離心
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北の空は鉛色をしている。
ガイネス帝国の北辺──エーデルヴァイス公爵領は年の三分の二を雪と氷に閉ざされる土地である。帝都カイネスフリードから北へ馬で二十日。途中で森は針葉樹の暗い壁に変わり吐く息は白い煙と化す。
地平線の果てまで灰白の雪原が連なる頃には引き返す気力を失っている旅人が大半であり、事実として北辺を好んで訪れる人間は極めて稀であった。
おそらくは正しい判断である。
エーデルヴァイス公爵家はその果てに居を構えていた。
城砦と呼ぶべき巨大な石造りの館。優美さの欠片もない。装飾を施す余裕があるなら防壁を一尺でも厚くせよ──何代か前の当主がそう遺し、その教えは今日まで忠実に守られている。壁は厚く窓は小さく、全体として見れば巨大な石の棺に等しい。
温もりを求める者にとってはこの上なく不快な建築物であるが、城砦とはそもそも居心地を追求するものではない。敵を殺すか味方を護るかの二択しか存在しない場所であり、この城砦の主もまたそういう種類の人間であった。
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ヘルミーネ・イラ・エーデルヴァイスは四十六になる。
銀灰の髪を無造作に一つに束ねた長身の女だ。北辺の凍土が鍛え上げたような体躯を椅子の背に預け、城砦最上階の一室で密議の相手を見据えていた。顔立ちを美しいと評する者もいるがそれは主に本人の前で媚びを売りたい連中の言い分であり、当のヘルミーネがその種の評価に関心を示したことは生涯で一度もない。
彼女にとって意味のある評価は二つだけである。
役に立つか、立たないか。
その身に流れる血まで凍てついているのではないかと噂される、まさに氷の女将軍なのであった。
卓の向こうにはディートリヒ・セラ・シュヴァルツが座っている。東のシュヴァルツ公爵家嫡男にして父たる当主の名代。三十を少し過ぎた痩身の男で、北辺の寒気が堪えるのか鼻の頭が赤い。だが落ち着きのない体躯とは裏腹に両の目だけは妙に据わっていた。十二公家の合議に幾度も列席してきただけはあるタフな男であった。
「それで」
ヘルミーネは卓上に広げた帝国地図へ視線を落としながら口を開いた。
「陛下のご容態は?」
ディートリヒが静かに首を振る。
「主治医団の見立てでは半年は保たぬと」
「半年か」
ヘルミーネは鼻から短く息を吐いた。
「長いな。あの方はもう十年も寝台の上だ。いっそ……いや、死者に鞭は打つまい。問題はその後よ」
皇帝ヴァルフリードの崩御。
その後に何が起きるか。帝国中の権力者が考えていることであり、考えたくないことでもある。四人の皇子皇女が帝座を窺い、成文化された継承法は存在せず、十二公家の合議という不文律はあるがその手続きすら定められていない。力と謀略で帝座が決まるという構造的な欠陥は三百年間放置されたままであった。
「父は第二皇子を推すべきだと考えております」
ディートリヒが述べた。
「ヴィクトルか。理由は」
「第一皇子は宰相の傀儡です。ルドヴィークが即位すればこの帝国はあの女の掌中に落ちる。第一皇女カテリーナ殿下は温厚に過ぎ、この動乱を乗り切る器とは言いかねます。第二皇女アナスタシア殿下は才媛ですが人脈に偏りがあり──十二公家の広い支持を取り付けるのは難しいかと」
「消去法だな」
「その通りでございます」
衒いのない答えだ。ヘルミーネはそういう人間を嫌いではない。回り道をしない者の言葉にしか耳を傾ける気がないのだから、この名代は正しい態度を選んでいる。
「それからアステール公爵家はどう動いている? 最近は良く名を聞くが」
「亜人貴族派の中核として宰相と交渉を始めたとの情報がございます。当主代行のヘルガ殿が宰相と直接会談を持ったという話も」
「ほう」
ヘルミーネの眉が僅かに動いた。
「あの嫡男──ハインとやら。どういう男だ」
「麒麟児との評判は耳にしておりますが社交の場にはまるでお姿を見せません。副魔術師長との杖比べで相手の面目を潰したという話が伝わっている程度で……実態は帝都でもよく掴めていないようですな」
「ふん。幽霊のような嫡男か」
ヘルミーネは興味を失ったように鼻を鳴らした。実態が見えぬ相手に時間を割くのは彼女の性分ではない。
「それよりもアステール家とサリオン家が手を結んでいるのが面倒だな」
「仰る通りで。帝都防衛の剣と盾を兼ねた二公家を同時に敵に回すのは得策ではございません」
「ならば静観だ。あの二家とは事を構えぬ。──だが、こちらの邪魔をするなら話は別よ。父御にもそう伝えておけ」
ヘルミーネは暫し地図を見つめた。
帝国の版図を描いた粗い羊皮紙の上を視線がゆっくりと這う。北のエーデルヴァイス。東のシュヴァルツ。南西のグラオス。三家の領地を結ぶと帝都カイネスフリードを包囲する三角形が浮かび上がる。
三百年前にも同じ三角形は存在した。
双帝の乱──北方と東方の公家が結んで皇位を争い帝国を二つに割った内乱である。南西のグラオス家は独自に動いて漁夫の利を狙い結果としては双方から信用を失ったのだが、それはまた別の話だ。重要なのは三百年を経てなお帝国の構造は何一つ変わっていないという一事であり、変わっていないのであれば三百年前と同じ力学が作用するのは避けがたい。
歴史は繰り返すのではない。人間が繰り返すのだ。
「グラオス家の状況は」
「南西の貿易路は予定通り確保されつつあります。海路による独自の物資調達を年内に完成させるとの由」
「あの老人は堅実でいい。裏切りもしなければ勇み足もしない」
ヘルミーネの口の端が僅かに持ち上がる。
「ディートリヒ」
名代の青年を見据えた。
「父御に伝えよ。──時は近い、と」
「承知いたしました」
ディートリヒは席を立ち深く一礼した。
ヘルミーネはそれを見送ることなく再び地図に目を落とす。部屋を出て行く足音が石の廊下に反響し、やがて遠ざかって消えた。
◆◆◆
彼女が帝都に抱く感情を一語で名指すのは難しい。憎悪とは違う。軽蔑とも異なる。
失望だ。
──帝国は強くなければならぬ。
それがヘルミーネ・イラ・エーデルヴァイスの二十四年間の信条であった。北の壁として蛮族と雪崩と飢饉を相手に戦い続けた二十四年。その間に帝都が何をしていたか。
宰相ジギタリスが推し進めた人種序列法は帝国の国力を確実に削いでいる。亜人の排除は北辺の防衛力を直撃し、かつて蛮族の侵入を阻む前線で共に戦ってくれていた亜人兵たちは追い出された。ヘルミーネは人手不足を自領の人間だけで賄う羽目に陥った。
あの頃から北辺の冬は一段と厳しい。
戦場では使える者が味方なのだ。人間か亜人かなどは問題にならぬ。
剣を振れる者は隣に立て。振れぬ者は退け。それだけの話である。
──あの女狐にそれが分かるものか。
ヘルミーネは心底そう思う。帝都の温かい宮殿から号令を下すだけの人間に、北で凍えながら戦う者の現実など見える道理がなかった。
「帝国を弱くする者は帝国の敵だ」
ヘルミーネは誰に向けるでもなく呟いた。
その声は石の壁に吸い込まれ外の雪に紛れて消える。
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ところで。
この三家がまったく同じように動いた世界がもう一つ存在する。
「本来の歴史」と呼ばれるその世界においてもエーデルヴァイスとシュヴァルツとグラオスの三家はやはり帝国宰相に反旗を翻した。ただし条件はいささか異なる。本来の歴史には魔王ベルゼイが健在であり、帝国は外敵との大戦の只中にあったのだ。
ジギタリスの暴政は戦時下でより苛烈を極めた。
亜人兵士の使い捨ては常態化し十二公家の自治権は戦時体制の名の下に大幅に制限された。三家はその混乱を──好機と見て動いたのである。
宰相の注意が魔王軍に向いている隙を突き、亜人貴族家の連合と勇者アゼルの助力を得て、ジギタリスの権威を崩壊させている。
反乱は成功した。
しかし勝者が勝利の果実を手にすることはなかった。ジギタリスという女は軍事的に敗北しても政治的には死なない種類の人間であり、彼女は勝者たちの連合に走る亀裂を一つずつ抉り広げてアゼルの仲間を闇に葬り、最終的には同盟を完全に瓦解させた。
重要なのは一点だけだ。
この並行世界には魔王がいない。
ハイン・セラ・アステールが早々に魔王を消し炭にしてしまったため帝国を揺るがす外敵は存在せず、戦時体制も戦場の混乱もない。にも関わらず同じ三家がやはり動き始めている。
同じ三角形が静かに帝都を包囲しつつある。
帝国が百年かけて醸成した矛盾は、触媒の有無に関わらず自ずから膿を噴くべくして噴く種類のものであった。
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さて。
南西のグラオス公爵領では北辺の密議とは対照的に、実に地味な戦争準備が進んでいた。
グラオス公爵家は十二公家の中でも際立って目立たない家柄だ。武勲で名を馳せたこともなければ帝都の政争で主役を張ったこともない。南西の温暖な平野に広がる領地は農業と交易で潤い、祖先から受け継いだ家訓は「勝つよりも負けないこと」であった。
当主のクラウス・セラ・グラオスは六十八になる。
見た目はどこにでもいる善良な爺さんである。腰はやや曲がり声はゆっくりとし、政治的な会合ではもっぱら聞き役に回って穏やかに頷いている。しかしこの穏やかな老人が帝都の物流に一切依存しない独自の補給網を二年がかりで密かに構築していた。
南西の港から海路を通じて南方諸国との直接取引を成立させている。表向きの名目は領内産業の振興。だが実態は有事に帝都から兵糧攻めを受けても領地が干上がらないための保険であった。
剣を振るうことだけが戦争ではない。
兵站が途切れた軍隊は剣を振る前に崩壊する。クラウスはそのことを七十年近い人生で嫌というほど見てきた。双帝の乱の記録を若い頃に読み込んだ彼は、あの内乱で最初に倒れたのは剣の弱い側ではなく糧秣を断たれた側であったことを知っている。
ヘルミーネ・イラ・エーデルヴァイスが「帝国を弱くする者は帝国の敵だ」と鋼のような信条を掲げるのに対し、クラウスはそのような大仰な言葉を一度たりとも口にしたことがない。彼はただ孫の代が飢えずに済む手を黙々と打っているだけである。
その静かな覚悟は──或いは北辺の女傑の剛胆よりもなお底が知れぬものであったかもしれない。
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帝都カイネスフリード。
貴族院の年末議事が終わり各家が領地へ引き上げてゆく中で、宰相府はいつにも増して忙殺されていた。
皇帝の容態。
人種序列法の段階的緩和をめぐる各派との調整。
アステール公爵家との関係改善──ジギタリス・イラ・マリシアが回さねばならない皿の数は増える一方である。
そこへ一通の報告書が届く。
差出人の記載はない。宰相府が帝国各地に配した密偵の一人からの報告であることが書式の暗号から読み取れるだけだ。
内容は簡潔であった。
北方エーデルヴァイス公爵領に東方シュヴァルツ公爵家嫡男が入領。滞在三日。
公式記録なし。
端的極まる情報だが、ジギタリスにとってはそれだけで十分だった。
彼女はこの三家の動きを把握している。ヘルガにも既に開示した情報だ。北と東が密使を交わしていること。南西が独自の補給網を構築していること。それを伝えた上でアステール家との関係改善に踏み出し、人種序列法の緩和にも着手した。
だが三家がその変化を知っているかどうかは──別の話であった。
三家が動き始めたのはジギタリスが方針を転じるより前のことだ。走り出した馬の手綱を外から掴むようなもので、掴めるかもしれないし蹴り飛ばされるかもしれない。
ジギタリスは報告書を卓に伏せ窓の外の夜空を見つめた。冬の星が冴え冴えと光っている。あの星々の一つ一つに名前があるように、この帝国の危機にもそれぞれの名前がある。
「……間に合うかしらね」
誰もいない執務室にその声は落ちた。
帝国で最も権力を持つ女の声にしては──いささか心許ないものであった。




