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親愛なる勇者へ 親愛なる魔王へ  作者: 望月 幸
第二章【勇者は学び、働き、そして戦う】
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十一話【叶銘の初仕事―決着―】

 苔や藻で緑に濁ったプールの中に、ゆっくりと沈んでいた。

 鼻の中に侵入しようとする水から、青臭い臭いがじんわりと嗅覚を刺激する。光に照らされたプールの中は深い森の中のように染まり、底は苔が覆って赤いラインが半分ほど埋もれていた。ちょうど、増えるわかめやあおさをプールの中に大量にぶち込んだような光景だ。

 とにかく、プールから出ないと! パニックに陥りそうになる頭をギリギリで回転させ、漂う藻をどかしながら水面に這い出ようとする。あまりの不潔さに目を開けることもできないため、手探りで水面を求めた。

 その手が、ぬるっと何かに突っ込んだ。その瞬間、あの夜と同じ痛みが手を包んだ。強力な炭酸に手を入れたように、細かく鋭い痛みがバチバチと手の表面で弾けていく。

「ごぼぁッ!」

 痛みで、つい目が開いてしまった。

 その一瞬の内に視界に飛び込んできたものは、水面に浮かぶ二体のスライムだった。ちょうど頭上、浮上することを許さないように僕を見下ろしていた。

 ここは駄目だ! そう判断して汚水の中を泳ぎ、痛む目を無理やり開けた。

 同じだった。スライムたちも水面を泳ぎ、ぴったりと頭上に蓋をするよう覆っていた。ありもしないスライムの目が、じっと僕を見下ろしているようだ。

 水面に出ればスライムに溶かされ、出なければ溺れる……くそっ!

 水中に潜って二十秒ほどか。肺が新鮮な空気を要求がするが、呼吸すら許されない状況だ。

 冷たいプールの水の中で、全身から冷や汗が流れ出るのを感じた。体の表面からピシピシと凍り付いていくようだ。

 死ぬ。今度こそ、一巻の終わりだ。

 恐怖に体が震え、ゴボッと大きな泡を吐いた――




 ――プツン


 叶銘の意識の一部が、そこで切れた。

 しかしそれは、酸欠などによる意識のシャットダウンではない。まして恐怖を忘れるための現実逃避でもない。

 極限状態に陥った叶銘の脳が、今、この惨状を打破しようと余分な思考をカットしたのだ。

 “火事場の馬鹿力”という言葉がある。極限に追い詰められることで、普段の力を遥かに超える力を発揮する――そういうものだ。叶銘はこの局面にて、体ではなく、頭の方で“火事場の馬鹿力”を発揮していた。

 時間にして、およそ一秒。その刹那に、叶銘はこの状況を機械のように冷静に分析していた。自分の息、プール、スライム二匹、持ち物――ジグソーパズルのように、“生存”という一枚の絵に向けて適切なピースを高速で嵌め込んでいく。

 パチン、パチン、パチン――パチン!

 パズルの完成と共に、叶銘の頭脳に閃光が走った。その光は信号となって、叶銘の肉体に素早く指示を与えていく。

 バチバチとオーバーヒートを起こす脳はほんのひと時思考を捨て、ただ体を動かす機能のみを働かせていた。




 ――これだ。

 二度目の命の危機という絶望の中で、頭は冷静に一つの道を指し示してくれた。

 名枕を引っ掴むと、鞄の中に頭を突っ込んだ。その隅に顔を寄せると、肺の中の残り少ない空気をほとんど吐き出した。目を開けられないが、そこには確かに“水の無い空間”が出来上がったはずだ。

 その小さい空間に、餌を求める鯉のように口を突き出した。ごわごわした汚水が少し口に入って吐きそうになるが、必死でこらえる。

 そして、最後に残した一握りの息で、水中の名枕に呼びかけた。

「プールの……水……」

 閉じたまぶたを通して、右手の方から光を感じた。直に見なくてもわかる、それは名枕が応えてくれた証だ――!

 全ての空気を使い切り、僕の意識はプールに浮かぶ藻のように頼りなくぼんやりしてくる。それでも、名枕の光に力をもらい、右手をブンと上に突き上げた。


 ドッ――――バァッン!


 仮に、このプールの長さが25メートル、幅が10メートル、深さが1メートルだったとしよう。すると、このプールの水量は25万リットルになる。

 それが爆音とともに、弾けるようにして一瞬で夜空に消えた。一匹目のスライムを倒した時より、遥かに大きな虹が湊小学校の上に架かった。上空に打ち上げられた藻や苔が、申し訳なさそうにぺちゃぺちゃと地上に落ちてくる。

「プールノミズ」と書かれた光が消えるのを見届けるのと、スライムがプールに落ちてくるのは同時だった。

 バシャッと、地面に打ち付けられた二匹のスライムは体が飛び散った。それらがあらかた合体したタイミングで、僕は「スライム」と書かれた名枕をそれぞれに突き刺した。

 スライム三匹の討伐は、それを言い渡された当日に完了したのだった。




 ぜいぜいと喘ぎながら、僕はプールの隅っこで仰向けに寝ていた。欲しくて欲しくてたまらなかった空気を肺が貪っている。おもちゃのように、お腹は大きく膨らんで縮んでを繰り返している。ひとしきり休息して、ようやく手の痺れも取れてきた。

 もう大丈夫だ。体を起こしてプールから出ようとした瞬間、唐突に顔が影に覆われた。上から何かが落ちてくる!

 咄嗟に顔を守る僕の手を、ふんわりと柔らかい感触が包み込んだ。手に取ってみると、それは柔らかい純白のタオルだった。


「随分、派手に闘ったものじゃなぁ」


 いつの間にか、背の高い柱のようなものが影を落としていた。街灯の逆光になりシルエットが浮かぶのみだが、僕はその声の主を知っている。

「――チャップマン?」

「ふむ、覚えていたのだな。感心感心」

 ようやくプールから上がり、もらったタオルで体を拭きながら彼の姿を見据えた。

 忘れるものか。地面に擦るほど長いローブを纏った細長い老人。あいかわらず、顔は豊富に蓄えられた髭と目深に被ったフードのため確認できない。自らを“行商人”と名乗り、破壊された神木家を修復してくれたあの男だ。

「まさか、こんなに早く依頼をこなすとはな。儂は正直、叶銘君はもうちょっとうだうだやるものかと思っておったよ」

 笑っているのだろうが、呼気が髭に遮られてふごふごとしか聞こえない。

「好きで早く済ませたわけじゃないですよ。僕だって、できることなら一匹一匹慎重に倒していきたかったんですから」

「ふ、謙虚じゃな。それとも億秒か。しかしこれで、君はようやく“勇者としての一歩”を踏み出したわけじゃ」

“勇者としての一歩”か。魔王の息子になってしまった僕には、皮肉とも言える。こんなにびしょ濡れで、体中に藻をくっつけた勇者なんて情けないだけだ。

 それよりも僕は、先ほどから抱いていた疑問をぶつけた。

 

「全部、あなたの差し金だったんですか?」


「――なんのことじゃ?」

「あなたは、戯流堵での“依頼”のことを知っていた。僕とマスターしか知らないはずなのに。それに何より、今、こんな場所にいる」

 一瞬の空白。賢者のようなチャップマンは、初めて僕の前でたじろいで見せた。

「……案外鋭いのう」そうつぶやきながら、彼は垂れ下がった顎鬚を撫でた。動揺しているというより、慎重に言葉を選んでいるように見える。

「その答えは、半分正解と言ったところか。何せ、儂一人でできることなど、たかが知れ取るからな」

『儂一人で』その言葉を聞いて、僕の頭にいくつもの顔が浮かんだ。

 藤間先生、マスター、チャップマン。そうだ、僕をこんな状況に追い込んだのは、この三人だ。藤間先生が求人票を見せ、マスターが「スライムを倒せ」と言い渡し、チャップマンが後始末に来る。一連の流れができていた。

 もしかして――彩音や母さん、アキト、美津姫、ジョン。彼らもまた、僕をこの“勇者としての一歩”に引き込もうとした「仕掛け人」だったのか?

 頭の中がぐるぐると酔ったように回る。これまで信じてきたモノが根元から崩れ落ち、暗い泥の中に沈み込んでいくような感覚……


 パン!


 皮膚を叩きつけるその破裂音で、僕は正気に戻った。

 目の前には、胸の前で手を合わせるチャップマン。たった一度の拍手、それだけで僕を覆う疑心の霧を吹き飛ばしてしまった。

「混乱させてしまって悪かったのう。しかし、安心しなさい、叶銘君よ。

 君は一人ではない。君が思っている以上に、多くの人が君を見守っている――それだけは、最後まで覚えていてほしい」

 最後? 最後とは何だ? この老人の言っていることは、僕にはわからないことばかりだ。疑問の色を浮かべる僕の顔を見て、なぜだかチャップマンは満足げだ。

「さて、これはお詫びの印じゃ。君に渡すのはもう少し後の予定じゃったが、まあ、問題無いじゃろう」

 そう言って、懐から四角いものを取り出した。薄くて、掌に収まるほどの黒い物体。

 それは、僕のスマートフォンだった。プールでの戦闘ということで入口に財布と共に置いてきたのだが、ちゃっかりそれを回収されていたようだ。

 取り返そうと動く間もなく、骸骨のように節くれ立ったチャップマンの五本の指が、ピアニストのように滑らかに動いた。あっという間にパスコードを解除し、それでもまだ画面を叩き続ける。

 それが終わると、チャップマンは水戸黄門の印籠のようにその画面を僕に突き出した。パッと見ではわかりにくかったが、四角いアイコンが一つ増えている。

「アプリをインストールしてたんですか? さすがのチャップマンさんも、こういう機械には不慣れだと思っていましたよ」

 僕は皮肉を込めて言ってやった。

「儂は行商人なんでな。最新の道具の扱い方も、一通りは頭に入れておるよ」

 その皮肉はあっさりと受け流されたようだ。


 僕は体を拭いたタオルを返し、スマートフォンを返してもらった。近くでそのアイコン見ると、分厚い本を開く女の子が描かれていることが分かった。なんだこりゃ?

 つと視線を戻すと、チャップマンがいない。辺りを見渡しても、影も形も無い。

「今日の所は、これくらいじゃ」上から低くしゃがれた声が降ってくる。彼は、今まで僕の闘いを見守ってきた街灯の上に器用に立っていた。

「待ってください! また勝手に、どこかに行くんですか? あなたには、もっと聞きたいことがあるのに!」

 僕の必死の叫びを躱すように、チャップマンのローブが風にはためく。

「前にも言ったじゃろう? 『物事には順序がある』と。今の君は言ってみれば、小さなコップのようなものじゃ。バケツいっぱいの情報を与えても、こぼれて溢れ、その場を水浸しにするだけじゃ」

 ローブの裾が光の粒のようにほどけて、徐々に夜空に広がって行く。

「前に進むのじゃ。君の器をコップから桶に、たらいに、このプールのように大きくしなさい。儂は大きく成長した君に、満足させる答えを与えることを楽しみにしているぞ――」

 そう言い終えた時には、チャップマンは光の粒子となって夜空に昇って行った。それは夜空を飾る星々のように、綺麗に、無責任に輝いていた。

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