかった。決めたことを最後までやり遂げようとする人の、固い目だ。匿名の訴えと、汚れた制服。二つを並べて、彼はここに立つと決めた。決め手にしたものが二つしかないことを、彼自身がどこまで分かっているのかは、顔からは読めない。


視界の端で、ロゼッタが扇を胸もとに寄せていた。痛ましいものを見る顔を作っている。マリエは、特待生たちの輪の中から、じっと制服を見ていた。自分の服が掲げられているのに、恥じる様子はない。何かを確かめるように、染みの位置を見ていた。


背後のハンナは、動かなかった。靴の音も、衣擦れもない。


動かないことが、かえって耳についた。入口では、重心を移す音がした。柱のそばでも、一度した。今は、それもない。息を殺しているのか、ただ侍女らしく控えているのか、背中越しでは分からない。分からないから、振り返らない。振り返るのは、振り返る理由が紙の上にそろってからだ。


手のひらが少し湿っている。袖の紙に汗が移らないよう、エリゼは指を軽く開いた。膝は、折らなかった。


「エリゼ・クローデル。」


セドリックがもう一度名を呼んだ。


「以上の罪により、私は王家の名において、そなたとの婚約を、ここに破棄する。」


言葉は、広間の真ん中に落ちた。


誰も声を上げなかった。吊り灯の蝋が一本、小さく爆ぜた。


「……破棄。」


「本当に、なさったわ。」


囁きが、遅れて輪を回った。ロゼッタが扇で口もとを隠した。マリエは、まだ制服を見ていた。


エリゼは、袖の上から紙の角に触れた。


問われたことは、これで全部聞いた。

お読みいただきまして、ありがとうございました。

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次回は「第18話 帳面を開く」です。


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