五話【叶銘とかなめ】
もはや戦いは避けられない。たとえ、相手が自分自身だったとしても――だ!
俺は再び名枕に「カミキキョウジ」と刻む。刻む名前は同じだが、今度は明確に対象が異なる。神木家の“凶事“にして、俺の闇の部分。俺の苦悩を肩代わりしてきた存在。
俺は、キョージを倒してしまってもいいのだろうか? こいつは、俺の心の一部のようなものではないのか?
ためらう俺の目の前で、キョージは消えた。
「――いや、下か!?」
小柄な外見に油断した。一息で俺の足元に跳ぶことで、まるで消えたかのように錯覚させていた。
「油断しちゃだめだよ、お兄ちゃん」
キィンと高い音が響き、どこまでも真っ白な空間に吸い込まれていく。寸でのところで、キョージの爪を名枕で防いだ。その爪は、まるで刃物のように鋭く、肉を削ぎ取らんと緩やかなカーブを描いていた。
そうだ、忘れてはいけない。子供のような姿をしているが、こいつは、俺を黒い獣に変えていた張本人だ。当然、本人も同様の姿をとることもできるだろう。子供を相手にしているなどと思ってはいけない。
幸い、俺の体は軽く、力は漲っている。魔物を相手する時と同じように、通常の人間を遥かに超えた身体能力を発揮しているはずだ。
しかし、全くそう感じられないほどに、キョージの膂力は俺を凌駕していた。キョージの攻撃を名枕で防ぐたびに、指先から腕にかけて電気が流れるような痺れが走る。上手く力を逸らさなければ、ガードの上から攻撃を叩きこまれる。たまらず距離を取ろうとしても、ピタリと接近したまま追いついてくる。
苛立たしげに見下ろす俺を、キョージは口元に笑みを浮かべてじわじわと追い詰める。わざと急所を狙わず、俺の体力を少しずつ削っていく。その証拠に、わざと名枕で防ぎやすいコースを狙って爪を繰り出す。俺の闇そのものだけに、やり方が陰湿極まりない。
「ずいぶん、その錆びついた剣を頼りにしてるんだね」
キョージが攻撃の手を緩める。その隙をついてキョージの体を蹴り飛ばし、その反動を利用して一気に数メートルの距離を取る。
暑さも寒さも感じられない真っ白な空間で、俺の全身は汗に濡れていた。シャツもズボンも肌に貼り付き、髪の先からは汗の滴が垂れ落ちている。呼吸は荒く、体全体で呼吸をする有様だ。身体能力が上がってから、これほどまで疲労を感じたことは無い。
一方、腹を思い切り蹴られたはずのキョージはケロリとし、何事も無かったかのようにその場に立っている。子供の姿とは言え、手加減をしたつもりは無い。腹を突き破るつもりで蹴ったはずなのに――。
「この剣が気になるか? 俺の家の仏壇から出てきたんだよ」
話題に乗ってやる。まずは荒れた呼吸を整えないといけない。
「――なるほどね。さっき見せてもらったけど、やっぱりそういうことか」
「なに?」
「その銅剣、ぼくの力を一部だけ抽出する媒体なんだね。さっきも言ったけど、ぼくはお兄ちゃんの負の感情そのものであり、剣の力そのものなんだ。その銅剣は、剣の力をちょっとだけ吸い取っているんだね」
そうだったのか。あれは名枕そのものの能力だと思っていたが、この剣はあくまで、俺の能力を抽出するだけのものだったのか。
「これはぼくの推測なんだけどさ。まあ、たぶん当たってるけど」
キョージは首を上げ、どこか遠くを見た。もちろんそこには真っ白な空間しかないが、その目には別の物が映っているようだ。
「父さんは、この時が来るのを知っていたんだね。いや、無理やりにでも、この事態を引き起こそうとしたんだ。そして、その剣でぼくを消し去るつもりだったんだ」
そう言って、名枕を指差す。
なんだって? 父さんが交通事故で死んだのは、今から十年も前の話だ。しかも、キョージが生まれるきっかけになった事件は、父さんがこの世を去った後のことだ。そうなる前から、今のこの事態を予測していたというのか?
「ねえ。ホント、ふざけた父親だよね」ポツリとキョージがつぶやくと、彼の体に浮かんでいた紅い光がうねり始めた。目を凝らして、その様子を遠くから観察する。
危うく名枕を落としそうになった。その光は、大量の文字だった。
イジメッコベンキョウソウジタバコオサケネタミユウジョウワルグチゴキブリヤサイオフロボウリョクアクシュウスポーツコドクシケンチョウショウゴンタセンソウメンドウハンザイオトナ
なんてことだ。体中の紅い光は、全部文字だった。それも、俺が一度でも「嫌だな」と思ったことのほとんどが、その体に刻まれている。
その中に一つ恐ろしい文字が刻まれているのを見つけ、俺はいよいよ体の震えが止まらなくなった。
カミキカナメ
その文字を見つけた時、俺はキョージに背を向けて走り出した。
そんな馬鹿な! 俺の名前だって!?
さっきキョージは何と言っていた。名枕は、キョージの剣の力を抽出するための媒体だと言っていた。それはおそらく当たっている。あの文字の刻まれ方は、名枕と全く一緒だった。
つまり、もしも俺がキョージの攻撃を少しでも食らえば、その剣の力で俺は一瞬にして朽ち果てる。実際に俺は、そうして何体もの魔物を打ち倒してきたのだ。その光景は鮮明に想像できてしまう。
今度は俺が、その力の脅威に晒されている。
勝てるわけがない。身体能力でさえ、キョージの方が上なのだ。そのうえ上位互換の能力を持つキョージに、俺が勝てる見込みは無い――。
俺は走った。走り続けた。脚を止めれば、その瞬間にキョージの爪が俺を貫く。そして体中に紅い光が走り、俺は跡形も無く消滅する――そんなイメージを振り払うように、でたらめに走った。
「出口――出口は無いのか――!?」
「結界」だとか「空間」だとか「壁」だとか、俺は名枕に手当たり次第に言葉をぶつけ、何度も振り回した。しかし、どうしてもこの白の空間を破るワードが見つからない。
「無ぅ駄だよぉ!」
耳元でキョージの声が聞こえた。それでも俺は、ただ前を向いて走っていた。
「お父さんの能力で刺されたとき、咄嗟にお兄ちゃんを“ぼくの中”に閉じ込めたんだ。ほら、あれだよ。今のお兄ちゃんは、お釈迦様の掌の上の孫悟空みたいなものだよ」
ケタケタと甲高い笑い声が聞こえる。俺は両耳を塞ぎ、躓きそうになりながらも走り続ける。
「ねえ、お兄ちゃん。仮にもぼくの未来の姿なんだから、あんまり情けないことしないでよ」
踏み出そうとした脚がもつれる。両手で耳を塞いでいた俺は呆気なくバランスを崩し、顔から地面に叩きつけられる。白い地面に、眩しいほど赤い血が付着する。
まずい! 早く立ち上がらないと! 急いで起き上がろうとするが、両手を真っ黒な足が踏みつける。視線を上げれば、紅い光を身にまとったキョージが退屈そうに俺を見下ろしていた。
紅い光が目に痛い。眩しいのではない。俺の醜さを目の当たりにさせられているようで、酷く恥ずかしく、いたたまれない気持ちになるのだ。
キョージの腹の辺り、張り巡らされた光の文字の中に「ゴンタ」の文字がすぐに目に飛び込んできた。俺の力が暴走するきっかけになったガキ大将の通称。その名前は、他の文字より一際大きく刻まれていた。
「――もう終わりにしようか、お兄ちゃん」
俺の手を踏みつけたまま、キョージがしゃがみこむ。黒く変色した目の中で、紅い瞳が爛々と輝いている。
「お父さんはぼくを消し去りたかったみたいだけど、残念だったね。お兄ちゃんは確かに強くなったけど、ぼくの成長の方が上だったみたいだ。ここまで育ててくれて、ありがとうね」
キョージの声と共に、冷たい息が顔にかかる。臭いも何もなく、ただ冷たい。
「安心してね、お兄ちゃん。今日からは、ぼくが“神木叶銘”になってあげる。お兄ちゃんは、ぼくの中で安らかに眠っていれば、それでいいんだよ」
異様に優しい声で語りかけられる、死刑宣告。
「お前、自分の体を見たことはあるか?」
それを、俺は笑い飛ばした。
絶体絶命のピンチ。もはや、踏みつぶされるのを待つ蟻のような存在。そんなものが急に強がり出したのだから、さすがにキョージも面食らったようだ。キョトンとした顔は、年相応に子供らしい。
「――急にどうしたの、お兄ちゃん。時間稼ぎ?」
「いいから答えてみろよ。自分の体、見たことあるのか?」
立ち上がり、キョージは自分の体を見回す。
「見たよ。これがどうしたの?」
「背中はどうした?」
「背中? 見られるわけないじゃない。だから、それがどうしたのさ?」
さすがにキョージもイライラしてきたようだ。止めを刺される前に、俺は口を開く。今は、この口だけが唯一の武器だ。
「無いんだよ。お前の体に、父さんの名前が」
キョージの動きが止まる。なるほど。感情そのものだけに、心の動きがモロに体の動きに反映されているようだ。
思えば妙だった。キョージの体には、俺が嫌いに思ったものがいくつも刻まれている。その中でも、特別嫌いなものは文字が大きくなっている。「ゴンタ」は、その筆頭だ。
しかし何度思い返しても、キョージと闘っている最中、父さんの名前は見つからなかった。俺とキョージにとって最大の敵であるはずの、父さんの名前が――だ。
ひょっとしたら、ただ単に見落としているだけかもしれない。だから、これは一か八かの鎌掛けだ。
しかしキョージの反応を見ればわかる。その体に、父さんの名前は刻まれていない。これはつまり、何を意味しているのか。
「お前、まだ希望を捨ててないんだろ? ひょっとしたら、自分はまだ、父さんに許してもらえるかもしれないって期待してるんじゃないのか? 愛してもらえるかもしれないと思っているんじゃないか?」
「本当にお前は、父さんを殺したいのか!?」
停止したままのキョージに、俺は言葉をぶつける。しかしこれは、同時に俺自身に投げかけている言葉でもある。
キョージは、俺の分身だ。彼に父さんを殺す気が無いとすれば、それは俺も同じだということだ。俺は、ついさっきまで遊園地で、父さんに名枕を突き立てようとしていたはずなのに。
「……わかんないよ……」
キョージの顔に、新たな紅い筋が流れる。しかし、それは能力による光ではなく、紅い涙だ。無機質な表情のまま、涙だけが意思を持ったようにとめどなく流れ落ちている。
「わかんないよ。わかんないからさ、全部壊しちゃいたいんだ――」
ハッとした。いくら俺の分身とはいえ、受け取っているのは俺の苦悩の経験ばかりだ。わけもわからないまま九歳の時点で切り離され、辛い経験ばかり肩代わり。こんな小さな子供に、力任せに暴れ回る以外、他にどんな抵抗ができるだろうか。誰が責められようか。
いつの間にか、キョージの足がどけられていた。俺は立ち上がり、停止したまま涙だけを流すその子供を見下ろした。紅い文字が揺らめいている。もう、文字なのか模様なのかも判別がつかない。
「情けないけどさ、俺にもわからないんだ」
俺は膝を突き、その小さな体を抱きしめた。その体は冷たく、か細い。
「ごめんな。十年経っても、神木叶銘はこんなにも頼りないんだ。ただ流されるまま、己の意思も持たずに生きてきたツケを、全部お前に押し付けていた」
ぎゅっと、力を込める。
視界の端から、紅い光が消えていく。腕の中が温かくなっていく。視線を向ければ、そこには俺の影はいない。十年ぶりに見る、九歳児の“神木かなめ“だった。
俺たちは手を繋いで歩き出した。その泣き顔を見ようとすると、かなめはぷいっと顔を背けた。ああ、そうだったな。父さんが死んでから、俺は誰にも泣き顔を見せようとはしなかったっけ。
「ほら、向こう」
しゃくりあげながら、しかし泣いていることを悟られないようにと、かなめは短く言って前方を指さした。目を凝らして見れば、あれは門だ。
間違いない。ついさっきまで父さんと一緒に回っていた、『青夏サマーキングダム』の門だ。このまま歩けば、今度はちゃんと脱出できそうだ。
「ぼくは、どうすればいいのかな?」
かなめ曰く、この子供の姿のまま表に出ることはできないらしい。かといって、例の獣の姿になるわけにもいかない。
俺は自分の胸を叩いて、かなめに笑いかけた。
「大丈夫だ、お兄ちゃんに任せろ。きちんと父さんと話し合って、俺たちの気持ちをはっきりさせる。それでやっぱり父さんが憎かったら、二人で父さんをブッ飛ばせばいいんだ」
その表現がおかしかったのか、かなめは顔を背けたままくつくつと肩を震わせた。笑っているらしい。
父さんは、俺の将来のことを考えて色々準備をしてくれた。母さんも、自分の身を削りながら俺を支えてきてくれた。
俺は、自分の家族のことを何も知らなかった。でも、今なら、父さんときちんと向き合って話ができるかもしれない。勇者と魔王ではなく、子供と親として――。
それに気が付けただけでも、この世界に囚われた価値はあったな。俺は一度振り返り、白の世界から出た。
それと同時に、かなめの手の感触が消えた。待ってろよ、かなめ。俺の中で、この戦いの行く末を見守っていてくれ。




