四話【叶銘とキョージ】
真っ白な世界だった。そう表現するしかない空間に、俺は放り出されていた。
「イテッ――」
胸がズキズキと痛む。父さんの言葉を信じるのなら、俺は自分で自分を名枕で刺したらしい。おそるおそる自分の胸を見下ろす。しかし、そこには穴も開いていなければ血が流れた様子も無い。ただ、痛みだけだ。心臓の鼓動に合わせて、ズキンズキンと鈍い痛みが走る。しかしそれも徐々に収まりつつある。
改めて周囲を見渡す。上下左右の感覚が全くない。地面はあるようだが、空中にいる感覚だ。
とりあえず歩き出す。初めのうちはおっかなびっくり足を踏み出していた。そして歩き慣れた頃には、俺はなんとなく悟っていた。この真っ白な空間に、出口なんて無いということを。
閉じ込められた? それとも、ここが死後の世界とか……。かぶりを振り、嫌な考えを振り払う。勘弁してくれよ。
一心不乱に歩いた。跳んだり走ったりもしてみたが、景色は何も変わらない。だんだん息が上がってきて、たまらずその場に寝そべった。背中には、冷たくも温かくも無い、ただ固い感触しか伝わってこない。
クスッ――
なんだ!? 咄嗟に起き上がり、周囲を見回す。しかし白しか見えない。気のせいか?
クスクス――
いや、やっぱり何か聞こえる! 耳を澄ましながら、静かに首を、視線を動かす。しかし、この白の世界には自分の姿しか見えない。なんなんだよ。空しくなってきて、視線を足元に落とした。
そして、その違和感に気づいた。自分の足元から生えている、人型の影。太陽も照明も見当たらないのに、どうしてこんなにくっきりとした影が伸びているんだ?
すると、影が動いた。俺自身は身動き一つしていないのに、だ。ちょうど顔にあたる部分が三日月形に裂けて、笑みを浮かべる口のように見えた。
「う、うわっ!?」驚いて後ろに飛び退いた。さらに驚くべきことに、足元からぶつりと影が切り離された。俺の視線の先で、取り残された影がケタケタと笑っている。寒気が走った。無意識のうちに、名枕を握りしめる。
俺が構えるその先で、影の形がいびつになる――いや、違う。膨らんでいる。背景が真っ白でわかりにくいが、その影は平面から立体になっている。瞬きすら忘れた俺の視界には、人を象った、体積を持った影が立っていた。
「なんなんだよ、こいつは?」少しずつ距離を取りながら、俺はその影を観察した。
体格は小さい。小学生ほどだ。よく目を凝らせば、その影は真っ黒ではない。顔のパーツや服装がおぼろげに見えてくる。おぞましい存在には違いないが、その姿の黒さを除けば、普通の子供に見えなくもない。ただしその表情は、子供のものとは思えない、悪魔のような醜悪な笑みを浮かべていた。
だから、しばらく気が付かなかった。しかしその顔も、その服装も、俺の記憶の片隅に残されていた。
「嘘……だろ……?」
俺だ。その影は、子供の頃の“神木叶銘”そのものだった。
動揺を隠せない俺に、自分自身の影が一歩踏み出す。再び跳び退こうとする俺を、影が手で制する。
「待ってよ、お兄ちゃん」
硬直。まるで金縛りにでもあったかのように体が動かない。
それは普通の子供の声だった。だというのに、その声は異質な雰囲気を含んでいた。簡単に言えば、殺気だ。
影は首を振り、この白の世界を見渡している。しかしすぐに飽きて、体の後ろで手を組んだ。
「……お前、誰なんだよ?」
痺れを切らして、俺は問いかけた。少なくとも、俺よりはこの状況を理解しているようだ。この不気味な子供が。
影の色が薄まり、少しだけ色が差していく。その姿がよりはっきりと確認できるようになった。やはり、子供の頃の俺の姿だ。信じられないことだが。
影は三歩ほど歩み寄り、俺の顔を見上げた。
「お兄ちゃんも薄々感づいているんでしょ? ぼくは、お兄ちゃんの分身みたいなものだよ。そして」
一呼吸おいて、影は重々しく口を開いた。
「ぼくは、“神木家の凶事”として封印された存在。“カミキキョウジ”っていうのは、ぼくのことだよ。紛らわしいから、キョージとでも呼んでよ」
キョージはにっこりと、無邪気な笑みを浮かべた。
「“カミキキョウジ”って――あの時、名枕に刻んだ名前だろ。どういうことだ?」
「まだわからないの? お父さんは、ぼくを消し去りたいんだよ。その、名枕を利用して」
「消し去るだって?」
笑顔のまま、この子供は物騒なことを言い出している。
「覚えてない? 小学生の頃、ゴンタと喧嘩した時のこと」
「ああ……」
そんなこともあった。その時の記憶はあやふやだが、あの後同級生がその時の状況を教えてくれたのは覚えている。だけど当時の俺は、まるで他人事のようにしか捉えることができなかった。
「お兄ちゃんにとっては大昔のことだろうけど、ぼくには昨日のことのように覚えているよ。なぜだかわかる?」
「――どうしてだよ?」
「ぼくが“神木叶銘”の、負の感情そのものだからさ」
負の感情そのもの? 困惑する俺に構わず、キョージは話を続ける。
「あの時ぼくは、無意識のうちに自分の潜在能力を爆発させようとした。彩音がいじめられたと知ったあの時、ぼくたちの力が目覚めたんだよ。だけどその大きすぎる力と負の感情は、あまりに不安定で、危険なものだったんだ」
「…………」無言で、続きを促す。
「それで、お母さんの出番だよ。あの騒動の後、ぼくを封じてしまったんだ。正確には、力と負の感情をお兄ちゃんから切り離し、表に出てこないようにしたんだ。封印には、お母さんの“勾玉の力”を使ってね」
「母さんが、あの時そんなことを……?」
そうなると、十年にもわたって母さんは俺の力を封じてきたのか?
「それからは、お互い辛かったよね。お兄ちゃんは罪悪感から“しっかりしなくちゃ。迷惑を掛けちゃいけない”っていう強迫観念に駆られた。ぼくはその後も、どんどん蓄積する負の感情を引き受け続けた。まともな人間じゃないね」
たしかに、そうだ。俺は必至で、家族に迷惑をかけないようにと頑張ってきた。なんて臆病な生き方だったのだろう。しかも、その生き方のために我慢してきたストレスやらを、俺は今まで過去の自分に背負わせていたのか……?
「……俺を獣の姿に変えたのも、お前か」
「話が早いね。そうだよ。お母さんの力が弱くなって、だんだんぼくの力が上回るようになってきたんだ。
でも、感謝して欲しいな。ぼくが表に出なかったら、お兄ちゃんはとっくに、あの猿や鎧に殺されてたんだからさ。ぼくもそれは困るんだ。本体のお兄ちゃんが死んじゃったら、ぼくも死んじゃうからね」
それは、そうなのかもしれない。ある意味、俺にとっては命の恩人なのかもしれない。
しかし、仮にこいつが俺の分身だったとしてもだ。どうしても信用できない。今の言葉だってそうだ。俺が死んで困るのなら、こいつが最初から放つ、冷たい殺気の正体は何なのだろうか。
「お兄ちゃんの疑問はわかるよ。ぼくは分身だからね」
「……お前も話が早いな。お前の獣のようなその殺気は、どう説明してくれるんだ?」
キョージは腹を抱えて震えだした。どうやら、「腹を抱えるほどおかしい」というのを大げさに表しているらしい。
「だって、もうお兄ちゃん必要ないんだもん」
ぞわりと、体中の毛が逆立つ。鳥肌なんて生易しいモノじゃない。その勢いで全ての毛が抜け落ちそうだ。もはや、キョージがまとっているのは殺気ではない。触れたら命を落とす“死”そのものだ。
影の全身に紅い光が走る。頭のてっぺんからつま先まで、血管のように細かい光が浮かび上がる。この光……名枕の剣身に刻まれる、あの光そのものではないか!
「ここまで育ててくれてありがとう、お兄ちゃん。お父さんも、この世界も、ぼくたちの嫌いなもの全部全部、代わりにぼくが壊してあげるから。だから、『お兄ちゃんの体をちょうだい』」
耳障りなノイズが混じった声が、その赤黒い塊から発せられる。
そうか、そういうことだったのか。
父さんは、気づいていたんだ。俺の中の闇の部分が、日々の生活の苦悩を食らって、肥え太っていたのを。そして、内側から俺を壊そうとしていたのを!
そしてそれを――カミキキョウジを――俺自身に克服させようとしていたんだ。




