第16話 広間の中央
前回の続きです。
創立祭の夜は、門から広間まで灯が続いていた。
馬車を降りると、石畳に油の匂いが残っていた。灯を増やすために、昼のうちに誰かが足したのだろう。エリゼは裾を持ち、段を一つずつ上がった。踵の置き方は、今夜も体が決める。頭は、別のものを数えていた。
来ないという選び方も、あるにはあった。熱を出したことにして、部屋にこもる。だが、招待の文面と官吏の顔と、訴えがこの夜まで留められてきたという話を並べれば、今夜ここで何かが決まるのは見えている。自分がいなくても、決まるものは決まる。いないところで決まった結論は、あとから紙を何枚持っていっても、覆すより先に、なぜ来なかったかを問われる。だから来た。それだけの理由で、段を上がっている。
左の袖の内側に、紙が一枚ある。ルブラン商会の番頭が写した、注文の写しだ。折り目は二つ。汗で墨が滲まないよう薄い布で包み、縫い目の近くに挟んである。腕を下ろすと、紙の角がかすかに肘の内側に触れる。触れるたびに、まだある、と分かる。分かるのはそれだけで、紙はそれ以上のことを何も言わない。
背後には、ハンナがいる。
侍女は主の半歩後ろを歩く。作法どおりの距離だった。今朝、髪を結ったのもハンナだ。櫛の入れ方も、ピンを刺す順も、いつもと変わらなかった。変わらないことを、エリゼは鏡越しに見ていた。見ていただけで、何も言っていない。今夜は背後の足音を振り返らない、と決めたのは昨夜だ。振り返れば、顔を見られる。顔を見られれば、ハンナは次の手を考える。命令を待たずに動く手だということは、もう何度も見てきた。
入口で、官吏が招待状を改めた。二日前に届いたものと同じ紋が、封蝋に押してある。官吏はエリゼの顔を一度見て、すぐに目を落とした。栄誉の招待を受けた客に向ける目ではなかった。かといって、咎める目でもない。役目の先を知っている人の、置き場のない目だった。
「どうぞ、お入りください。」
扉の内側は、音でできていた。弦の調べ。杯の触れ合う音。衣擦れ。笑い声は多いのに、どれも少しずつ抑えてある。天井は高く、吊り灯の蝋が何十本と燃えている。床は磨かれて、その灯をもう一度映していた。
エリゼが一歩入ると、近くの声が止んだ。
隣の声が低くなる。低い声が、奥へ運ばれていく。
誰も指ささない。誰も名を呼ばない。扇が一つずつ、こちらを避けて傾いた。
「来たのね。」
「よく顔を出せるものだわ。」
背中のほうで、そういう声がした。誰の声かは見なかった。見れば、その人の顔と言葉が結びつく。結びついたものは、あとで離しにくい。今夜の自分に要るのは、誰が何を言ったかではなく、誰が何を見たかだった。囁きは、見たことの代わりにならない。
嫌われていることは、もう知っている。知っていることを、改めて確かめる必要はない。エリゼは壁際の柱のそばまで歩き、そこで止まった。背後の気配も止まる。ハンナは主の影に入るように立ち、両手を前で重ねた。
広間の奥に、一段高い場所がある。王家の席だ。セドリック・リュシアンは、そこにいた。正装の肩に、灯が落ちている。側近と官吏が二人、少し後ろに控えていた。セドリックは杯を持っていない。周りの誰とも、長くは話していない。視線は一度だけ入口のほうへ流れ、エリゼのいる柱のところで止まり、すぐに戻った。
約束をした相手を探す目ではない。確かめる目だった。来たかどうかを。
エリゼは会釈をしなかった。こちらから近づけば、何かを弁じに来たと見える。言うべき紙は袖の中にあるが、まだ誰にも見せる順番ではない。
順番は、昨夜のうちに決めてあった。呼ばれたら、行く。言われたことを、終わりまで聞く。聞きながら、見た人のいる話と、聞いただけの話を分ける。認めるべきものがあれば、先に認める。紙のない名前は、口にしない。紙を出すのは、そのあとだ。決めたことは多くない。多くないから、灯と人の目の中でも、手放さずにいられる。
反対側の壁際に、マリエ・ランベールがいた。特待生たちが数人、目立たない色のドレスで固まっている。マリエもその中の一人で、飾りは少ない。背筋は伸びていた。周りの学生が落ち着かない様子でこちらを盗み見るなか、マリエだけは、目が合っても逸らさなかった。恐れていない顔だ。廊下で話した日と、同じ顔だった。エリゼは頷きもしなかった。ここで頷けば、二人のあいだに何かがあると見える。取ったのは証言一つで、それ以上のものはない。
「エリゼ様。」
柔らかい声がした。ロゼッタ・ヴァルナが、令嬢たちの輪から一人で抜けてきていた。淡い色のドレスに、細い真珠の飾り。扇を半分だけ開いている。
「いらしたのですね。お加減が悪いのではと、皆で案じておりましたの。」
「ご心配をおかけしました。」
「今夜は、どうかお気を強くお持ちになって。何があっても、わたくしはエリゼ様のお味方ですわ。」
何があっても、と言った。何があるのかを、ロゼッタは言わなかった。言わないまま、目が一度だけ壇上へ動く。セドリックの位置を確かめて、またこちらへ戻る。茶席で見たのと同じ順番だった。同情の言葉より先に、王子のいる場所へ目が行く。
「ありがとうございます。」
エリゼはそれだけ返した。ロゼッタは扇を閉じ、微笑んで輪へ戻っていった。背後で、ハンナの靴がわずかに鳴った。重心を移した音だ。何かを言いかけてやめたのか、ただ足が疲れたのか、音だけでは分からない。分からないものは、分からないまま置いておく。
弦の曲が一つ終わった。次の曲は始まらなかった。
楽師たちが弓を下ろす。広間の話し声が、波の引くように小さくなる。壇上で、官吏の一人が前へ出た。手に巻いた紙を持っている。セドリックは座らず、その横に立ったままだった。
エリゼは袖の上から、左腕に軽く手を添えた。紙の角が、布越しに指へ当たる。一枚。持ってきたのは、この一枚だけだ。足りるかどうかは、開くまで分からない。開く前から、足りると思わない。
官吏が咳払いをした。
「クローデル公爵家、エリゼ・クローデル嬢。」
名前が、広間の天井まで上がった。
「中央へ。」
「中央ですって。」
「やはり、今夜なのね。」
人の輪が、音もなく割れた。磨かれた床に、灯の筋が一本通る。その先は、壇の真下だった。エリゼは柱のそばを離れた。背後の足音が、半歩遅れてついてくる。
歩くあいだ、周りの顔は見なかった。見なくても、目がこちらに集まっているのは分かる。裾が床を擦る音と、自分の踵の音と、その後ろのハンナの靴の音。広間で鳴っているのは、それだけになっていた。胸の奥が、提出の朝のように固い。固いまま、足は止まらない。
広間の真ん中で、彼女は足を止めた。
見上げた先で、セドリックが一歩、前へ出た。
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次回は「第17話 婚約破棄」です。




