第15話 帳面の写し
前回の続きです。
ルブラン商会の軒灯は、通りでいちばん遅くまで点いていた。
宿舎を出たのは、夕食の皿が下げられた直後だった。家令は明日の衣装の最後の手直しに、仕立屋の女を二人呼んでいる。ハンナはその横で、針と糸を運ばされていた。廊下の端の部屋から、裾の長さを言い合う声が聞こえる。
(みんなの目は、布の上。今なら出られる)
エリゼは地味な外套を羽織り、使用人の通用口から出た。角を二つ曲がって、辻馬車を拾う。
店は、石畳の広い通りに面していた。飾り窓に、染めた布が色の順に吊ってある。赤、黄、緑、青。端の青は、夜の灯の下で紫に近く見えた。
扉の上に、看板が一枚。円の右上が途切れ、その下に短い縦線。
請求書の隅で見た形が、今夜は人の背丈より大きい。
扉を押すと、鈴が鳴った。
帳場の奥で、白髪まじりの男が顔を上げた。眼鏡を額に押し上げ、ランプの芯を少し上げる。閉める支度をしていたのだろう。机の上で、帳面が閉じかけていた。
「申し訳ございません、今夜はもう……」
声が、途中で止まった。
「クローデルのお嬢様、でいらっしゃいますか。」
エリゼは頭巾を下ろした。
「ええ。」
「これは……大きくなられて。」
男は帳場から出てきて、深く頭を下げた。
「番頭のジルでございます。お覚えではないでしょう。お小さいころ、乳母様に手を引かれて、よく布を選びにいらっしゃいました。見本帳の端を握って、なかなか離してくださらなかった。」
(……覚えてない)
この体の幼いころは、エリゼの中のどこにもない。けれど、ジルの顔には、嘘をつく人の急ぎがなかった。懐かしい話を、懐かしいまま話している。
「そうでしたか。」
それだけ言った。覚えていると言えば、次の話で崩れる。覚えていないと言えば、空気が冷える。どちらも、今夜は要らない。
「今夜は、お願いがあって来ました。」
ジルの顔が、商いの顔に戻った。
「最近、この店で、私の印章を見せて入った注文はありますか。」
エリゼは外套の内から、小さな印章を出した。目覚めた日から、机の引き出しにあったものだ。柄の紋章は、手紙の封蝋と同じ。
ジルは、少しだけ目を細めた。
「お客様の注文は、本来、よそにはお話しできません。」
「分かっています。でも、この印章を見せて入った注文なら、控えは印章の持ち主が見てもいいはずです。持ち主の知らない注文が、持ち主の名で通っているなら、なおさら。」
ジルはしばらく黙っていた。
眼鏡を下ろし、帳場に戻る。閉じかけの帳面ではなく、棚から別の一冊を抜いた。頁を繰る指が、途中で止まる。
「ございます。十七日前の夕方です。」
頁は、こちらに向けなかった。自分で読み上げる。
「染料。布染め用、深菫。水で落ちにくい品を、と念を押されました。小瓶で二つ。代金は、その場で現金で。」
深菫。
教室の前で見た制服が、目の裏に浮かんだ。青に近い、濃い紫。布の目に食い込んで、水では落ちなかった色。
「注文の名は?」
「ヴァルナ侯爵家、ロゼッタ様付きの侍女、と記してございます。」
エリゼは顔を動かさなかった。動かさないように、指先に力を込めた。
(――ヴァルナ)
藤色のカード。蜂蜜の焼き菓子。三つの問い。
浮かびかけたものを、息と一緒に押し戻す。
「そのとき、見せた印章は?」
「クローデル家のものでございました。お嬢様の御用だと。妙な注文だとは思いました。侯爵家の侍女の名で、公爵家の印章を見せる。ですが、印は本物でした。念のため、控えに印影を写してございます。」
ジルが帳面の余白を指さした。蝋に押した跡が、墨で写し取ってある。
エリゼは自分の印章を、その横に並べた。
紋章の線の数。縁の欠け。柄の傷が作った、小さな点。
同じだった。
「来たのは、どんな人でしたか。」
「若い侍女の方でした。頭巾を深くかぶっておられて、お顔は、よくは。」
見ていない、とジルは言った。見ていないものを、見たようには言わない。
(それで十分。この人の言葉は、信じられる)
「その頁の写しを、一枚いただけますか。」
ジルは頷き、新しい紙を出した。
ペンの音だけが、しばらく店に響いた。日付、品名、色、量、代金、注文の名、印章の記録。印影も写し取る。最後に「帳面の写しに相違なし」と書き、番頭の署名を入れて、店の印を押した。
円の右上が途切れた、赤い印。
灰の端。請求書の隅。看板。そして今夜で、四度目だった。
「ほかに、お調べすることはございますか。誰が瓶を受け取りに来たか、ほかの店にも同じ注文がなかったか。あたってみることはできます。」
親切な申し出だった。エリゼは首を横に振った。
「いいえ。これだけで結構です。」
それ以上頼めば、この店を自分の争いに引き込むことになる。引き込まれた店の言葉は、あとで「公爵家に頼まれた言葉」と呼ばれる。マリエに弁護を頼まなかったのと、同じ理由だ。
(それに、この一枚に書いてあることで、もう足りてる)
書いていないことを今夜のうちに埋めようとすれば、また想像で紙を汚す。
「ジル。今夜、私が来たことは。」
「帳面には、つけておきません。」
ジルは少し笑った。
「見本帳を離さなかったお嬢様が、今度は写しを一枚だけ持っていかれる。それだけのことでございます。」
エリゼは写しを受け取り、二つに折って袖に入れた。
薄い紙だった。重さは、ほとんどない。
帰りの辻馬車の中で、一度だけ開いた。窓から入る街灯の光が、揺れながら文字の上を通り過ぎていく。
十七日前。深菫の小瓶が二つ、現金で。注文の名は、ロゼッタ・ヴァルナ付きの侍女。見せた印章は、エリゼ・クローデルのもの。
誰が店に来たのかは、書いていない。誰が金を出したのかも、書いていない。
書いてあるのは、自分の印章が、自分の知らない注文に使われたこと。その注文が、誰の名で入ったか。それだけだ。
(それだけで、明日は足りる)
足りないところは、明日、答えるべき人が答えればいい。
宿舎の通用口は、出たときのまま開いていた。廊下の端の部屋では、まだ裾の長さを言い合う声がしている。
エリゼは袖の上から、紙の角にそっと触れた。
重さのない、この一枚。明日の夜、あの広間で、どれだけの重さになるのか。
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次回は「第16話 広間の中央」です。




