十話【叶銘の初仕事―戦闘―】
よじ登った正門から飛び降りた。
ドスン!
もっと軽やかな着地を決めたかったが、普段からの運動不足も祟ってダイレクトに足が衝撃を受け止めた。あまりの激痛に、その場で転がりながら情けなく悶絶。この場に誰もいなかったことに静かに感謝した。
昼間は児童たちが駆け回りおしゃべりしている小学校も、真夜中となるとその様相は一変する。光の差さない校庭は冷たい沼地のようで、足を踏み入れることを躊躇させる。それを取り囲む校舎と体育館は巨大な岩の生き物のようで、整然と並ぶ大きな窓は拡大した虫の複眼を思わせる。学校を舞台としたホラーは数多くあるが、今この場にはノンフィクションの不気味さが渦巻いていた。
勇気を出して、一歩一歩足を踏み出していく。頭の中に浮かべるのは、暖かい日差しの下で校庭を駆けまわる児童たちだ。そうだ、ここは沼地などではない、しっかりと踏み固められた地面だ。
鞄の中から懐中電灯を取り出す。電源を入れると、校庭にポワッと光の円が出来上がる。ほんの数分ぶりに見た明るい光は、今この場では太陽のように心強い。
僕は忙しなく懐中電灯を振りながら、件のスライムの捜索を始めた。
校庭、体育館と校舎の周囲、遊具の陰と見て回った結果、スライムの痕跡すら見つけられなかった。
「小学校のプールでスライムらしき謎の生物を見た」美津姫の仕入れた目撃情報を思い出した。無意識のうちに、僕はこの情報から目を背けようとしていたらしい。
とどのつまり、怖いのだ。スライムを倒すためこうして湊小学校に来ているが、心の中では卑屈な自分が「スライムなんて見つからなくていい。もういっそ、バイトなんて諦めてしまえばいい!」と声を大に叫んでいる。そんな声に、僕の勇気はかき消されていた。
パンパンと、両の頬を叩いて叱咤した。回れ右して家路に付こうとする足がその場で止まる。
「いいか、神木叶銘。よく思い出すんだ――」
心の中に住む、卑屈なもう一人の自分に語りかけた。
「あの求人票を思い出すんだ。そこの『給与』の欄を覚えているか?
そうだ。そこには『円の時給』と『丹の時給』とが載っていた。思い出したか? そうだ、『丹』とは、あの不思議なアイテムを買うために必要な通貨だ。
つまり、もうわかっただろう? おそらくこのアルバイトでなければ、僕はあのアイテムを手に入れることができない。それはつまり、父さんとの戦いに非常に不利ということだ」
藤間先生が貼り付けたアルバイトの求人票。応募資格に「神木叶銘であること」と名指ししていた、あれだ。僕があの票を見て最も興味を惹かれていたのは、実はその「給与」の部分だった。これがなければ、こんな面倒な仕事などしなかっただろう。
「わかっただろ? 父さんをブッ飛ばすためには、このアルバイトをするのが一番の近道だ。なに、大丈夫さ。お前は一度は、モンスターを倒しているんだから――!」
勇敢な方の僕の説得が効いたのか、卑屈な僕は小さくなって、どこかへ隠れてしまったようだ。決心したことで、体に一層血が巡る。
さあ、本丸へ攻め込もうじゃないか。
少し軽くなった足取りで、いよいよ目撃情報のあったプールへ向かう。入り口の簡易扉を乗り越え、物陰に隠れながら慎重に進む。
しゃがみながら進んでいくと、床の一部に異常がみられる。蛇行するように太い筋を描きながら、湿って変色していることが分かった。間違いない、スライムが通った痕跡だ。
「いよいよだ」そう確信した僕は、鞄から二つの道具を取り出した。
片方は、スライムを一撃で葬り去った名枕。もう一方は、前回の戦いからヒントを得た防御用の武器だ。それらを両手に持ちながら、姿勢を低くしてブールサイドへの階段を上った。
校庭と違い、こちらはフェンスを挟んで街灯が設置されており、プールサイドを白く冷たい光で照らしている。
そのおかげで、一目で“そいつ”の存在を確認することができた。僕の正面25メートルほど先、巨大な水玉のようなスライムが、体の表面で鏡のように街灯の光を反射していた。透明な体を通して、向こう側の植木が揺らめいている。前回遭遇した時はほとんど暗がりの中でしかその姿を見ることはできなかったが、こうして明るいところで見ると大きな水滴にしか見えない。
そのスライムは呼吸をするように、ゆっくりと膨張、収縮を繰り返していた。ひたすらに僕を襲ったあの夜とは、まるで様子が違う。
「ひょっとして、眠っているのか?」スライムに睡眠が必要なのかは知らないが、僕の目にはそう見える。それならば、千載一遇のチャンスだ。
じり――と、すり足で忍び寄る。じり――じり――スライムとの距離を10メートルにまで縮めるも、変化は見られない。
心の中で、熱い光が迸る。エンジンがかかった車のように、冷えた体が熱を帯び始めた。
「――行ける!」
確信し、一気に跳ねた!
口元に寄せた名枕に「スライム!」と叫ぶ。光の筋が名枕の刀身を刻む。そこに「スライム」の四文字を浮かばせた。僕がスライムを倒したあの夜と同じように、名枕は僕の声に応えてくれた。
声と殺気に気付いたのか、スライムは無理に起こされたように一度大きく体を震わせた。間髪入れず跳びかかる。バシャッとバケツの水をぶちまけるように、体を包み込んで溶かさんとする。
「その攻撃は、もう見た!」
左手に持つ、もう一つの武器をスライムに突き出し、手元のボタンを押した。
バン!
勢いよく開いたそれは、上半身に降りかかるスライムの体を押し留めた。
それは、折り畳みのジャンプ傘だ。広範囲に広がるスライムの攻撃を避けるのは難しい。それならばと思いついたのが、傘による防御だった。
所詮は傘。スライムに触れた部分はすぐさま溶けて穴だらけになる。しかしその一瞬があれば、名枕はスライムを打ち倒すことができる!
右手を突き出し、傘もろともスライムを貫いた。その感触を確かめるように名枕の光の文字は一瞬強く煌めき、消えた。
それと同時に、貫かれたスライムは霧散した。街灯が霧になったスライムを照らし、夜のプールに小さな虹が架かった。
「――勝った!」
柄にもなく拳を突き上げてガッツポーズ。傘を一本消費してしまったが、見事に無傷でスライムに勝利することができた。あまりに作戦通りで、物足りなさを感じてしまうほどだ。
忘れないうちにポケットから小さな瓶を取り出し、隅っこに残っていたスライムの一部を掬い取った。美津姫へのお土産だ。ラベルには手書きで「絶対に触れないこと!」と注意書きしておいた。
「一日目でスライム一匹。この調子なら『一週間以内にスライムを三匹倒せ』というマスターの要求をあっさりクリアできそうだ」
そうなれば、あの無愛想で強面のマスターを驚かせることができるだろう。その時の光景を想像して、僕の顔はいじわるに歪んでいた。
「おっと、用が済んだら早く帰らないと。僕が不審者として通報されそうだ」
鞄の中に名枕と壊れた傘をしまい、踵を返してその場を立ち去ろうとし――
バシュッ!
えっ?
目の前に何かが飛んできて、とっさに鞄を顔の正面に差し出した。ベチャッ、シュウシュウ――鞄から泡が立つような音が聞こえる。溶けているのだ。
僕がプールサイドに上がってきた階段。そこでは門番のようにスライムが佇んでいた。怒りを表現するように、ぐにょんぐにょんと体をお菓子のグミのように伸び縮みさせている。
「一匹だけじゃなかったのか……ぐあッ?」
二匹目のスライムに目を奪われているうちに、今度は足に激痛が走った。バランスを崩してプールに倒れ込む。僕の視界の隅に一瞬、大きな泡のように水面が膨らんでいるのが見えた。なんということだ、三匹目のスライムがプールの水の中に潜んでいた!
一匹目のスライムに気を取られ、油断していた……そんな後悔を抱きながら、汚く濁ったプールに飛沫を上げた。




