↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
15/20

第15話 帳面の写し

前回の続きです。


ルブラン商会の軒灯は、通りでいちばん遅くまで点いていた。


宿舎を出たのは、夕食の皿が下げられた直後だった。家令は明日の衣装の最後の手直しに、仕立屋の女を二人呼んでいる。ハンナはその横で、針と糸を運ばされていた。廊下の端の部屋から、裾の長さを言い合う声が聞こえる。


(みんなの目は、布の上。今なら出られる)


エリゼは地味な外套を羽織り、使用人の通用口から出た。角を二つ曲がって、辻馬車を拾う。


店は、石畳の広い通りに面していた。飾り窓に、染めた布が色の順に吊ってある。赤、黄、緑、青。端の青は、夜の灯の下で紫に近く見えた。


扉の上に、看板が一枚。円の右上が途切れ、その下に短い縦線。


請求書の隅で見た形が、今夜は人の背丈より大きい。


扉を押すと、鈴が鳴った。


帳場の奥で、白髪まじりの男が顔を上げた。眼鏡を額に押し上げ、ランプの芯を少し上げる。閉める支度をしていたのだろう。机の上で、帳面が閉じかけていた。


「申し訳ございません、今夜はもう……」


声が、途中で止まった。


「クローデルのお嬢様、でいらっしゃいますか。」


エリゼは頭巾を下ろした。


「ええ。」


「これは……大きくなられて。」


男は帳場から出てきて、深く頭を下げた。


「番頭のジルでございます。お覚えではないでしょう。お小さいころ、乳母様に手を引かれて、よく布を選びにいらっしゃいました。見本帳の端を握って、なかなか離してくださらなかった。」


(……覚えてない)


この体の幼いころは、エリゼの中のどこにもない。けれど、ジルの顔には、嘘をつく人の急ぎがなかった。懐かしい話を、懐かしいまま話している。


「そうでしたか。」


それだけ言った。覚えていると言えば、次の話で崩れる。覚えていないと言えば、空気が冷える。どちらも、今夜は要らない。


「今夜は、お願いがあって来ました。」


ジルの顔が、商いの顔に戻った。


「最近、この店で、私の印章を見せて入った注文はありますか。」


エリゼは外套の内から、小さな印章を出した。目覚めた日から、机の引き出しにあったものだ。柄の紋章は、手紙の封蝋と同じ。


ジルは、少しだけ目を細めた。


「お客様の注文は、本来、よそにはお話しできません。」


「分かっています。でも、この印章を見せて入った注文なら、控えは印章の持ち主が見てもいいはずです。持ち主の知らない注文が、持ち主の名で通っているなら、なおさら。」


ジルはしばらく黙っていた。


眼鏡を下ろし、帳場に戻る。閉じかけの帳面ではなく、棚から別の一冊を抜いた。頁を繰る指が、途中で止まる。


「ございます。十七日前の夕方です。」


頁は、こちらに向けなかった。自分で読み上げる。


「染料。布染め用、深菫。水で落ちにくい品を、と念を押されました。小瓶で二つ。代金は、その場で現金で。」


深菫。


教室の前で見た制服が、目の裏に浮かんだ。青に近い、濃い紫。布の目に食い込んで、水では落ちなかった色。


「注文の名は?」


「ヴァルナ侯爵家、ロゼッタ様付きの侍女、と記してございます。」


エリゼは顔を動かさなかった。動かさないように、指先に力を込めた。


(――ヴァルナ)


藤色のカード。蜂蜜の焼き菓子。三つの問い。


浮かびかけたものを、息と一緒に押し戻す。


「そのとき、見せた印章は?」


「クローデル家のものでございました。お嬢様の御用だと。妙な注文だとは思いました。侯爵家の侍女の名で、公爵家の印章を見せる。ですが、印は本物でした。念のため、控えに印影を写してございます。」


ジルが帳面の余白を指さした。蝋に押した跡が、墨で写し取ってある。


エリゼは自分の印章を、その横に並べた。


紋章の線の数。縁の欠け。柄の傷が作った、小さな点。


同じだった。


「来たのは、どんな人でしたか。」


「若い侍女の方でした。頭巾を深くかぶっておられて、お顔は、よくは。」


見ていない、とジルは言った。見ていないものを、見たようには言わない。


(それで十分。この人の言葉は、信じられる)


「その頁の写しを、一枚いただけますか。」


ジルは頷き、新しい紙を出した。


ペンの音だけが、しばらく店に響いた。日付、品名、色、量、代金、注文の名、印章の記録。印影も写し取る。最後に「帳面の写しに相違なし」と書き、番頭の署名を入れて、店の印を押した。


円の右上が途切れた、赤い印。


灰の端。請求書の隅。看板。そして今夜で、四度目だった。


「ほかに、お調べすることはございますか。誰が瓶を受け取りに来たか、ほかの店にも同じ注文がなかったか。あたってみることはできます。」


親切な申し出だった。エリゼは首を横に振った。


「いいえ。これだけで結構です。」


それ以上頼めば、この店を自分の争いに引き込むことになる。引き込まれた店の言葉は、あとで「公爵家に頼まれた言葉」と呼ばれる。マリエに弁護を頼まなかったのと、同じ理由だ。


(それに、この一枚に書いてあることで、もう足りてる)


書いていないことを今夜のうちに埋めようとすれば、また想像で紙を汚す。


「ジル。今夜、私が来たことは。」


「帳面には、つけておきません。」


ジルは少し笑った。


「見本帳を離さなかったお嬢様が、今度は写しを一枚だけ持っていかれる。それだけのことでございます。」


エリゼは写しを受け取り、二つに折って袖に入れた。


薄い紙だった。重さは、ほとんどない。


帰りの辻馬車の中で、一度だけ開いた。窓から入る街灯の光が、揺れながら文字の上を通り過ぎていく。


十七日前。深菫の小瓶が二つ、現金で。注文の名は、ロゼッタ・ヴァルナ付きの侍女。見せた印章は、エリゼ・クローデルのもの。


誰が店に来たのかは、書いていない。誰が金を出したのかも、書いていない。


書いてあるのは、自分の印章が、自分の知らない注文に使われたこと。その注文が、誰の名で入ったか。それだけだ。


(それだけで、明日は足りる)


足りないところは、明日、答えるべき人が答えればいい。


宿舎の通用口は、出たときのまま開いていた。廊下の端の部屋では、まだ裾の長さを言い合う声がしている。


エリゼは袖の上から、紙の角にそっと触れた。


重さのない、この一枚。明日の夜、あの広間で、どれだけの重さになるのか。

お読みいただきまして、ありがとうございました。

続きが気になった方は、評価やブックマークをしていただけると励みになります。

次回は「第16話 広間の中央」です。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。