そういうキャラ⑥
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ユグドラシルは湖のほとりにある。
大森林の最深部、四方を太古の樹々に囲まれた窪地に青く深い湖が一つあり、その南岸を抱くようにして城壁の街がそこに在る。城壁といっても石ではない。樹である。樹齢千年を超えるという常緑のオウキ──ユグドラの民が「世界樹の末妹」と呼ぶ巨木の根が、大地を抱きしめるようにせり上がって城壁の代わりを果たしている。根の隙間にぽっかりと開いた門をくぐると、街の中心からまっすぐに鐘の音が響いてくる。
鐘の音である。
本来の歴史において、この時期この街から響くべきだった音は鐘の音ではなかった。骨の擦れる音。肉の腐る音。生きた者を捕らえようとして放たれる屍兵の唸り声──ユグドラシルは不死王ファビアンの完全復活と同時に死都と化す筈だった。湖は鏡のような水面を血で覆われ、湖畔の家々の窓からは生きた住民を屍に変える腐毒の霧が漂い出していた筈である。
だが現実はどうだ。
鐘が鳴り、香辛料の匂いが街路を流れ、子供たちが鶏を追って駆け回っている。
馬車から降りたアゼル・セラ・アルファイドは、ぐっと背筋を伸ばして大きく息を吸い込んだ。胸の奥に冬の終わりの空気が満ちる。隣ではリゼットが背嚢を背負い直しながら街並みを物珍しげに見回していた。
「とりあえず腹ごしらえだな」
アゼルは即座にそう宣言した。
空腹は勇者の天敵である。アゼル──というより歴代の勇者の大半に共通する性質として、空腹に対して異常なまでに脆い。前線で何時間でも剣を振るえる男が、昼食を抜かれただけで露骨に機嫌を損ねる。
ともかくこの男は腹が減っている。
「酒場へ行こう。安くて量が多いはずだ。この街はなんていうか野菜メインの食事が多いんだけど、これから行くところは肉も出してくれるんだ。冒険者向けの店ってやつだよ」
「お詳しいんですね」
リゼットが感心したように呟いた。
◆◆◆
ユグドラシルの市街は南北に細長い。
湖に面した北側に神殿と政府機関が集中し、南へ下るほど商業地区となる。乗合馬車の発着所は街の南端であり、そこから北へまっすぐに延びる目抜き通りが街の背骨である。アゼルは発着所の門をくぐるなり迷うことなく目抜き通りを北上し、二つ目の角を東に折れた。
迷わなかったのである。
「こちら、来た事がおありなんですか?」
リゼットが追いついてきて尋ねた。
その問いは至極まっとうなものであった。初めて来た街でこうも迷わずに進めるはずがない。リゼットは特に他意なくそう尋ねたのだろう。
しかしアゼルにとっては至極まっとうではなかった。
アゼルがリゼットに自身を紹介する際に用いたカバーストーリーは「ガイネス帝国の貴族の子弟である自分が、見聞を広めるために遊学に来た」というものである。これは半分は事実であり、半分は方便であった。貴族の子弟であるという所までは事実だが、見聞を広めるための遊学という所が方便である。実際は不死王討伐のために来たのだから、本来は「すまんが事情があってな」で押し通すべき所であった。
しかしこの男は嘘がつけない。
嘘がつけない男が遊学を口実にしてしまうと、何が起きるか。来た事のない筈の街で、来た事のある所作を披露する羽目になる。
「ああ、いや……前に、その、旅行で、何度か」
アゼルはそう答えた。声がほんの少しだけ上ずっていた。
ガイネス帝国の貴族の子弟が「旅行で何度か」訪れるような土地が、大森林の最深奥のユグドラシルである筈がない。普通の貴族の遊学先はせいぜい西方海岸都市のレフェナくらいまでである。山を越え森を踏破し、最寄りの宿場町から徒歩三日の僻遠の宗教国家に「旅行で何度か」立ち寄る貴族の子弟がいるとすれば、それは余程の物好きか何かの修行僧であろう。
幸いリゼットは深く追求しなかった。
「そうなんですね。だから道がお分かりなんですね」
甲斐甲斐しく頷くリゼットの目を、アゼルは正視できなかった。
言うまでもない事だが、アゼルは「前の世界」で何度かこの街を訪れている。一度目は不死王の討伐の為に勇者パーティを率いて。二度目は復興の支援の為に。
アゼルがこの街の地理に詳しい理由は、その二度の苦い記憶のうちに刻みつけられたものである。
とはいえ──。
その二度の記憶は、リゼットには決して説明できぬものであった。
アゼルは黙々と歩いた。リゼットは黙々と従った。二人の足音だけが石畳に響くしばし、アゼルは胸の内で「次はもっとうまく嘘をつこう」と固く誓った。
◆◆◆
目抜き通りから一本入った路地に「樫の根亭」はあった。
扉を押すと木と煙と肉と香辛料の匂いが一斉に押し寄せた。天井から吊るされたランプの光が梁に絡みつき、床板は長年の油と酒で飴色に染まっている。昼日中だというのにテーブルの大半が客で埋まっていた。
冒険者である。
腰に剣を吊り背中に弓を担ぎ、ジョッキを片手に下卑た笑い声を上げる連中が、店内のあちこちで小さな円を作って固まっていた。
平和だ。
不死王の脅威も屍兵の侵攻も、ここには何の影も落としていない。本来の歴史においてこの時期のこの店は、店主が己の店の床を這うゾンビになっていた筈だった。
だが現実はどうだ。
その店主は厨房から大鍋を抱えて出てきて、客の一人と「お前まだ前の払い済んでねえぞ!」「払ったろうが!」と言い争いながら鍋の中身を木皿に盛っている。死人にできる芸当ではない。
平和とは斯くも尊いものである──アゼルはそれを心で解し、わずかにその両の眼を潤ませた。
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アゼルとリゼットは奥の小さなテーブルに腰を下ろし、店員の少女に料理を二人前と水を一壺頼む。
「はい、ちょっと待っててね」
少女は短く返してくるりと身を翻した。アゼルはその後ろ姿を見送ってから、店内をぐるりと見回した。
不死王を斃したのは聖女エイラ──冒険者たちはそう言っていた。ならばその情報は更に深掘りせねばなるまい。エイラとは何者でどこにいて、どうやってあの恐るべき怪物を斃したのか。それを知らねば次の動きが決められない。
しかし誰に話しかけるべきか。
アゼルの視線は店内を遊弋し──やがて一人の中年の冒険者の上で止まった。
肩幅が広い。首が太い。腕が二本とも盛り上がっている。革鎧の隙間から覗く前腕には古傷が幾筋も走り、その傷跡の周りに鍛え込まれた筋肉が瘤のように張りつめていた。男はジョッキを片手にカウンターに肘をつき、のんびりと干し肉を齧っている。
「あのおっさんがいいな」
アゼルが小声で呟いた。
「いい筋肉してるぜ」
「は?」
リゼットがすっとんきょうな声をあげる。
「よく鍛えてる証拠だ。ああいうのは大抵いい人だぜ」
「筋肉……?」
リゼットの困惑を残してアゼルは席を立った。
◆◆◆
「よう、おっさん!」
アゼルが朗らかに声をかけた。
中年の冒険者は干し肉を口に運びかけた手を止め、ゆっくりと顔を上げた。日に焼けた赤ら顔、傷の入った左眉、灰色の混じった顎髭。およそ歓迎を表しているとは言い難い表情である。
「凄い筋肉だな! よく鍛えてんなあ! この辺の冒険者ってのはみんなあんたみたいに逞しいのかい?」
「……は?」
冒険者の眉間に皺が寄った。
「なんだ兄さん、いきなり気持ち悪いな……」
冒険者は素直にそう言った。
冒険者にしてみれば当然の反応である。昼間から酒場で干し肉を齧っていた所に、見ず知らずの兄ちゃんが近寄ってきて開口一番「凄い筋肉だな!」と褒めてきたのである。気持ち悪い以外の感想を持てというほうが無理であった。
「ところで」と話を切り替えるアゼル。
この男にとっては上手くトークできたと思ってるのだ。
「ちょっと聞きたい事があってな。最近、不死王ってのが斃されたって聞いたぜ。エイラって人が斃したんだとか」
冒険者の表情がわずかに動いた。
「ああ……聖女様か……」
冒険者はジョッキを置き、髭の生えた口元を片手で拭った。
「まあそうだな、あの人がいなけりゃ危なかったと思うぜ。本当にやばかったんだよ、街道もこっちの森も、最近まで毒霧が出てたからな」
「そうなのか」
アゼルは相槌を打ちながら内心で別の事を考えていた。
冒険者は続けた。
「……ええと、兄さんはあれかい? 聖女様に会いたい、みたいなかんじなのかい?」
「ああ!」
アゼルは即答した。
冒険者の顔に何とも形容しがたい表情が浮かぶ。困惑と警戒と「またか」という諦めを均等に混ぜて煮込んだような表情である。
「そうか……」
冒険者は溜息混じりに呟いた。
「最近はそういう連中が増えてるけどよ……」
はあ、と一つ冒険者は大きなため息をついた。
◆◆◆
「まあいいぜ、聖女様なら北の森にいるはずだ」
冒険者は半ば諦めたように告げた。
「北の森、か」
「ああ。湖の北をぐるっと回っていきな」
「ありがてえ。助かったぜ、おっさん!」
アゼルは深々と頭を下げた。冒険者は「おう……」と気の抜けた相槌を打ち、再びジョッキに手を伸ばした。
ちなみに、ユグドラの大森林は東西南北で大雑把に区画分けされている。
乱暴な分け方ではある。実際には森の中に明確な境界線が走っている訳ではなく、現地の住民が便宜上「東森」「西森」「南森」「北森」と呼び慣わしているにすぎない。しかしその大雑把な区分には一応の根拠があり、それぞれの区画で植生が微妙に異なっている。
東森は針葉樹と苔である。湖から立ち昇る霧が東斜面に集まりやすく、地表は常に湿っている。冷涼な気候を好む薬草が多く採れる土地であった。
西森は湿地と毒草である。地下水脈が西に流れて低地で溜まり、随所に泥沼を形成する。ユグドラの薬師たちが「触るな」と幼少から叩き込まれる類の植物が密生していた。
南森は薬草と果樹である。陽当たりが良く植生が豊かで、ユグドラシルの食料庫の役割も担う。
そして北森は──常緑広葉樹と霧であった。背の高い葉樹が日光を遮り、地面は薄暗い。年中うっすらと霧が漂い、視界が利きにくい。
人が好んで分け入る場所ではない、のだが──。




