第7話 悪女に謝ってはいけません
応接室へ入った瞬間、エレナは、セシリアが婚約破棄の夜とは別人のように見えた。
もちろん容姿が変わったわけではない。淡い金色の髪も、春の空を思わせる青い瞳もそのままで、今日の薄桃色のドレスも彼女の柔らかな雰囲気によく似合っている。
違うのは、姿勢だった。
あの夜、アレクシスの隣に立っていたセシリアには、戸惑いながらも「自分は正しいことをしている」という支えがあった。悪い婚約者から王太子を救い、これからは皆が笑える王宮になる。少なくとも、彼女自身はそう信じていたのだろう。
今は、その支えがどこかへ消えている。
長椅子の端に腰を掛け、膝の上で両手を重ねているものの、指先は落ち着きなく絡まり合っていた。
エレナが入室すると、セシリアは勢いよく立ち上がった。
「エレナ様」
「お待たせいたしました、セシリア様。どうぞお座りください」
「あの、私……今日は――」
「まず座りましょう。立ったまま謝罪を始められると、こちらも立って受けなければならなくなります。そうすると、お茶が冷めます」
セシリアが目を瞬かせた。
「……お茶、ですか?」
「ええ。料理長がせっかく用意してくれましたから」
あまりに場違いな返事だったのかもしれない。
セシリアの張り詰めていた表情が、ほんの少しだけ崩れた。
「分かりました」
二人が向かい合って座る。
ミナはいつも通り茶を淹れたが、セシリアを見る目には隠し切れない警戒があった。主人の婚約者を奪った女性として腹を立てているのだろうが、さすがに来客の前で口には出さない。
エレナはそれだけでも、ここ数日に比べれば立派な自制心だと思った。
「それで、本日はどのようなご用件でしょう」
尋ねると、セシリアはカップに触れようとしていた手を止めた。
「……謝りに参りました」
「何についてでしょう」
セシリアの顔に困惑が浮かぶ。
「何について、と申されましても……全部です」
「それが一番困ります」
「え?」
「謝罪というものは、何について謝るのかをはっきりさせなければ意味がありません。自分が何をしたか分からないまま、とにかく全部悪かったと言われても、受け取る側は何を許せばよいのか分からないでしょう」
「……そう、ですね」
「ですから、順番にお聞きします」
つい仕事のような話し方になっている。
エレナは自分でも気づいたが、他にどう接すればよいのか分からなかった。
目の前にいる女性は、三日前まで自分の婚約者だった男から愛を告げられた人なのだ。
憎いかと問われれば、簡単には答えられない。
嫉妬がないと言えば嘘になる。
アレクシスがセシリアを見るときの優しい顔を思い出せば、胸の奥には今でも小さな棘が刺さる。
それでも、セシリアを一人の悪女として憎めるほど、エレナは彼女について何も知らないわけではなかった。
「では……婚約のことです」
セシリアが意を決したように言った。
「私は、アレクシス様がエレナ様との婚約を解消なさることを望みました。もちろん、あのような夜会の場で突然発表されるとは知りませんでした。でも……エレナ様との婚約がなくなればよいと思っていたのは、本当です」
ここで「あなたは悪くない」と言えば簡単だった。
しかし、それは違う。
だからエレナは黙って続きを待った。
「私は、エレナ様がアレクシス様を苦しめていると思っていました」
「そうでしょうね」
あまりにもあっさり認めたため、セシリアが顔を上げた。
「怒らないのですか?」
「そのように聞かされていたのでしょう?」
「……はい」
「なら、そう信じること自体は不思議ではありません」
王宮は十年間、エレナを悪役として利用してきた。
それを知らないセシリアだけに「なぜ信じたのか」と責めるのは筋が通らない。
「アレクシス様からも、周囲の方々からも、エレナ様は気位が高くて、王太子妃になることに執着していて、殿下の自由を認めない方だと聞いていました」
「だいたい世間で言われている内容と同じですね」
「私……それを疑いませんでした」
「そこは少し反省なさってもよいかもしれません」
セシリアは驚いたようにエレナを見る。
優しく許してもらえると思っていたのだろうか。
それなら期待には応えられない。
「私はセシリア様に、何でも自分を責めろとは申しません。ただ、誰か一人を悪人にする話は便利です。その人だけが悪いと思えば、他の人間について考えなくて済みますから」
エレナはカップを置いた。
「ですから今後は、誰かから『あの人が全部悪い』と聞いたとき、一度くらいは疑ってください。それが今回のことで得られる教訓なら、無駄にはならないでしょう」
セシリアはしばらく俯いていたが、やがて小さく頷いた。
「はい」
「では、それについては謝罪を受けます」
「……許して、くださるのですか?」
「謝罪を受けることと、何もなかったことにするのは別です」
エレナは少しだけ困って笑った。
「私もそこまで器が大きくありません。正直に申し上げれば、あなたを見ると少し腹が立ちます」
セシリアの顔が青ざめた。
「ですが、あなたが嫌いだからではありません。三日前まで婚約していた男性が、自分ではなくあなたを選んだのですから、何も感じないほうがおかしいでしょう」
「エレナ様……」
「だから、私が時々あなたに冷たくしてしまっても、そこは少しだけ大目に見てください。その代わり、あなたを陥れたり、根も葉もない噂を流したりはしません」
セシリアはしばらく何も言わなかった。
やがて目元を押さえる。
「そういう方だったのですね」
その言葉には、エレナも少し傷ついた。
「どういう意味でしょう」
「ごめんなさい。変な意味ではなくて……もっと怖い方だと思っていました」
「その正直さは嫌いではありませんけれど、本人を前に言う言葉ではありませんね」
「ご、ごめんなさい」
「今の謝罪は受けます」
セシリアが泣きそうな顔で笑った。
その表情を見て、エレナも少しだけ力が抜けた。
どうやら、この女性と殴り合うような関係にはならずに済みそうだった。
「ですが、今日いらした理由は、それだけではなさそうですね」
エレナが言うと、セシリアの笑みが消えた。
やはり。
先ほどから、彼女には別の不安がある。
「王宮で何かございましたか?」
「……王太子妃教育が始まりました」
「ずいぶん早いですね」
「まだ正式な婚約発表は先だそうです。でも、私には学ぶことが多いから、すぐに始めたほうがよいと」
それ自体は不自然ではない。
セシリアは伯爵令嬢であり、宮廷作法の基礎は身につけていても、将来の国母として学ぶ内容は膨大だ。
「それで?」
「昨日、最初の説明を受けたのです。王太子妃がどのような仕事をするのか」
エレナは黙った。
「先生が、以前の資料を持ってきました。エレナ様が使っていた予定表や記録も」
「私の?」
「はい」
嫌な予感がした。
「一日の予定を見たら、朝六時から夜まで埋まっていました。王宮行事、慈善基金、外国使節との面会、孤児院や病院への訪問、陳情書の確認、それから……」
セシリアは言葉を詰まらせた。
「それは、王太子妃候補として表に出ていた予定でしょう」
「先生もそう言いました。『こちらは表向きの予定です』と」
エレナは額へ手を当てたくなった。
「その先まで見せたのですか」
「はい」
「誰が許可したのかしら」
「国王陛下だそうです」
それなら仕方がない。
おそらく国王は、今度こそ次の王太子妃候補へ現実を隠さないことにしたのだろう。
「私、分からなくなったのです」
セシリアは膝の上で手を握った。
「アレクシス様は、エレナ様が王太子妃の立場を利用して人を支配していたと仰いました。でも資料を見れば見るほど、エレナ様は王太子妃になるために得をしていたというより、仕事ばかり増えているように見えて」
「まあ……そこは否定しません」
「それから先生に聞きました。エレナ様は、どれくらいお給金をいただいていたのか、と」
ミナが部屋の端でわずかに動いた。
嫌なところへ話が来た。
「先生は答えられませんでした。後で財務局の方まで来て、正式な給金はなかったと聞きました」
「その件は、私自身にも責任があります。条件を確認せずに引き受けていましたから」
「でも、それなら」
セシリアの声が少し大きくなった。
「エレナ様は何を得るために、そんなことをしていたのですか?」
エレナはすぐには答えられなかった。
何を得るため。
考えたことがなかった。
「最初は、父に言われたからです」
ゆっくりと言葉を探す。
「王家が失敗すれば国が揺れる。公爵家は王家を支えるためにある。だからできる者が支えなさい、と。父が亡くなったあとは、私が途中でやめれば困る人がいると思いました」
「アレクシス様のためではなかったのですか?」
その問いは、思いのほか深く刺さった。
「……それも、ありました」
エレナは誤魔化さなかった。
「昔は好きでしたから」
セシリアの指が動いた。
「昔は?」
「そこを細かく聞かれると困ります」
「ごめんなさい」
「謝らなくていいです。私自身、今はまだ分からないのですから」
愛していた。
たぶん間違いない。
けれど、いつから愛情と義務が混ざったのか分からない。
婚約者として彼を守りたかったのか、仕事だから守っていたのか、自分でも区別がつかなくなっていた。
「少なくとも、あなたから殿下を取り戻したいとは思っていません」
エレナは静かに言った。
「だから、そのことで怯える必要はありません」
「それを聞きに来たわけでは……」
「分かっています。でも、少しは気になっていたでしょう?」
セシリアは否定できなかったらしく、俯いた。
「……はい」
「人間ですもの。そのくらいは仕方ありません」
沈黙が落ちる。
ミナが静かに茶を足してくれた。
セシリアは新しい茶を少し飲んでから、今度は覚悟を決めたように顔を上げた。
「もう一つ、謝りたいことがあります」
「何でしょう」
「夜会の前に、私はアレクシス様へ言ったのです。『エレナ様との関係を曖昧にしたままでは、誰も幸せになりません』と」
エレナは静かに聞いた。
「婚約を終わらせるなら、きちんと伝えるべきだと。でも私は、二人きりで話してくださるものだと思っていました。まさか皆様の前で……」
「あれは殿下の判断でしょう」
「でも私が背中を押しました」
「なら、その点についてだけ反省してください。ただし、殿下が何をどう言ったかまで自分の罪にする必要はありません」
「……どうしてですか?」
エレナは少し考えた。
「私が今、一番覚えようとしていることだからです」
「エレナ様が?」
「ええ。他人の責任まで引き受けないことを」
口にすると、不思議なほど腑に落ちた。
「私は長い間、それが美徳だと思っていました。誰かの失敗を自分が処理できるなら、そうしたほうが早い。私が責任を負えば皆が助かるなら、それでいい、と。でも、その結果が今の王宮です」
セシリアは黙って聞いている。
「だからあなたにも同じことをしてほしくありません。自分が悪かったところは認める。でも、アレクシス殿下がご自分で決めたことまで背負わない。それくらいでいいのです」
「……エレナ様は、私を恨んでいないのですね」
「先ほど申し上げたでしょう。少し腹は立ちます」
セシリアが、今度はちゃんと笑った。
「でも、それを聞くと安心します」
「そこは安心するところでしょうか」
「エレナ様が何も怒ってくださらないほうが、怖いです」
「私、随分怖がられていますね」
「ごめんなさい」
「また謝っています」
「あ……」
二人とも、少し笑った。
最初に部屋へ入ったときの息苦しさは、かなり薄れていた。
「では、今日はこれで」
セシリアが席を立ちかける。
しかし途中で、もう一度座り直した。
「すみません。最後に、もう一つだけ聞いてもよろしいですか?」
「どうぞ」
「王太子妃教育の先生から、今日これを渡されたのです」
セシリアは持ってきた鞄から、一冊の薄い帳面を取り出した。
見覚えがある。
王女宮の年間支出一覧だった。
エレナの胸に、別の嫌な予感が浮かぶ。
「なぜセシリア様がお持ちなのです?」
「王太子妃は王室行事費の確認もするから、練習として目を通すようにと」
「それ自体は間違っていません」
「でも、数字が合わないのです」
エレナの表情が変わった。
「どこが?」
「王女殿下の昨年度の衣装費です。予算書ではこちらの額なのに、支出記録では少し少ないのです。普通なら使わなかったのだと思うところですが、その下に『未精算』という欄があって……」
エレナは帳面を受け取った。
目を走らせる。
知っている数字だった。
いや、正確には、以前から気になっていた数字である。
「請求書は?」
「そこなのです」
セシリアの顔が曇る。
「先生に聞いたところ、王女宮からまだ財務局へ回っていない請求書があるそうで……」
「何枚?」
「百二十七枚と聞きました」
ミナが小さく息を呑んだ。
エレナは帳面から顔を上げた。
「百二十七?」
「はい」
「金額ではなく?」
「枚数だそうです」
エレナは数秒、言葉を失った。
王女殿下は買い物好きである。
それ自体は知っていた。
ただし以前は、大きな支出についてはエレナが事前に確認し、明らかに過剰なものは翌月へ回すか、王女自身の私費から出すよう調整していた。
ここ数か月、外交案件が重なり、王女宮の細かな支出確認を後回しにしていた時期がある。
その間に百二十七枚。
「……なるほど」
エレナは帳面を閉じた。
「エレナ様?」
「これは私が心配することではございません」
そう言ったものの、自分の声がまったく心配していない人間のものではないことくらい分かった。
ミナも分かっているらしく、何とも言えない顔をしている。
「でも、何か問題があるのですよね?」
「請求書の内容を見ない限り分かりません。ただ、百二十七枚という数字は、少なくとも『何も問題がありません』と言ってよい数字ではないでしょう」
「私、先生に言ったほうがいいですか?」
エレナは一瞬考え、それから頷いた。
「ええ。ただし、あなた自身が解決しようとしないでください」
「はい」
「財務局へ正式に確認を依頼する。それだけで結構です。誰の責任か決めつけず、王女殿下を責めるのもまだ早いです」
「分かりました」
セシリアは立ち上がった。
今度こそ帰るつもりらしい。
扉の前まで行ったところで、振り返る。
「エレナ様」
「何でしょう」
「今日来てよかったです」
エレナは少し迷ってから答えた。
「私も、来ていただいてよかったと思います」
それだけで十分だった。
セシリアが去ったあと、応接室には再び静けさが戻った。
ミナが片づけを始めながら、しばらくして口を開いた。
「お嬢様」
「何?」
「随分お優しかったですね」
「怒鳴ったほうがよかった?」
「いいえ。ただ、もっと複雑かと思っていました」
「複雑よ」
エレナは素直に認めた。
「彼女の顔を見ると、少し胸が痛いし、アレクシス殿下とのことを聞けば気分もよくない。でも、それと彼女を悪人にすることは別でしょう」
「そういうところがお嬢様らしいです」
「褒めています?」
「今日は全部褒めています」
「珍しいわね」
ミナは笑ったあと、卓上に残った王女宮の帳面へ目を向けた。
「ところで、百二十七枚というのは、かなり多いのですか?」
「内容によるわ」
「例えば?」
「仕立屋が一着ごとに請求書を分けているなら、それほどでも……」
そこまで言って、エレナは黙った。
自分で言っておいて無理がある。
「お嬢様?」
「……かなり多いわね」
「ですよね」
そのときだった。
玄関のほうから、聞き覚えのある慌ただしい足音が近づいてきた。
エレナは嫌な予感を覚えた。
数分前にも同じようなことを考えた気がする。
扉が叩かれ、執事が入ってきた。
「お嬢様。王宮財務局から、至急の使者でございます」
ミナが目を閉じた。
「早いですね」
「まだ何も言われていないでしょう」
「ですが、たぶん当たります」
執事が差し出した封書を開く。
エレナは最初の数行を読み、次に末尾を確認した。
そして、静かに紙を机へ置いた。
「当たったわ」
「王女殿下ですか?」
「ええ」
「請求書が?」
「百二十七枚」
ミナは額に手を当てた。
「全部、本物なのですか?」
「それを確認するため、明日の引き継ぎ業務を王女宮から始めてほしいそうよ」
「お嬢様、まだ正式な勤務開始日は決まっていませんでしたよね」
「ええ」
「では断れますね」
エレナは封書をもう一度見た。
国王名義の正式な依頼であり、自分が提示した条件も守られている。
財務局の担当者を置き、エレナには調査ではなく引き継ぎと助言だけを求める、と明記してある。
少なくとも、以前とは違う。
「契約開始を明日にしましょう」
「よろしいのですか?」
「百二十七枚を放置したままレーヴェルトで仕事を始めたら、たぶん私は会議中にも気になります」
「やはり面倒事がお好きなのでは?」
「違います」
「では、何です?」
エレナは少し考えた。
「片づいていない帳簿が嫌いなのよ」
「それを世間では面倒事好きと呼ぶのではないでしょうか」
「呼びません」
言い返したものの、説得力はなかった。
三日前、王宮から解放されたはずだった。
そして明日、エレナは自分で決めた条件、自分で決めた報酬、自分で決めた立場で、再び王宮へ足を踏み入れる。
ただし今度は、誰かの罪をかぶるためではない。
百二十七枚の請求書を、百二十七枚のまま見るために。
誰が何を買い、誰が許可し、誰が払うべきなのか。
嘘を一つも足さずに確かめるためだった。




