十一話【冒険の始まり】
四月八日。
ジリリリリリリと、高く乾いた音が耳元で鳴り響く。不愉快なその音を何とか止めようと、布団にもぐったままでバンバンと手探りで腕を振り降ろす。
ガチーン!
やっと目覚まし時計に命中し、観念したようにそれは沈黙した。
もぞもぞと顔を出すと、まぶたを通して春の柔らかな朝日が瞳に降り注ぐ。そっと目を開けると、朝日を背に二羽のスズメが窓を横切って行った。ちゅんちゅんちちちと軽快な鳴き声。目覚まし時計も、この鳴き声を見習ってほしいと切に思った。
「叶銘、おはよう」
「兄ちゃん、おはよー」
自室から出てきた僕の前では、既に母さんと彩音が朝食を食べ始めていた。「うん、おはよう」朝の挨拶を交わし、食パンをトースターに入れた。
焼き上がったトーストにバターを塗って口に運ぶ。程よく焦げたトーストの香りと、バターの芳醇な香りが混ざり合って喉から鼻へ抜けていく。その香りに刺激され、やっと目と頭が冴えてきた。
「母さん、いつの間に帰ってきたの?」
「昨日の夜十一時くらいかしら。渋滞に巻き込まれちゃって、随分遅くなっちゃった」
「お母さん、旅行はどうだったの? お土産は無いの?」
「良かったわよぉ~♪ 一番感動したのは、七色の薔薇かしら。年甲斐もなく、お姫様になった気分だったわよ」
そう言って母さんは自分の部屋からデジタルカメラを持って来て、何十枚という写真を見せてくれた。家の中でも明るい母さんだが、写真の中では一層その輝きを増している。
「もちろんお花も買って来てあるから、後で花瓶に入れてみんなのお部屋に飾ってあげるから」
「わあっ、やったあ♪」
「おっ、ありがと」
母の影響で花好きになった僕と彩音も、素直に喜びを顔に表す。
どうやら、母さんも彩音も昨日の騒ぎについて何も気づいていないようだ。
昨夜、僕は謎のモンスター“スライム”と家の中で死闘を繰り広げた。その際家の中はめちゃくちゃになってしまったのだが、謎の行商人“チャップマン”が後片付けを済ませてくれていた。彼が去った後すぐに自室のベッドに倒れ込んでしまったのだが、彼の仕事は完璧だったらしい。二人とも家の様子に違和感を持ってはいなかった。
ちらちらと母さんと彩音の顔を盗み見しながら、僕は心の揺れを悟られないようにコーヒーを一口。「あ、そういえばこのコップ、チャップマンも使ってたんだよな……」と気づいてえずきそうになった。
「それじゃ、行ってくるわねー」
「行ってらっしゃーい」
パートに出かける母さんに、自室の中から行ってらっしゃいと声をかける。僕も今日から講義が始まるものだからゆっくりはしていられない。
パジャマから着替えようとクローゼットを開けると、昨日ボロボロ溶かされたジャケットが綺麗に掛けられていた。チャップマンの仕事には感謝するが、まだちょっと抵抗感があるので、隣に掛かっているパーカーをチョイスした。
鏡に映る髪を丁寧にセットしていると、コンコンというノックの音と主に「兄ちゃーん! 入ってもいいかーい?」と彩音の明るい声が部屋に響いた。「ああ、いいよー」と応えた時には、既に彩音は扉を開けていた。我が妹ながらせっかちだ。
僕の部屋に入った彩音は、半月ぶりのセーラー服を身にまとっていた。女子高生らしくミニスカ気味にスカートの丈を短くし、その中から滑らかに引き締まった両足がスラリと伸びていた。僕が同級生の男子高生だったなら、ついつい見とれて変態認定されている恐れもある。春休み中は幽霊のようにボサボサだった髪はサラリと軽くなり、短めのポニーテールにして元気の良さをアピールするようだった。
「ほら、兄ちゃん。母さんのお土産の薔薇だよー♪」
なだらかな曲線を描く細い花瓶に、うっすら青味を帯びた薔薇が一本挿してある。
「ありがと。じゃあ、机の上に置いといて」
「りょーかい……あれっ。何これ?」
どうしたのかなと視線を向けると、彩音は例の銅剣を手に取っていた。ああ、隠しておけば良かったかなと後悔したが、もう遅い。彩音の目が輝き始める。
「ねえ兄ちゃん、何これ? ねえねえ、お~に~い~……ちゃ~ん?」
「何って、見ての通りの銅剣だよ。あと、変な溜めを作るな」
「それはわかるよ。教科書で見たことあるし!」プーと頬を膨らませて、彩音はさらなる情報を要求してくる。可愛らしいのは確かだが、それ以上にめんどくさい相手だ。
「――父さんの遺品だよ。お前の持ってるギターと同じさ」
「えっ? ああ、そうだったんだ……」
彩音の表情が陰る。晴天が瞬く間に曇天になったようだ。さすがに少し直球だったかなと反省するが、その短い間に彩音はぎこちないながらも笑顔を取り戻していた。
「そ、そういえばさ! こういう剣って、何か名前があるんでしょ? ほら、竪穴式住居とか、縄文式土器とか、前方後円墳とか、そんな感じの。何ていうの?」
「名前? 名前かぁ……」
そういえばなんて言うんだろう? “銅剣”でも間違いではないだろうが、正式名称はわからない。うーん、悩む。
こんな錆びついた鈍剣の名前なんて知らない。鈍……なまくら……ナマクラ……。よし!
「これは“名枕”っていうんだよ」即興で付けた名前を、さも本当のように言い放った。
倒すべきモノの“名”前が、刀身を“枕”にして刻まれる。そして普段はただの“鈍”な骨董品。うん、悪くないと思う。
「そういう、固有名詞を聞きたかったわけじゃないんだけどなぁ……。しかもそれ、兄ちゃんが適当に付けた名前でしょ」
妹の鋭い洞察力を兄として誇りに思いながら、僕は恥ずかしさで顔を枕に押し付けていた。
「じゃ、行ってきます! 兄ちゃんも遅刻しちゃだめよー」
ひらひら手を振って、彩音は玄関から飛び出していった。
それを見送ったところで部屋に戻り、必要なものを鞄に入れた。その中には、あの名枕も含まれている。モンスターに対する護身用。それもあるが、僕はこの剣を持っていないといけない、使命感のようなものを感じていた。
チャップマンは言っていた。「諦めなければ、また逢える」と。逢えるというのは、チャップマンだけではない。父さんにも……彼の言葉の影には、確かに父さんへの道が隠されていた。
「そうだ、僕は諦めないよ」この剣を持ち歩くことは、僕のその意思表明だ。ズシリと重くなった鞄を背負い、お気に入りの靴に足を入れる。
「待ってろよ、父さん。必ずブッ飛ばしてやるからな!」
足取りは軽く、気力は輝いていた。
僕の勇者としての大学生活が、今始まる――。




