第6話 悪役令嬢の給料
翌朝、エレナは自室の机いっぱいに紙を広げていた。
片側には王宮から届いた三か月間の臨時助言契約書、もう片側にはレーヴェルト王国大使館から送られてきた修正版の雇用契約書がある。さらに中央には、ミナがどこからか持ち出してきた帳簿まで置かれていた。
「それは何?」
「お嬢様がこれまで王宮関係でどのくらいお金を使ってきたか、分かる範囲で調べたものです」
「どうしてそんなものを調べたの」
「昨日、お嬢様がご自分のお給金にあまりにも無頓着だと判明したからです」
ミナは当然のように答えた。
朝食を終えたばかりだというのに、彼女の表情は妙にやる気に満ちている。侍女というより、長年不正会計を追ってきた監査官のようだった。
「私の仕事に報酬がなかったことと、支出は別でしょう」
「別ではありません。お嬢様は王宮の仕事で夜会へ出るために追加でドレスを仕立てたり、急な使者を迎えるために公爵家の馬車を出したり、王宮へ持ち込む文書を邸内の書記に清書させたりしていました。それを全部『公爵家の都合』として処理していたのですよね?」
「必要経費として請求したものもあるわ」
「全部ではありません」
「……全部ではないわね」
そこは否定できなかった。
王家のために使った費用を一々請求することを、エレナ自身が品のないことだと思っていた時期がある。
王太子妃候補なのだから、この程度は当然。
将来自分が入る家のためなのだから、細かく勘定するほうがおかしい。
そう考えていた。
今思えば、その「当然」という言葉ほど便利に人を働かせるものはない。
「これを見てください」
ミナが帳簿を一冊開いた。
「去年一年だけで、王宮関連の追加支出がこの額です」
示された数字を見て、エレナは黙った。
「……こんなに?」
「はい」
「衣装代が多すぎない?」
「『王太子妃候補として同じ夜会に同じドレスで出席するわけにはいかない』と仰ったのは、お嬢様です」
「誰もそこまで言っていないわ」
「でも、お嬢様はそう考えました」
「……そうね」
ミナは次の頁をめくった。
「それから、外交使節との非公式茶会。お嬢様が個人的に招いた形にして、実際には王宮側の要請で開いたものが八回あります」
「そんなにあった?」
「ございました。そのたびに我が家が茶葉と菓子と人件費を出しております」
「それくらいなら……」
「その『それくらい』を十年積み上げた結果が、こちらです」
数枚の紙をまとめて差し出され、エレナは受け取った。
概算とはいえ、なかなか見事な金額だった。
働いて金をもらわないだけならまだしも、自分の家から金まで出していたらしい。
「私、馬鹿だったのかしら」
思わず口にすると、ミナはすぐには答えなかった。
「そこは、少しくらい否定してくれてもいいでしょう」
「どう申し上げればお嬢様を傷つけずに済むか、考えておりました」
「傷つけない前提なら、普通は即座に否定するものではなくて?」
「では、善意の方向が少し独特だった、ということで」
「ほとんど馬鹿と言っているのと同じよ」
エレナは帳簿を閉じた。
怒る気にはなれなかった。
ミナの指摘には、どれも心当たりがある。
王宮側から「用意してくれ」と明確に頼まれたわけではない。けれど、必要だと分かっているから自分で準備した。
相手国の好みを調べ、酒や茶を手配し、席順を決め、何かあれば公爵家の名前で謝れるようにした。
そうしていれば物事が円滑に進んだから、誰も疑問を持たなくなった。
自分自身も含めて。
「お嬢様」
「何?」
「以前のことを悔やんでいらっしゃいますか?」
ミナの声が少しだけ柔らかくなった。
エレナは即答せず、窓の外を見た。
庭では使用人たちが落ち葉を集めている。乾いた葉が箒に押される音が、開けた窓から微かに聞こえてきた。
「悔やむというより、驚いているのだと思うわ」
「何にです?」
「自分で選んでいたつもりだったことの中に、ずいぶん『そうするしかない』と思い込んでいたものが混ざっていたことに」
王太子妃候補だから。
公爵令嬢だから。
王家に恩があるから。
父から受け継いだ役目だから。
どれも完全な嘘ではない。
だからこそ厄介だった。
「でも、全部嫌だったわけではないのよ」
「分かっています」
「そこは分かるの?」
「お嬢様は、本当に嫌な仕事をしているときより、面倒な問題を見つけたときのほうが目が楽しそうでしたから」
「人を面倒事好きみたいに言わないで」
「違うのですか?」
エレナは答えず、レーヴェルト側の契約書を持ち上げた。
昨日こちらから出した条件は、ほぼすべて反映されている。
一か月の試用期間。
利益相反案件からの辞退権。
王宮の引き継ぎ業務との日程調整。
雇用主と意見が対立したことのみを理由とした即時解雇の禁止。
そして、広報利用の制限。
「それにしても、本当にこの額で出すつもりなのね」
「昨日から何度目のお言葉でしょう」
「だって高いもの」
「お嬢様」
ミナが真剣な顔で向かいに座った。
「一度、その『高い』という考えを横に置きませんか?」
「どういう意味?」
「高いか安いかではなく、お嬢様が何を求められ、その仕事にどれだけ責任があるのかで考えるのです。王宮で何年もしていたことに比べれば、むしろ最初から金額が書かれているだけ健全に見えます」
「あなた、急に雇用交渉の専門家みたいなことを言うわね」
「昨日から考えました」
「一晩で?」
「腹が立つと人は賢くなるのです」
その理屈が正しいかどうかは分からないが、今のミナに反論しても勝てそうになかった。
そのとき、扉の外から執事の声がした。
「お嬢様。王宮より使者がお越しです」
エレナとミナが同時にそちらを見る。
「今日は何か約束があったかしら」
「ございません」
「では、また問題?」
「その決めつけもどうかと思います」
ミナはそう言いながらも、あまり否定する顔をしていなかった。
◇
応接室へ通されたのは、王宮財務局の副長官だった。
エレナも何度か会ったことがある。細身で几帳面な男で、数字を一桁間違えた書類を出すと、その場では何も言わず、翌日に修正箇所を赤字だらけにして返してくることで有名だった。
「ヴァルハイト公爵令嬢。突然の訪問をお許しください」
「構いません。今日はどのようなご用件でしょう」
「国王陛下より提示された臨時助言契約について、報酬面の確認を」
その言葉に、エレナは少しだけ姿勢を正した。
「何か問題が?」
「いえ。むしろ逆です」
副長官は書類を一枚取り出した。
「現在提示している額が低すぎるのではないか、と陛下から再検討を命じられました」
エレナは思わず聞き返した。
「……低すぎる?」
「はい」
昨日までなら考えられない会話だった。
王宮から「もっと払うべきではないか」と言われている。
「何かの間違いでは?」
「私も最初はそう思いました」
「副長官」
「失礼。ですが率直に申し上げれば、これまで公爵令嬢が正式な俸給を受け取っていなかったことを、財務局も正確に把握しておりませんでした」
「財務局なのに?」
「そこを言われると返す言葉がございません」
男は苦々しい顔をした。
「王太子妃教育関連の手当、行事費、公爵家への一部補填がありましたので、外から見れば報酬体系が存在するように見えていたのです。しかし実際には、公爵令嬢個人の労務に対する俸給とは別でした」
「私自身も区別しておりませんでした」
「そこも問題です」
まさか王宮の財務官から、自分の無頓着さを叱られる日が来るとは思わなかった。
「陛下は、三か月間の契約について、上級官僚相当ではなく特別顧問として扱うよう指示されました」
「そこまでしなくても」
「公爵令嬢」
副長官の目が細くなった。
「それを決めるのは、これから契約する双方です。少なくとも、働く側が最初から値下げを申し出る必要はないかと」
昨日のルシアンといい、今日の財務局副長官といい、自分の給料を自分以上に真剣に考える人間が急に増えている。
「皆様、私の給与に随分と厳しいですね」
「これまでが曖昧すぎたのです」
「耳が痛いわ」
「私どもも同じです」
副長官はそこで少し声を落とした。
「公爵令嬢が公務に関わっていること自体は、誰もが知っていました。ただ、それが正式な役職ではなかったため、財務局としても『王太子妃候補としての活動』の中へまとめてしまっていた。便利な区分でした」
「便利?」
「請求が来ませんから」
あまりにも正直な答えに、エレナはしばらく黙ってしまった。
副長官は苦笑する。
「今だから申します。公爵令嬢が請求しなければ、こちらもわざわざ『これは誰の負担ですか』と掘り返さなかった。悪意はありませんでしたが、結果として王家も各部署も、その曖昧さへ甘えていたのだと思います」
その言葉は、宰相から聞いた謝罪とは少し違った。
もっと事務的で、そのぶん生々しい。
誰かが明確に悪人だったわけではない。
けれど、皆に少しずつ都合がよかった。
エレナが何も言わず仕事を引き受けることが。
公爵家が費用を出すことが。
責任の所在が曖昧なまま、問題だけ片づくことが。
だから十年続いた。
「分かりました」
エレナは書面を受け取った。
「修正案は確認します。ただし、以前の未払い分を遡って請求するつもりはありません」
副長官がすぐに口を開いた。
「そこについても――」
「しません」
「まだ何も申し上げておりませんが」
「顔に書いてあります」
相手が一瞬黙る。
「……過去の業務について、何らかの補償を検討すべきではないかという話は出ております」
「不要です」
「理由を伺っても?」
「当時の私も納得して働いていました。後から仕組みがおかしかったと気づいたからといって、すべてを騙されたことにしたくはありません」
副長官は少し考えてから、静かに頷いた。
「公爵令嬢らしいお答えです」
「褒めています?」
「半分ほど」
「残り半分は?」
「頑固だと思っています」
「それなら正しい評価です」
副長官は初めて少し笑った。
「では、今後は頑固さも含めて契約条件に反映いたします」
「余計な条項を入れないでください」
◇
王宮からの使者が帰ったあと、エレナは書斎へ戻った。
ミナは待ち構えていた。
「いくら増えました?」
「まず聞くのがそこなのね」
「重要ですから」
「少しだけよ」
エレナが修正版の数字を見せると、ミナは黙った。
「何か言って」
「王宮もやればできるではありませんか」
「上から目線ね」
「十年間無料同然で働かせたところですので、これでも控えめです」
エレナは椅子へ腰を下ろし、レーヴェルトの契約書と王宮の契約書を並べた。
両方合わせれば、以前とは比べものにならない額になる。
もちろん責任も重い。
けれど今度は、何をすればよいのかが明確だ。
「それで、どうなさいます?」
「王宮のほうは受けるわ。条件も守られるなら、引き継ぎを手伝う責任はあると思う」
「レーヴェルトは?」
エレナは少し間を置いた。
「……受けようと思う」
口にした途端、決意が形になった。
自分で選ぶ。
それだけのことが、こんなに緊張するとは思わなかった。
「本当に?」
「ええ。一か月の試用期間からだけれど」
ミナの顔が明るくなった。
「では、正式にお返事を?」
「今日中に出すわ」
「ルシアン殿下もお喜びになりますね」
「なぜそこで殿下個人の話になるの」
「お嬢様を雇いたいと言い出したのは殿下でしょう?」
「国としてよ」
「でも推薦したのは殿下です」
「ミナ」
「はい」
「あなた、そろそろ恋愛小説の読みすぎではない?」
「私は何も恋愛の話などしておりません」
「顔がしているの」
ミナは知らないふりをして便箋を準備し始めた。
エレナは軽く睨んだものの、すぐに諦めた。
返書を書き始める。
契約条件を了承すること。
一か月の試用期間をもって特別外交顧問の職を受けること。
祖国との利益相反案件には関与しないこと。
そして、最初の勤務日について相談したいこと。
一文字ずつ書きながら、妙な感覚が胸に広がっていった。
誰かに命じられた文章ではない。
王太子の名前を守るための文書でもない。
自分自身が、自分の意思で新しい仕事を受けるための手紙だった。
「できたわ」
封を閉じる。
ミナが受け取ろうとした、そのときだった。
廊下から慌ただしい足音が近づいた。
また王宮かと、エレナは反射的に思った。
しかし入ってきた執事が告げた名前は違った。
「お嬢様。セシリア・アルノー伯爵令嬢がお見えです」
エレナの手が止まった。
「セシリア様が?」
「はい。お一人ではございません。王宮から護衛が二名ついておりますが、面会についてはご本人からの申し入れです」
ミナの表情から笑みが消えた。
「お嬢様、断ってもよろしいのですよ」
エレナはすぐには答えなかった。
婚約破棄の夜以来、セシリアとは会っていない。
恨んではいない。
少なくとも、自分ではそう思っている。
だが、平然と会えるほど何も感じていないわけでもなかった。
「用件は?」
「『エレナ様に謝りたいことがある』と」
エレナは目を伏せた。
何に対する謝罪なのだろう。
婚約を奪ったことか。
悪女だと信じていたことか。
それとも、王太子妃候補として王宮へ入ったことで、何かを知ったのか。
「お嬢様」
ミナが心配そうに呼ぶ。
「会うわ」
「よろしいのですか?」
「逃げ続けるような相手ではないでしょう。それに……」
エレナは一度、言葉を選んだ。
「セシリア様は、あの夜からまだ何も選べていない気がするの」
アレクシスに選ばれた。
王宮に迎えられた。
皆から善良な令嬢だと褒められた。
けれど、それが本人の望みと同じとは限らない。
「応接室へご案内して」
「承知いたしました」
ミナが部屋を出ていく。
机の上には、二つの契約書と、自分で選んだ新しい仕事への返書が残っていた。
三日前まで、自分には王太子妃になる未来しかないと思っていた。
今は、いくつもの選択肢がある。
そしてこれから会う女性は、もしかすると自分とは逆に、たった一つの未来へ押し込まれ始めているのかもしれない。
エレナは返書を引き出しへしまい、立ち上がった。
給料について考えていたはずの一日は、どうやらそれだけでは終わってくれないらしい。




