第5話 あなたを雇いたい
翌朝、レーヴェルト王国大使館から届いた封書は、昨日ルシアンが残していった覚え書きとは比べものにならないほど仰々しかった。
厚手の上質紙に銀鷹の封蝋が押され、宛名にはエレナの名だけでなく、公爵家における正式な称号まで一字の省略もなく記されている。さらに封書を運んできたのは単なる使者ではなく、大使館付きの一等書記官だった。
つまりこれは、ルシアン個人の思いつきではない。
レーヴェルト王国として差し出された正式な文書である。
「昨日、『ますます欲しくなる』などとおっしゃっていたのは、やはりこの意味だったのですね」
朝食後の居間で書面を読み終えたエレナへ、背後から覗き込んでいたミナが言った。
「人の手紙を後ろから読まないでちょうだい」
「隠していらっしゃらないので、読んでもよいものかと」
「それなら前から読みなさい。後ろに立たれると落ち着かないの」
「そこですか?」
ミナは素直に回り込み、向かいの椅子へ腰を下ろした。
使用人が主人と同じ卓につくなど、本来なら公爵家の作法から外れている。しかし私室に近い小さな居間であり、エレナも今さら咎める気にはならなかった。
昨日までの自分なら、こんなことにも細かな線を引いていただろう。
婚約破棄からわずか三日で、生活には思いのほか小さな変化が増えている。
「それで、本当に雇いたいと書かれているのですか?」
「ええ。役職名は『特別外交顧問』。ただし、正式任官ではなく六か月間の期限付き契約を想定しているそうよ」
「外国の?」
「外国の」
「お嬢様を?」
「そう書いてあるわね」
ミナは何度か瞬きをしたあと、妙に感心したように頷いた。
「婚約破棄されて三日で外国から引き抜かれる令嬢というのも、なかなか聞いたことがありません」
「私も聞いたことがないわ」
「では、珍しいことなのですね」
「そこを喜ぶべきなのかしら」
エレナはもう一度、契約条件の草案へ目を落とした。
内容は驚くほど具体的だった。
担当するのは、レーヴェルト王国と周辺諸国との通商・外交案件に関する助言。外交使節団の一員として会議へ出席することはあるが、レーヴェルト国王や王族の名を使って独断で交渉する権限は持たない。
また、エレナがヴァルハイト公爵家の令嬢であり、この国の臣下でもあることを考慮し、祖国とレーヴェルトの利害が直接衝突する案件については担当から外れる。
さらに、王宮から依頼される引き継ぎ業務との両立も認める。
ずいぶん考えられている。
少なくとも、優秀そうだからとりあえず連れていこう、という話ではなかった。
「殿下は、お嬢様が昨日宰相閣下へお話しになった条件をご存じだったのでしょうか」
「昨日の面会時点では知らなかったはずよ。宰相閣下が来られたのは、ルシアン殿下がお帰りになる直前だったもの」
「それなのに、王宮の引き継ぎと両立できる条件を?」
「私が祖国を完全に捨てるつもりはないと読んでいたのでしょうね」
そう考えると、少し腹が立つ。
自分でもまだ整理し切れていなかった気持ちを、他人に先回りして理解されたようで居心地が悪い。
「返事はどうなさいます?」
「話を聞いてから決めるわ」
「断るのではないのですね」
「条件を読む限り、最初から断る理由もないでしょう」
エレナがそう答えると、ミナは口元をわずかに緩めた。
「何?」
「いえ。昨日までは、仕事がないことを随分楽しんでいらしたのにと思いまして」
「仕事をしたくないとは言っていないの。誰かの失敗を無条件で引き受ける仕事をしたくないだけよ」
「なるほど」
「それに……」
エレナは言葉を切った。
「それに?」
「何でもないわ」
本当は、少し嬉しかった。
王太子の婚約者だからでも、公爵令嬢だからでもない。
まして、王家の汚点を引き受ける便利な人間だからでもない。
自分がこれまで身につけてきた能力そのものに値段をつけようとする相手が現れた。
その事実を喜ぶのは、まるで自分から褒められたがっているようで、口にするのが少し恥ずかしかった。
◇
午後、エレナはレーヴェルト王国大使館を訪れた。
王都の東側に建つ大使館は、豪華さを競うような建物ではない。灰白色の石壁に濃緑の屋根、正面には銀鷹の紋章旗が掲げられている。庭園にも装飾的な花壇より常緑樹が多く、機能を優先する国柄が建物にも表れているようだった。
案内されたのは、大使館の奥にある小会議室だった。
昨日のような私的な応接ではない。
卓上には契約書の草案、筆記具、関連規則をまとめた冊子まで用意されており、ルシアンのほかに大使館長と法務官らしい女性が同席していた。
エレナは部屋へ入った瞬間、少しだけ気持ちを切り替えた。
今日は世間話では済まない。
「来てくれて感謝する」
ルシアンが立ち上がる。
「正式なお招きでしたので」
「昨日のように十五分早くは呼んでいないぞ」
「覚えていらしたのですね」
「二日続けて叱られたくないからな」
そのやり取りに、大使館長がわずかに目を見開いた。
どうやら、自国の王子が外国の公爵令嬢に時間の使い方を注意されたことまでは聞いていないらしい。
「紹介しよう。こちらは我が国の駐在大使、ハインツ・ベルナー。隣が法務官のクララ・イシュタールだ。今日の話は私個人ではなく、正式に大使館を通したものになる」
「エレナ・ヴァルハイトでございます。本日はお時間をいただき、ありがとうございます」
挨拶を済ませ、全員が席につく。
ルシアンはすぐには契約書を差し出さなかった。
「先に言っておく。君を我が国へ連れて帰る相談ではない」
「その点は草案で確認しております」
「なら話は早い。私が欲しいのは、君の肩書ではなく判断力だ」
またこの男は、言い方が真っ直ぐすぎる。
昨日から何度か感じたが、ルシアンは無口なのではない。必要のない愛想を省いているだけなのだろう。
「具体的には、何をお求めですか?」
「まず、現在進めている周辺五か国との通商制度の見直しだ。国境ごとに違う通行税、港湾使用料、商人資格の相互承認を整理したい。ただ、各国が自国だけ有利な例外を入れたがるせいで、協議が半年止まっている」
「よくある話ですね」
「君ならどうする?」
「資料も見ずに答えれば、殿下がお望みの賢そうな返事をするだけになります」
大使館長が咳払いをして俯いた。
笑いをこらえたらしい。
ルシアンは不機嫌になるどころか、納得したように頷いた。
「やはり、その答えになるか」
「試されたのですか?」
「少しな」
「でしたら次からは試験料をいただきます」
「それも契約へ入れておこうか」
「冗談です」
「私は半分本気だ」
クララと紹介された法務官が、とうとう小さく笑った。
堅苦しかった室内の空気が少しだけ和らぐ。
エレナは契約書へ目を移した。
「質問しても?」
「もちろんだ」
「私を候補に挙げたのは殿下ご自身ですか?」
「ああ」
「国王陛下の許可は?」
「得ている。ただし、父は君を見たことがないから、採用判断は私と大使館に任されている」
「反対は?」
「大いにあった」
あまりにあっさり答えられ、エレナは少し意外に思った。
「理由を伺っても?」
「まず、君は外国の公爵令嬢だ。情報管理上の不安がある。次に王太子の元婚約者という立場が政治利用される恐れがある。そして三つ目に、世間では君の評判が非常に悪い」
エレナは思わず笑った。
「最後だけ妙に分かりやすいですね」
「反論は?」
「ございません。事実ですから」
「そこは否定してもよいところだと思うが」
「世間から嫌われているのは事実です。理由の大半が誤解でも、嫌われているという結果そのものは変わりません」
ルシアンは少しだけ目を細めた。
「だから条件に、広報上の役割を入れなかった」
「……なるほど」
「君に愛想よく笑って我が国の顔になってほしいわけではない。必要なら会議室で嫌われてもらう」
「それは得意分野かもしれません」
「だろうと思った」
「殿下、褒めていませんね?」
「最大級に褒めている」
エレナは契約書の一枚目をめくった。
仕事内容については、不自然なところはない。
むしろ、これまで王宮でしていた仕事より境界線が明確だった。
「機密保持について、祖国との案件から外れるだけでは不十分です。例えば第三国との交渉で得た情報が、結果的に我が国にも影響する場合は?」
今度は法務官クララが答えた。
「その点は別紙三をご覧ください。利害衝突の申告制度を設けています。ヴァルハイト公爵令嬢ご自身が利益相反のおそれを感じた場合、担当を辞退できます。その判断を理由に不利益を与えないことも明記しております」
エレナは該当箇所を確認した。
確かに書いてある。
「私が担当を外れすぎて、雇った意味がなくなった場合は?」
「その場合は契約更新を行わないだけです」
クララの回答も明快だった。
エレナは、少し感心した。
誰かの善意を前提にしていない。
揉める可能性を最初から想定し、書面で処理している。
王宮で自分がやってきたこととは、まるで反対だった。
あちらでは「エレナなら分かっている」「昔からそうしている」「王家のためなのだから」で済まされていた事柄が、ここでは一つずつ文章になっている。
「随分、細かく決めるのですね」
「不満か?」
「いいえ。むしろ安心します」
そう答えた自分の声が思いのほか柔らかく、エレナ自身が少し驚いた。
「曖昧な信頼関係だけで仕事をすると、いつの間にか誰の仕事か分からなくなりますから」
ルシアンは、その言葉の背景を聞こうとはしなかった。
「だから契約を結ぶ。君に働いてほしいが、君の人生まで買うつもりはない」
その一言に、エレナは書面から顔を上げた。
ルシアンは特別なことを言ったつもりはないらしい。
だが、エレナには妙に響いた。
これまでの十年間、仕事と人生の境目などほとんどなかった。
王太子の婚約者であることが仕事であり、公爵令嬢として振る舞うことも仕事で、夜会へ出ることも、笑うことも、悪評を引き受けることも全部役目だった。
人生まで買わない。
そんな当たり前のことを、わざわざ言われた経験がない。
「……契約期間が六か月なのは?」
「君が我が国に合うか、我々が君に合うか、双方で確かめるためだ」
「殿下が私を評価するだけではないのですね」
「雇用とはそういうものだろう。君にも雇い主を選ぶ権利がある」
エレナは無意識に指先で紙の端をなぞった。
王太子妃候補になると決まった十六歳のとき、自分に王家を選ぶ権利があるとは思わなかった。
公爵家の娘として当然のことだと受け入れた。
それを不幸だったとは思わない。
ただ、選べるということ自体が、妙に新鮮だった。
「それから、これは殿下ご自身に伺います」
「何だ」
「なぜ今なのです?」
ルシアンは少しだけ姿勢を変えた。
「昨日も申し上げましたが、殿下は以前から私が何かしていると気づいていたのでしょう。それなら、婚約破棄される以前にも声をかける機会はあったはずです」
「王太子の婚約者を他国が引き抜こうとすれば、それだけで外交問題になる」
「それはそうですね」
「それに、昨日までの君は誘っても来なかっただろう」
エレナはすぐには否定できなかった。
確かに来なかったと思う。
王家に必要とされている限り、自分がその場から離れるという発想すら持たなかった。
「そしてもう一つ」
ルシアンは続けた。
「君が自由になったからだ」
エレナは思わず苦笑した。
「婚約破棄された女性へ、ずいぶんな言い方ですね」
「なら訂正する。君が自分で選べる立場になったからだ」
それなら、少し違って聞こえた。
いや、かなり違う。
「結婚を申し込むつもりはない」
突然そう言われ、エレナは眉を寄せた。
「……はい?」
大使館長とクララまで、わずかに動きを止めた。
どうやら二人にも予定外の発言らしい。
「殿下、なぜ急にそのお話になるのです」
「昨日から君の周囲がそういう目で見るからだ。婚約破棄直後の令嬢へ外国王子が接近すれば、余計な憶測が出る」
「主に私の侍女ですね」
「おそらくな。だから先に否定しておく」
「それは……ありがとうございます?」
礼を言う場面なのか判断に迷う。
ルシアンも少し困ったように口元を歪めた。
「私も今、言い方を間違えた気がしている」
「珍しいですね」
「君と話していると、考えていた順番が崩れる」
「それを私の責任にしないでください」
「していない。だが、言いたかったことは簡単だ。婚姻を条件に君を囲い込むつもりはない。まず仕事の相手として来てほしい」
エレナは、その言葉を黙って聞いた。
「そして、その先は?」
何となく聞いてしまった。
ルシアンが一瞬だけ目を瞬かせる。
エレナ自身も、聞いたあとで余計だったと思った。
「……いえ、今のは忘れてください」
「忘れろと言われると、覚えておきたくなるな」
「殿下」
「冗談だ。将来まで契約書に書く気はない。六か月後に互いを嫌っているかもしれないし、仕事上は合っても私生活では顔も見たくないと思っているかもしれない」
「十分あり得ますね」
「そこで迷いなく頷くか」
「殿下が先におっしゃったのでしょう」
大使館長はもう隠す気もなく笑っていた。
クララは契約書へ顔を落としているが、肩がわずかに揺れている。
ルシアンは諦めたように息を吐いた。
「ともかく、最初から男女の話にして君の選択肢を狭めるつもりはないということだ」
「……分かりました」
その説明なら、納得できた。
むしろありがたい。
婚約が終わって三日しか経っていない。新しい恋を考えるほど、自分の気持ちは整理できていなかった。
今欲しいのは、誰かの妻になる次の席ではない。
自分が何をしたいのか考える時間だった。
「では、最後に最も重要な話をしよう」
ルシアンが別の紙を差し出した。
「報酬だ」
エレナは書面を受け取り、記された金額を見た。
しばらく意味が理解できなかった。
もう一度読む。
月額。
間違いなく月額と書いてある。
「殿下」
「何だ」
「これは半年分の総額では?」
「月額だ」
「書き間違いでは?」
「私をどれほど雑な雇用主だと思っている」
「ですが、この額は……」
「相場より高めに設定している。それは認める。君を他国に取られたくないという事情も含んでいるからな」
エレナは計算した。
年換算すれば、かなりの額になる。
上級官僚の俸給を明らかに超えている。
「高すぎます」
「仕事に見合わなければ契約更新時に下げる」
「そういう問題ではありません」
「では逆に聞こう。これまで君はいくらもらっていた?」
エレナは答えようとして、止まった。
「……何の報酬でしょう」
「昨日までしていた仕事のだ」
「王太子妃候補としての生活費は王家から一部支給されていました。衣装費や公式行事に必要な経費も」
「それは報酬ではない。外交調整、文書作成、危機対応に対する給金だ」
エレナは黙った。
ルシアンの眉が、少しずつ寄っていく。
「まさか」
「正式な官職ではございませんでしたので」
「待て」
ルシアンが珍しく言葉を遮った。
「無給だったのか?」
「完全な無給というわけではありません。王太子妃教育に伴う手当が――」
「それは教育手当だろう」
「公爵家にも王家から毎年一定の――」
「それは家同士の費用負担だ」
「……細かいですね」
「細かくもなる」
昨日まで比較的落ち着いていたルシアンの声に、初めて露骨な苛立ちが混じった。
「十年だぞ?」
「正確には、すべての仕事を十年間していたわけではありません。最初の数年は父の補佐でしたし、本格的に任されるようになったのは――」
「期間の訂正をしている場合ではない」
大使館長が横を向いた。
笑っているのではない。
今度は明らかに気まずそうだった。
クララも契約書から顔を上げ、エレナを何とも言えない目で見ている。
「エレナ」
「はい」
「君は、報酬も決まっていない仕事を何年もしていたのか?」
「王太子妃になる予定でしたので、将来の自分の国を支える仕事だと考えていました」
「それは仕事を無料にしてよい理由にはならない」
「公爵家には十分な資産があります。生活に困っていたわけでは――」
「君が金に困っているかどうかと、労働に対価を払うかは別の話だ」
言われて、エレナは黙った。
その考え方をしたことがなかった。
公爵家の娘なのだから。
王太子妃になるのだから。
将来の国母なのだから。
それらを理由に、仕事と義務の境目を考えずに来た。
「……そんなに変でしょうか」
自分でも、少し間の抜けた質問だと思った。
ルシアンはすぐには答えなかった。
代わりに大使館長を見た。
「ハインツ」
「はい」
「この額では安いかもしれない」
「殿下、今そこで増額しないでください」
エレナは思わず止めた。
「なぜだ」
「話が変わってしまいます」
「これまでの待遇が想定よりひどかった」
「それと御国が私へ払う額は無関係でしょう」
「いや、交渉上は関係がある。君は自分の市場価値を知らなさすぎる」
「市場価値という言い方は、あまり嬉しくありません」
「なら適正な報酬と言い換える」
「そういう問題でもありません」
つい言い返してから、エレナは気づいた。
こんなふうに、自分の給料について誰かと真剣に言い争ったことなど一度もなかった。
妙におかしくなり、笑いが漏れた。
「何がおかしい?」
「申し訳ありません。私、給金を高くするか低くするかで王子殿下と揉める日が来るとは思っていなかったので」
「私も、給料を上げると言って拒まれたのは初めてだ」
「普通は喜ぶものですから」
「なら喜べ」
「まだ雇われると決めておりません」
「そこからだったな」
ルシアンもつられて笑った。
しばらくして、エレナはもう一度契約書を読み直した。
仕事内容。
権限。
責任。
守秘義務。
利益相反。
契約解除。
そして報酬。
どれも文章になっている。
何を求められ、どこまでやればよく、何をする必要がないのかが分かる。
それだけのことが、こんなにも安心できるものなのだと初めて知った。
「一つ、条件を加えてもよろしいでしょうか」
「聞こう」
「最初の一か月は試用期間にしてください。私自身、この仕事を受けて本当によいのか確認したいのです。それから、王宮の引き継ぎと時間が重なった場合は事前に相談すること。どちらかが当然に優先される形にはしたくありません」
「分かった」
「まだあります」
「いくつでも言え」
「私が意見を出した結果、殿下のお考えと異なる結論になった場合でも、それだけを理由に契約を切らないこと」
ルシアンは少し笑った。
「君を雇って私と同じ意見だけ言わせるなら、鏡でも置いておく」
「鏡は殿下ほど議論好きではありませんよ」
「なら、その条項も入れよう」
「最後に、私の名前を政治宣伝に利用しないでください。『冷遇された公爵令嬢を救ったレーヴェルト』などという美談にされるのは困ります」
「それは私も嫌だ」
「でしたら結構です」
エレナはそこで初めて、契約書を卓上へ置いた。
「条件が修正されましたら、前向きに検討いたします」
「その言い方は、外交では半分了承だな」
「まだ半分です」
「十分だ。昨日はゼロだった」
ルシアンが手を差し出した。
正式契約前なので握手を求めるには少し早い。それでもエレナは一瞬迷ったあと、その手を取った。
手袋越しに伝わる温度は、思っていたより温かかった。
「では、エレナ・ヴァルハイト」
ルシアンの声から、先ほどまでの冗談めいた調子が消える。
「我が国は、あなたの名前でも家柄でも、誰かの婚約者だった経歴でもない。あなた自身の知識と判断力に対して報酬を支払いたい」
エレナは返す言葉を探した。
胸の内側に、少し奇妙なものが込み上げている。
嬉しい、と素直に言うのは照れくさい。
感動したと言えば大げさすぎる。
結局、彼女が選んだのは、いかにも自分らしい言葉だった。
「でしたら、安く使えるとは思わないでくださいませ」
ルシアンは一瞬黙り、それから声を上げて笑った。
「ようやくその気になったな」
「まだ契約しておりません」
「分かっている。だが安心した。無料で何年も働いていた人間に、報酬交渉から教えなければならないかと思っていた」
「殿下」
「冗談だ」
「半分は本気でしょう」
「よく分かってきたな」
エレナは少しだけ呆れながら、しかし手を離すときには、来たときより心が軽くなっていることに気づいていた。
◇
公爵邸へ戻ったのは、夕刻近くだった。
馬車を降りるなり、玄関で待っていたミナが駆け寄ってくる。
「いかがでした?」
「あなた、もう少し主人が外套を脱ぐくらい待てないの?」
「朝から気になっておりますので」
「仕事の話よ」
「それは昨日も聞きました」
「本当に仕事の話なの」
エレナは外套を使用人へ預けながら、少し考えて付け加えた。
「たぶん、受けると思うわ」
ミナの顔が明るくなった。
「本当ですか!」
「どうしてあなたがそんなに喜ぶのよ」
「だって、お嬢様は働いているほうが楽しそうですから」
「婚約破棄された翌日に昼まで寝ていた私を見ていたでしょう」
「あれは楽しそうというより、冬眠している熊のようでした」
「あなた、主人を熊に例えたわね」
「怒るお元気があるなら大丈夫です」
二人で廊下を歩き始める。
エレナは途中で足を緩めた。
「ミナ」
「はい?」
「私、今までそんなに働いていたように見えた?」
ミナはすぐには答えなかった。
主人を傷つけない言葉を選んでいるのが分かる。
「働いていた、というより……働いていない時間がなかったように見えました」
「そう」
「眠っているとき以外は、何かを考えていらっしゃいました。食事中も、着替えているときも、馬車の中でも。ですから今朝、ぼんやり窓の外をご覧になっているのを見て、少し安心したくらいです」
「ぼんやりしていたつもりはないのだけれど」
「十分ぼんやりしていました」
エレナは苦笑した。
「それで、レーヴェルトはおいくら払ってくださるのです?」
「あなた、本当に遠慮がないわね」
「侍女として重要な問題です」
「なぜ侍女に?」
「お嬢様がきちんと評価されているか確認するためです」
仕方なく耳元で金額を告げる。
ミナは数秒動きを止めた。
「……月に?」
「月に」
「半年分ではなく?」
「私も同じことを聞いたわ」
ミナはしばらく無言で主人を見たあと、両手を腰へ当てた。
「王宮はいくら払っていたのです?」
「その話はもういいでしょう」
「よくありません」
「ミナ」
「非常によくありません。私は今まで、お嬢様が王宮へ行くたび、少なくとも相応のお給金くらいは頂いているものと思っておりました」
「生活には困っていなかったのだから」
「それとこれは別です!」
大使館でルシアンから聞いたばかりの言葉を、今度は侍女からまでぶつけられた。
エレナは思わず立ち止まった。
「……今日、まったく同じことを言われたわ」
「ルシアン殿下に?」
「ええ」
「では、殿下とは気が合いそうです」
「どうしてそこへつながるの?」
「少なくとも、お嬢様よりお嬢様のお給金に真剣なお二人ですので」
何かがおかしくて、エレナはとうとう笑ってしまった。
婚約破棄から三日。
悲しむ暇もないほど状況は動いている。
けれど不思議と嫌ではなかった。
誰かに捨てられたあと、自分の人生には何も残らないと思った瞬間も確かにあった。
実際には違った。
王太子の隣から降りただけで、世界には自分が知らなかった席がいくつも残っていたらしい。
「お嬢様」
ミナが思い出したように言った。
「そういえば、王宮からも書状が届いております」
「今日は多いわね」
「国王陛下の名義です。宰相閣下とお話しされた件について、正式な回答とのことでした」
エレナは足を止めた。
ミナが差し出した封書には、王家の紋章が刻まれている。
今度はアレクシスではない。
国王自身からの返答である。
自室へ戻って封を切り、最後まで読み終えたエレナは、しばらく何も言わなかった。
「悪い内容ですか?」
「いいえ」
「では?」
エレナは手紙を畳んだ。
「私の条件を、すべて受け入れるそうよ」
「すべて?」
「王宮へ復職する必要はない。三か月間、週に二日だけ引き継ぎの助言役として登城する。実務担当者を必ず置き、私が仕事を肩代わりすることは禁止。さらに――」
そこでエレナは、少し妙な顔になった。
「さらに?」
「報酬を支払うそうよ」
ミナの目が細くなった。
「いくらです?」
「そこから聞くの?」
「当然です」
エレナは書面に記された金額をもう一度見た。
レーヴェルトの提示額と比べれば、かなり低い。
だが以前よりは、確実に前進している。
「明日から、忙しくなりそうね」
「今度はお給金が出ます」
「そこがそんなに大事?」
「大事です」
ミナは真顔だった。
エレナは苦笑しながら、二通の書類を机の上へ並べた。
一通は、十年間仕えた王宮から届いた新しい条件。
もう一通は、昨日までほとんど縁のなかった外国から届いた契約案。
奇妙な話だった。
婚約を失った途端、自分の仕事に初めて値段がついた。
しかもその金額を見比べてみれば、これまで自分がどれほど安く――いや、ほとんど無料で働いていたのかまで、否応なく見えてくる。
エレナは二通の書面を眺め、静かに息を吐いた。
「……もしかして私、今まで随分ひどい働き方をしていたのかしら」
ミナは即答した。
「はい。それにお気づきになるまで十年かかりました」
どうやら明日は、外交より先に自分の給料について考える必要がありそうだった。




