第8話 王女殿下、請求書が百二十七枚ございます
婚約破棄から四日目の朝、エレナ・ヴァルハイトは、再び王宮の門をくぐった。
ただし、以前とは何もかもが違う。
乗っている馬車は公爵家のもの。胸元には王太子の婚約者を示す銀獅子の徽章もなく、持参した革鞄の中に入っているのは王宮から渡された予定表ではなく、昨日正式に取り交わした三か月間の臨時助言契約書だった。
週二日の登城。
一日六時間を上限とする。
担当職員を必ず同席させ、エレナ自身が実務を肩代わりしない。
業務範囲を超える依頼については別途協議する。
そして、報酬あり。
最後の一点を思い出すたびに、なぜかミナの満足げな顔が浮かぶ。
「お嬢様」
向かいに座ったミナが声をかけた。
「何?」
「先ほどから三回ほど契約書の入った鞄を確認していらっしゃいます」
「忘れていないか確認しているだけよ」
「昨日の夜にも確認していました」
「大事なものですから」
「お給金が書いてありますものね」
「そこではありません」
即座に否定すると、ミナは窓の外を見ながら笑った。
「でも、今日は以前と少し違う顔をしていらっしゃいます」
「どんな顔?」
「王宮へ連行される人ではなく、自分で仕事へ行く人の顔です」
「以前も連行されていたわけではないでしょう」
「朝五時に起こして、夜会の翌日でも六時半には馬車へ乗っていただいていましたので、私には半分ほど連行に見えておりました」
「本人が納得していれば連行とは言わないの」
「その本人が今になって働き方がおかしかったと言い始めておりますが」
痛いところを突かれ、エレナは窓の外へ目を向けた。
秋の朝の王都は薄い霧に包まれ、石造りの建物の屋根が淡い光を受けている。四日前まで毎日のように通っていた道なのに、今日は妙に景色が違って見えた。
王宮へ戻ること自体に抵抗がなかったわけではない。
正門が近づくにつれ、胸の奥には重いものが溜まっている。
アレクシスと顔を合わせるかもしれない。
あの夜、自分を見送った貴族たちとも会うだろう。
ある者は同情し、ある者は面白がり、ある者は「結局戻ってきた」と笑うかもしれない。
だが今日は、誰かの婚約者として来るのではない。
契約した仕事をするために来る。
その違いを、まず自分自身が忘れないようにしなければならなかった。
馬車が王宮正面ではなく、官吏や外部顧問が利用する東門へ入った。
それだけのことで、エレナは少し肩の力が抜けた。
「こちらから入るのは初めてね」
「私もです」
「階段が少ないわ」
「お嬢様の感想がそこなのですね」
「正面玄関は見栄えを重視しすぎなのよ。毎日働くならこちらのほうが楽でしょう」
「もう完全に職員目線ですね」
「職員ではなく外部助言者です。そこは大事よ」
「はいはい」
「返事が軽いわね」
馬車が止まり、扉が開く。
外には王宮財務局の副長官と、若い男女二人の官吏が待っていた。
「ヴァルハイト公爵令嬢。本日よりよろしくお願いいたします」
「こちらこそ。ですが、最初に一つ確認いたします」
「何でしょう」
「今日の私は何をする予定でしょうか」
副長官は一瞬だけ戸惑ったものの、すぐに意味を理解したらしい。
「王女宮の未精算請求について、財務局担当者へ確認方法を引き継いでいただきます。公爵令嬢ご自身に精算処理をしていただく予定はありません」
「結構です」
エレナは微笑んだ。
四日前なら、この確認すらしなかった。
問題があると聞けば、そのまま自分の机へ運ばせていただろう。
小さな違いではある。
だが、その小さな違いを積み重ねなければ、三か月後にまた同じことになる。
◇
王女宮の会計室へ入ったエレナは、最初に机の上を見て、次に部屋の隅を見て、最後に財務局副長官を見た。
「百二十七枚と聞いておりました」
「はい」
「箱が六つございますが」
「請求書に付随する注文書、納品確認書、王女宮側の覚え書きなども集めた結果です」
「なるほど」
部屋には大きな机が二つ並べられ、その上へ紙束が積まれている。古い香水と紙、それから封蝋の匂いが混じり、窓を少し開けたくらいでは逃げてくれそうにない。
ミナは部屋へ入った途端、小さく呟いた。
「冬眠しているほうがよかったのでは」
「聞こえているわよ」
「聞こえるように申し上げました」
エレナは鞄を置き、同席している二人の官吏へ向き直った。
一人は財務局の若手官吏、もう一人は王女宮の会計係だという。
「では、始めましょう。ただし、私が一枚ずつ処理することはいたしません。まず、お二人で請求書を種類ごとに分けてください」
財務局の若手がすぐに筆記具を取った。
「どのように分類すればよろしいでしょう」
「最初は五つで結構です。衣装・装飾品、食事・宴会、建物・調度、贈答・慈善、分類不能。金額ではなく内容で分けます」
「支払期限は?」
「それは二巡目。最初から全部の条件を見ようとすると、百二十七枚に押し潰されます」
エレナは一番上の請求書を手に取りかけ、途中で止めた。
そして王女宮の会計係へ渡す。
「あなたが読んでください」
「私が、ですか?」
「あなたが今後担当するのでしょう?」
「はい。しかし、公爵令嬢のほうがお詳しいかと……」
「だからこそ、私がやってはいけないのです」
相手はまだ腑に落ちない顔をしている。
「私が今日全部仕分ければ、夕方には綺麗になるでしょう。でも、来月また百枚届いたとき、あなたは私を呼ぶことになります。それでは引き継ぎになりません」
「……承知いたしました」
「分からなければ聞いてください。間違えても構いません。今日の目的は、間違えないことではなく、一人で判断できるようになることです」
言いながら、エレナ自身も妙な感覚を覚えた。
以前なら「説明するより自分でやるほうが早い」と思っていただろう。
今も思っている。
実際、手を出したくて仕方がない。
目の前で請求書の角が揃っていないだけでも直したくなる。
だが我慢した。
「一枚目。王都ロゼッティ商会。舞踏用絹靴六足」
会計係が読み上げる。
「衣装・装飾品ですね」
若手官吏が答え、紙を移動させる。
「二枚目。宝石商ヴァンデル。真珠の髪飾り一式」
「同じく衣装・装飾品」
「三枚目。菓子工房レメール。焼き菓子二百箱」
若手官吏が迷った。
「宴会でしょうか」
「用途を確認して」
エレナが促す。
会計係が付属の覚え書きをめくった。
「孤児院十四施設への冬至前の贈答品、とあります」
「では贈答・慈善です」
「なるほど……」
それから一時間ほど、三人は仕分けを続けた。
エレナは答えを先に言わず、迷ったときだけ質問する。
誰が使ったのか。
何の目的だったのか。
王室行事か、王女個人の用事か。
以前の予算に似た項目があるか。
同じ商会から別の請求書が来ていないか。
途中から若い官吏たちも要領を掴み、エレナへ確認する回数が減っていった。
それが少し嬉しかった。
「公爵令嬢」
財務局の若手官吏が一枚の紙を持ち上げた。
「こちらは、どこに入れるべきでしょう」
「何?」
「仕立屋ベルモント。女性用冬服四十着」
「王女殿下がお召しになる数ではないわね」
付属書類を見るよう促す。
「……王都北区の救貧院へ寄贈、とございます」
「慈善ね」
「でも、代金の支払名義は王女宮です」
「それ自体は問題ありません。王女殿下がご自身の慈善活動予算で買ったのなら」
会計係が別の帳簿を探した。
しばらくして、顔を曇らせる。
「今年度の慈善予算は、すでに九割以上執行済みです」
「いつの注文?」
「先月です」
「財務局への事前申請は?」
「……ありません」
エレナはそこで初めて、請求書を自分の手に取った。
四十着。
安い買い物ではない。
しかし宝石や贅沢品でもない。
「保留にしておきましょう。王女殿下ご本人に確認が必要です」
その後も似たものがいくつか出てきた。
冬用毛布。
薬。
子供用の革靴。
未亡人救済会への食料寄付。
百二十七枚と聞いたとき、エレナは王女の浪費を予想していた。
もちろん、浪費らしいものもある。
舞踏会用ドレス十三着。
靴。
香水。
宝飾品。
新しい家具。
だが、すべてが贅沢ではなかった。
「おかしいですね」
エレナが呟く。
副長官が近づいた。
「何がでしょう」
「慈善関連の注文だけ、処理方法が不自然です。王女殿下は以前、慈善活動については比較的きちんと予算を確認していました」
「公爵令嬢が確認されていたのでは?」
「最初の頃は。でも二年ほど前から、ご自分で帳簿を見るようになっていたはずです」
エレナは王女宮の会計係を見る。
「この注文を誰が出したか分かりますか?」
「王女殿下の署名はございます」
「では、なぜ財務局へ回らなかったの?」
会計係の顔が強張った。
「……前任の会計責任者が、まとめて処理すると申しておりまして」
「前任?」
「先月末に退職いたしました」
エレナは眉を寄せた。
「退職理由は?」
「持病が悪化したと伺っております」
「引き継ぎは?」
「一応、私が……」
その答え方で察した。
一応、で済ませてしまったらしい。
「前任者が処理すると言った書類を、そのまま置いていたの?」
「はい。ただ、王女殿下から急ぐように言われたものだけは一部……」
「だから百二十七枚になったのね」
誰か一人の浪費でできた山ではない。
王女が予算を越えて注文した。
会計責任者が後で調整するつもりで止めた。
退職時の引き継ぎが甘かった。
新しい担当者は、以前のやり方が分からず触れなかった。
商人たちは、これまでも最終的には王宮が払ってくれたため待っていた。
そして誰も全体を確認しないうちに、百二十七枚へ増えた。
人間の失敗というものは、たいてい一人の悪人より、何人もの「あとでやろう」で大きくなる。
「王女殿下にお会いしましょう」
エレナは立ち上がった。
◇
王女マリアンヌは、自室で待っていた。
以前のエレナなら、呼ばれるまで控えの間で待つ立場だった。
今日は違う。
臨時助言者として王女宮側へ面談を申し入れ、時間を指定してもらって入室した。
その違いをマリアンヌも感じているのか、少し居心地が悪そうだった。
「……久しぶりね、エレナ」
「四日ぶりでございます、王女殿下」
「そう言われると、全然久しぶりではないわね」
「私もそう思います」
マリアンヌはアレクシスと同じ金髪を持っているが、兄より感情が顔に出やすい。
以前から、嬉しいときはよく笑い、不満があれば頬を膨らませ、叱られると露骨に不機嫌になる。
そこが危なっかしくもあり、エレナにはどこか憎めないところでもあった。
「聞いたわ。お兄様と婚約を解消したのに、また王宮で働くんですって?」
「働くというより、引き継ぎの助言です」
「どう違うの?」
「大きく違います」
「あなた、そういうところは変わらないのね」
「殿下もお変わりありませんね」
マリアンヌは唇を尖らせた。
「それ、褒めていないでしょう」
「半分ほどは」
「残り半分は?」
「これから請求書のお話をした後にお決めください」
王女の表情が固まった。
「……もう知っているのね」
「はい」
「何枚?」
「百二十七枚ございます」
マリアンヌは顔を覆った。
「数えたの?」
「財務局が数えました」
「そんなにあったなんて……」
「殿下は何枚くらいだと思っていらしたのです?」
「三十……多くても四十くらい」
「それでも十分多いです」
「分かっているわよ」
以前なら、ここでエレナが帳簿を広げ、一つずつ王女へ説明しただろう。
しかし今日は、まず本人に話してもらう。
「なぜ支払いを止めていたのですか?」
「止めていたつもりはないわ。オルマンが、まとめたほうが予算を組み替えやすいと言ったの」
「前の会計責任者ですね」
「ええ。私は欲しいものや寄付したいものがあれば、先に彼へ聞いていたわ。『今月は難しいですが、来月なら調整できます』とか、『こちらは王女宮費ではなく慈善費から出しましょう』とか、全部やってくれていたの」
「つまり、請求書が出た後の処理まで任せていた?」
「だって、それが会計係の仕事でしょう?」
「一部はそうです」
「一部?」
「予算を越える注文を許可する権限まではありません」
マリアンヌは眉を寄せた。
「でも、オルマンは大丈夫だと言ったわ」
「何について?」
「例えば救貧院の冬服。急に寒くなったから必要だって聞いて、四十着注文したの。予算が足りないかもしれないと言ったら、『エレナ様に回せば調整してくださいます』と」
エレナは黙った。
「他にも?」
「毛布と薬。それから北区の診療所の暖炉が壊れたから、その修理費も。オルマンは、あなたが最後に帳尻を合わせてくれるから問題ないって」
胸の奥に、何とも言えない感情が広がった。
怒りというほど単純ではない。
前任会計責任者だけを責める気にもなれなかった。
なぜなら、実際に以前のエレナはそうしていたからだ。
王女が予算を越えて寄付を決めれば、別の行事費を削り、王女の私費を一部充て、必要なら国王へ追加承認を取り、どうにか帳尻を合わせていた。
それを何度もやった。
だから「最後はエレナが何とかする」という運用が出来上がった。
「……私にも責任があります」
「え?」
「これまで、そういう案件を何度も処理してきました。それで王女殿下も会計係も、予算を越えても後で調整できると思うようになったのでしょう」
「じゃあ、やっぱりあなたが払えるようにしてくれるの?」
「いいえ」
マリアンヌが期待した顔のまま止まった。
「今の話を聞いて、なぜそうなるのです」
「だって、今までも――」
「だから今までのやり方をやめるために、私は今日ここへ来ています」
少し強い声になった。
マリアンヌは子供のように肩を縮めた。
以前なら、その反応を見て言葉を和らげ、結局こちらが処理を引き受けていただろう。
今日は違う。
「殿下。慈善そのものを責めているのではありません。寒い子供へ服を送ることも、診療所を支援することも立派です。でも、善いことなら予算を無視してよいわけではありません」
「でも、困っている人を待たせろというの?」
「いいえ。急ぐなら、急ぐための手続きがあります。国王陛下へ臨時支出を申請する。ご自身の私費を使う。ほかの慈善事業の予定を見直す。方法はいくつもあります」
「そんなことをしていたら遅くなるじゃない」
「だから日頃から予算を残しておくのです」
マリアンヌの顔に不満が浮かんだ。
「エレナは昔からそう。何でも帳簿、帳簿って。寒い人がいるのに数字を先に見るの?」
「見ます」
即答した。
「数字を見なければ、今年助けられても来年助けられないからです」
王女が黙る。
「四十着を贈って、その支払いができず仕立屋を困らせたら、別の誰かが苦しみます。薬を大量に買って薬屋へ代金を払わなければ、店は次の薬を仕入れられないかもしれない。善意には、お金を払わなくてよいという特権はありません」
「……そこまで考えていなかった」
「知っています」
「怒っている?」
「少し」
マリアンヌが目を丸くした。
「少しなの?」
「全部が殿下の責任ではありませんから」
エレナは持参した一覧表を開いた。
「それに、百二十七枚のうち、慈善関連は二十八枚だけです」
マリアンヌの視線が泳いだ。
「……そうだったかしら」
「残りについてもお話ししましょう」
「今日全部?」
「今日全部です」
「エレナ、三か月契約なのでしょう? 三か月かけても――」
「王女殿下」
「分かったわよ」
以前なら、ここでエレナが内心で頭を抱えながら、表では完璧に笑っていた。
今日は普通に呆れた顔をしてもよい。
そのことが少しだけ楽だった。
「まずドレス十三着」
「必要だったの」
「一か月で?」
「同じ方々が集まる夜会に同じ服で出たら、王女家が困窮していると噂されるわ」
「十三回も夜会がございましたか?」
「……八回」
「残り五着は?」
「選べなかったから」
「却下です」
「即答しないで!」
「では理由を聞きます」
「青も似合ったし、赤も捨てがたかったの。それに仕立屋が『どちらも殿下のために生まれた色です』と――」
「その仕立屋は商売が上手ですね」
「そういう問題?」
「まさにそういう問題です」
隣で記録を取っていた財務局の若手官吏が、必死に表情を消している。
王女はそれに気づき、少し頬を赤くした。
「分かった。ドレスは私費から払う」
「全部ではありません。公務で必要だった八着については、用途と予算を確認します。残る五着は私費が妥当でしょう」
「全部駄目と言わないの?」
「仕事に必要なものまで自費にすれば、それはそれで制度がおかしくなります」
マリアンヌは妙な顔をした。
「あなた、前より優しくなった?」
「なぜです?」
「昔なら『五着も余計に作るなんて』と怒られた気がする」
「昔の私は、怒りながら最後に全部処理していました」
「……そうね」
「ですから、今のほうが厳しいです。ご自分で払っていただきますので」
王女は口を尖らせた。
だが以前のように「エレナが何とかして」とは言わなかった。
その後、一枚ずつ確認していった。
香水は三本中一つだけ公務用。
王女の私室へ置く長椅子は、老朽化による交換なので王女宮費。
宝石二点は私費。
宴会用食器の追加購入は、倉庫に未使用品が残っているため一旦保留。
慈善関係は財務局が予算を再確認し、緊急性の高いものから支払う。
途中、マリアンヌが何度も不満を言った。
エレナも何度か言い返した。
けれど、以前とは一つだけ決定的に違う。
エレナは自分で結論を出さなかった。
「ここはどうするの?」
マリアンヌに聞かれるたび、財務局の担当者へ話を振った。
「担当官殿はどう考えます?」
「王女宮費で認められると思います。ただし今年度予算では不足するため、来年度へ延期するか、補正申請が必要です」
「では王女殿下、どちらになさいます?」
「……来年まで待てるものなら、延期するわ」
「記録してください」
最初はおどおどしていた若い官吏も、昼を過ぎるころには自分で規則集を開き、王女へ意見を言うようになった。
その変化を見ていると、エレナは不思議な満足感を覚えた。
自分で全部片づけるより時間はかかる。
時々、横から答えを言いたくて舌を噛みそうにもなる。
でも、これなら次から自分がいなくても回る。
それが本来の仕事なのだ。
◇
「終わった……」
午後三時を少し過ぎたころ、マリアンヌが机へ突っ伏しかけ、侍女に止められた。
「王女殿下、お姿勢が」
「今日は許して」
「私からもお願いいたします。まだ四枚残っています」
「エレナ!」
「冗談です。今日確認するべきものは終わりました」
王女は本気で安心した顔をした。
百二十七枚のうち、即時支払い可能なもの、追加確認が必要なもの、私費へ回すもの、注文内容自体を争う必要があるものまで、おおよその分類が終わった。
「ねえ、エレナ」
「はい」
「以前は、これを全部一人でやっていたの?」
「全部ではありません。各部署に確認はしていました」
「でも最後はあなたが決めていたのでしょう」
「決めるというより、案をまとめていました」
「同じようなものよ」
マリアンヌはしばらく黙っていた。
「私、あなたが王宮で偉そうにしていると思っていた」
エレナは少しだけ眉を上げた。
「本人へずいぶんなことを言いますね」
「だって本当だもの。いつも忙しそうで、何か聞いても『後にしてください』って言うし、欲しいものを頼むと予算がどうとか言うし。お兄様にも遠慮なく注意するし」
「どれも事実ですね」
「だから、王太子妃になるからって偉くなったつもりなんだと思っていた」
マリアンヌは指先で帳簿の角をいじった。
「でも違ったのね」
「すべて誤解だったとも申しません。私も余裕がありませんでしたし、言い方がきつかったことはあったでしょう」
「でも、私が買ったドレスの後始末までしていたとは知らなかった」
「それは知らないほうがよかった仕事ですから」
「どうして?」
問われて、エレナは少し考えた。
「王族が何を失敗したか、いちいち表へ出さないための役目でしたから」
「……それで、あなたが悪いことになっていた?」
エレナは答えなかった。
答えなくても、マリアンヌには伝わったらしい。
「十五歳のときの舞踏会」
突然、王女が言った。
エレナの記憶にもある。
予定の三倍近い費用がかかった、あの誕生日舞踏会。
「あのとき、私は豪華にしたいって言った。でも新聞には、あなたが私をそそのかして贅沢をさせたって書かれた」
「昔の話です」
「私、その記事を見て安心したの」
マリアンヌの声が小さくなった。
「お父様に叱られていたから。『全部エレナのせいになったなら、これ以上怒られない』って。私、あなたに何も言わなかった」
エレナは膝の上に置いた手を見た。
覚えている。
あの頃、マリアンヌはまだ幼かった。
責める気にはなれない。
それでも、まったく痛くないわけではなかった。
「王女殿下」
「ごめんなさい」
「今は、その謝罪を受けます」
マリアンヌが顔を上げた。
「セシリア様には、『何でも謝ればよいわけではない』と昨日申し上げました。でもこれは、殿下ご自身が覚えていることでしょうから」
「セシリアと会ったの?」
「昨日、我が家へいらっしゃいました」
「何を話したの?」
「女性同士の話です」
「ずるい」
「王女殿下でもお教えできません」
少し笑うと、マリアンヌもようやく口元を緩めた。
「ねえ、エレナ。もうお兄様と結婚しないの?」
唐突だった。
「いたしません」
「すぐ答えるのね」
「そこは決まっておりますので」
「お兄様、まだ分かっていないと思う」
「何を?」
「あなたが本当に戻ってこないこと」
エレナは何も言わなかった。
「昨日も、『しばらくすればエレナも落ち着く』って言っていたわ。今は感情的になっているだけだって」
「私が?」
「ええ」
エレナは思わず笑いそうになった。
婚約破棄された本人が泣きも怒鳴りもせず、契約条件を作り、外国からの雇用話まで検討しているのに、アレクシスにはそれが「感情的」に見えているらしい。
「でしたら、そのうち分かるでしょう」
「言ってあげないの?」
「誰が?」
「エレナが」
「なぜ私が?」
マリアンヌが黙った。
それこそ、今までの王宮だった。
アレクシスが分かっていない。
だからエレナが説明する。
王女が失敗した。
だからエレナが処理する。
誰かが困った。
だからエレナが何とかする。
「殿下」
「何?」
「アレクシス殿下が理解するべきことまで、私が代わりに理解させる必要はありません」
マリアンヌは少し考え、静かに頷いた。
「……そうね」
それだけでよかった。
◇
王女宮での仕事を終え、エレナが東門へ向かっていると、廊下の曲がり角で見覚えのある人物が立っていた。
アレクシスだった。
婚約破棄以来、二人きりに近い距離で顔を合わせるのは初めてである。
正確には、少し離れたところに侍従と護衛がいる。
エレナも一礼した。
「王太子殿下」
「……エレナ」
アレクシスは以前と同じ呼び方をした。
それだけで妙な違和感があった。
「王女宮にいたそうだな」
「はい。本日より臨時助言業務を開始いたしました」
「聞いている」
「それでは、何か?」
アレクシスの顔がわずかに強張った。
以前なら、エレナから彼の予定を尋ねたり、食事を取ったか確認したり、その日の会議について話したものだった。
今は用件がなければ会話を始める理由がない。
「リューデンとの交渉について、外務卿から報告を受けた。君が示した資料のおかげで、向こうの要求を一部押し戻せそうだ」
「それは何よりです」
「……それだけか?」
「はい?」
「以前なら、次に何をすべきか聞いただろう」
「今は外務省の担当でございます」
「君ならどうする」
エレナは少しだけ間を置いた。
「契約上、私は王女宮の会計引き継ぎのために登城しております。リューデン案件について助言が必要でしたら、正式に依頼をお願いいたします」
「私と君の間で、そこまで形式にこだわる必要があるのか?」
「ございます」
アレクシスの目に、傷ついたようなものが浮かんだ。
それを見て、エレナの胸もまったく動かなかったわけではない。
十年の習慣は四日では消えない。
「殿下」
少しだけ声を和らげる。
「形式を作らなかったから、今まで誰の仕事か分からなくなったのです。私は殿下を困らせるために線を引いているのではありません。同じことを繰り返さないためです」
「……分かっている」
口ではそう言ったが、表情までは納得していなかった。
「それから」
アレクシスは言いにくそうに続けた。
「レーヴェルトのルシアン殿下が、君を雇うという話を聞いた」
もう王宮まで伝わっているらしい。
「はい。一か月の試用契約を結ぶ予定です」
「本当に受けるのか」
「そのつもりです」
「なぜ他国のために働く」
「利益相反案件には関与しない契約です。それ以外については、私個人の仕事ですので」
「個人の……」
「私はもう、殿下の婚約者ではございません」
言ったあと、二人の間に沈黙が落ちた。
以前なら残酷だと思って避けた言葉だったかもしれない。
でも今は、曖昧にするほうが残酷だ。
「そうだったな」
アレクシスは小さく言った。
エレナは礼をする。
「本日の契約時間が終わっておりますので、失礼いたします」
「待て」
「まだ何か?」
アレクシスは何かを言いかけ、結局、別の言葉を選んだ。
「……今日は何時まで働いた?」
予想外の質問だった。
「九時から十五時までです。途中に休憩を一時間いただいております」
「それだけ?」
「契約ですので」
「以前は、そのあとも夜まで残っていただろう」
「以前が長すぎたのです」
「そうか」
その「そうか」には、これまでより少しだけ実感があった。
エレナは今度こそ王太子の前を辞した。
背中に視線を感じたが、振り返らなかった。
◇
東門を出ると、公爵家の馬車が待っていた。
ミナが先に乗り込み、エレナも続く。
扉が閉まった瞬間、エレナは座席の背へ深く身体を預けた。
「お疲れですか?」
「六時間しか働いていないのに、妙に疲れたわ」
「以前は十二時間以上働いておりました」
「人間、楽を覚えると駄目ね」
「正常になっただけです」
馬車がゆっくり動き始める。
「それで、百二十七枚はどうなりました?」
「今日中に全部支払う必要はなくなったわ。分類して、担当者が処理することになった」
「お嬢様は?」
「何もしない」
「本当に?」
「助言したわよ」
「でも、支払い交渉や予算の組み替えは?」
「財務局がする」
ミナは数秒黙ったあと、なぜか満足そうに頷いた。
「立派です」
「何が?」
「他人へ仕事を任せられました」
「子供が初めて一人で靴を履いたみたいに褒めないで」
「十年間できなかったことですので」
「そこまで言う?」
エレナは呆れながらも笑った。
窓の外へ王宮が遠ざかっていく。
今日、問題は完全には解決していない。
請求書はまだ残っている。
支払い交渉もこれからだ。
だが、それでいい。
自分一人で夕方までにすべてを片づけなくても、王宮は明日も存在する。
それを知ることも、必要な引き継ぎなのだろう。
公爵邸へ戻ると、玄関で執事が待っていた。
「お嬢様。レーヴェルト王国大使館より、こちらが届いております」
「契約書?」
「いいえ。初回の業務資料とのことです」
渡された革製の書類袋は、かなり厚い。
エレナはその重さを確かめ、少しだけ嫌な予感を覚えた。
「ミナ」
「はい」
「私、面倒事が好きなわけではないのよね?」
「まだおっしゃっていたのですか」
書類袋を開く。
最初の紙には、周辺五か国通商制度見直し協議、と記されていた。
その下には現在までの交渉状況。
五か国。
六種類の通行税。
三種類の商人資格。
二つの港湾協定。
そして半年間、ほぼ進展なし。
エレナは読み進めるうち、疲れていたはずの目が自然と文章を追い始めていることに気づいた。
「お嬢様」
「何?」
「楽しそうです」
「そんなことありません」
「顔がそう言っています」
「これは仕事よ」
「はい」
「本当に仕事だから」
「分かっております」
ミナの返事はまったく信用していない人間のものだった。
エレナは反論しながらも、書類から目を離せなかった。
王宮で百二十七枚の請求書を片づけたその日の夕方、今度は五か国が半年かけてもまとまらなかった通商協議が、彼女の机へやってきた。
どうやら新しい仕事も、暇とは縁がなさそうだった。




