第4話 元婚約者を呼び戻せ
レーヴェルト王国第二王子ルシアン・レーヴェルトを応接室へ迎えたとき、エレナが最初に思ったのは、ずいぶん身軽な格好で来たものだ、ということだった。
外国王族が公爵家を正式訪問するとなれば、本来なら護衛騎士や侍従、書記官が何人も付き従う。ところがルシアンが連れてきたのは、護衛らしい壮年の男と若い従者が一人ずつだけだった。本人も礼装ではなく、濃灰色の上着に銀糸で控えめな刺繍を施した程度である。王族としての格式は保ちながら、これを国家間の公式会談にはしないという意思が服装から伝わってきた。
「急な申し入れにもかかわらず時間を取ってくれたこと、感謝する」
「こちらこそ、お待たせいたしました。もっとも、殿下がお約束より十五分早くいらしたので、半分ほどは殿下の責任ですが」
挨拶を終えた直後にそう返すと、ルシアンは一瞬だけ目を丸くし、それから低く笑った。
「なるほど。王国一の悪役令嬢は、外国王子の遅刻だけでなく早着まで咎めるらしい」
「予定より早ければ相手の準備を乱します。十五分程度なら許容範囲ですが、褒められることでもございません」
「耳が痛いな。次から気をつけよう」
素直に引かれたことで、むしろエレナのほうが拍子抜けした。
アレクシスなら、そこから「王太子を待たせるよりはよいだろう」と理屈をつけたはずである。王族というものは自分の時間を基準に他人を動かすものだと、エレナもいつの間にか思い込んでいたらしい。
二人が向かい合って座ると、ミナが茶を運んできた。
ルシアンは出された紅茶へすぐ手を伸ばさず、室内を軽く見渡した。値踏みするような無遠慮さはなく、それでいて細かなところまで見ている目だった。
「昨日の今日で、思ったより落ち着いているな」
「泣き腫らした顔をご期待でしたか?」
「いや。君なら朝から王宮へ連れ戻されていると思っていた」
「それでしたら、すでに二度断りました」
「二度?」
「昨夜と昨日の午前です。正確には、今朝届いた書状も含めれば三度目になるところでした」
ルシアンがわずかに眉を上げた。
「王太子は君を解任した翌日に、もう仕事を頼んだのか」
「国というものは、人間関係ほど都合よく昨日と今日を切り分けてはくれませんから」
「それはそうだが、だからこそ引き継ぎをしてから人を切るものだろう」
「その点については、私から申し上げますと悪口になりますので」
「なら私が言おう。ずいぶん雑な切り方をしたものだ」
エレナは返答の代わりに茶器を持ち上げた。
他国の王子から自国の王太子を批判されるのは、あまり気分のよいものではない。たとえ内容に同意できても、自分がそれへ乗れば別の意味を持ってしまう。
その距離感を察したのか、ルシアンもそれ以上アレクシスを評さなかった。
「先に断っておく。今日は君から王宮の機密を聞き出しに来たわけではない」
「でしたら安心いたしました。もしそうでしたら、お茶だけ召し上がってお帰りいただくところでしたので」
「菓子も出ないのか?」
「機密を盗みに来た方へ焼き菓子まで差し上げるほど、我が家は寛大ではございません」
ルシアンはまた笑った。
笑うと少し印象が変わる男だった。王宮の宴席で見る彼は、たいてい口数が少なく、必要以上に人と馴れ合わない。整った顔立ちも相まって、近寄りがたいという評判がある。
しかし目の前の男は、思ったより冗談が通じる。
「では、菓子を失わないためにも本題に入ろう。今朝渡した覚え書きは読んだな?」
「リューデン王国が、レーヴェルトにも接触したという件ですね」
「ああ。正式な要求ではない。うちの大使館へ、それとなく探りを入れてきた程度だ。だが意図は分かりやすい。君の国から得られる譲歩を前例にして、こちらにも似た待遇を求めるつもりだろう」
「商人は国境を越えて情報を運びますから、一国だけ特別扱いされれば、別の国も同じ条件を求めます」
「その答えを、君は考える間もなく返すのだな」
「それほど難しい話ではありません」
「君にとっては、だろう」
ルシアンはそこで初めて茶を口にした。
褒められたというより、観察されているような気がした。
エレナはわずかに警戒を強める。
「殿下は、何をお確かめになりたいのでしょう」
「君が何者なのか」
「公爵令嬢ですが」
「そういう答えをすると思った」
「でしたら質問の仕方を変えるべきでしたね」
「手厳しいな」
ルシアンは背もたれへ身を預けず、卓上で指を組んだ。
「私がこの国へ赴任して二年になる。その間、外交上の揉め事がいくつもあった。普通なら担当官が変われば文章の癖も、判断の基準も多少変わる。しかし君の国から届く最終回答だけは、誰の名義で出ても妙に筋が通っていた」
エレナの指が茶器の取っ手で止まった。
「文章の癖をお読みになるのですか?」
「外交官だからな。むしろ読まない者のほうが問題だ。同じ王太子名義の書状でも、先方が何を恐れ、どこまで譲るつもりかは文章に出る。ところがこの国の文書には、奇妙な時期があった」
「奇妙?」
「表向きの発言が無茶でも、正式回答になると必ず現実的なところへ戻ってくる」
エレナは黙ってルシアンを見た。
「例えば去年の北方穀物会議だ。宴席ではアレクシス殿下が『不足分は我が国がすべて買い取る』と仰った。あれを額面通り受け取っていれば、こちらは随分儲かっただろう」
「殿下は、友好を示すためのご発言をなさっただけです」
「そういうことに修正されたな、翌日には」
見られていた。
正確には、読まれていた。
去年の件では、アレクシスが友好国の代表を喜ばせようとして口にした一言が、莫大な買い付け義務へ発展しかけた。エレナは夜通し協定文を調べ、翌朝には「余剰分の優先購入を検討する」という表現へ落とし込んだ。
「それだけではない。三年前の河川航行権、昨年の塩税協議、春の国境市場再編。毎回、問題を起こす人物は違うのに、最後に出てくる案だけは妙に同じ匂いがする」
「匂い、ですか」
「誰も完全には得をしないが、誰も席を蹴るほど損もしない」
エレナは思わず苦笑した。
「それを褒め言葉として受け取ってよろしいのでしょうか」
「外交では最高級の褒め言葉だ。全員が満足する交渉など、たいてい誰かが何かを見落としている」
その言葉には、仕事をしている者同士にしか通じない妙な実感があった。
エレナは、この男となら書類を挟んで何時間でも議論できるかもしれない、と一瞬思った。
すぐに、その考えを打ち消す。
今は外国王子の意図を見極めるべき場面である。
「それで私に目をつけたのですか?」
「最初に疑ったのは一年ほど前だ。会議が終わったあと、君が各国の書記官へ順番に話を聞いて回っていただろう。王太子妃候補の社交にしては、質問が細かすぎた」
「よくご覧になっていますね」
「仕事なので」
「便利な言葉ですね」
「君も散々使ってきただろう」
反論できず、エレナは茶を飲んだ。
「ただ、確信はなかった。王家内部の分業など外からは見えないからな。昨夜までは」
「婚約破棄で?」
「あの場でアレクシス殿下が、君の『汚れ仕事』について口にした。そのあと君が地下文書庫の鍵を返した。そして数時間後、十二通の抗議文に王宮が右往左往し始めた。ここまで重なれば、偶然と考えるほうが不自然だ」
エレナは思わず額へ手を当てた。
「殿下。お願いがございます」
「何だ」
「その分析を、あまり楽しそうになさらないでください。私の国の恥ですので」
「すまない」
ルシアンは言葉通り少し表情を引き締めたものの、目にはまだ微かな面白がり方が残っている。
「だが、私は君の国が崩れるのを楽しみに来たわけではない。むしろ困っている」
「リューデンの要求ですか」
「それもある。もう一つは、君がいなくなったことで、この国との交渉窓口が誰なのか分からなくなったことだ」
「正式な外務省がございます」
「もちろんある。だが、最終的に誰が王族を説得し、実行可能な条件へ直すのかという意味だ」
エレナは何も言わなかった。
外務省には優秀な者もいる。
書記局にも、真面目な役人が大勢いる。
問題は、各部署を横断して判断する権限と、王族へ不都合なことを言える立場を、エレナ一人に集めすぎていたことだ。
しかも、それは正式な官職ですらない。
「君自身は、自分が何をしていたと思っている?」
突然問われ、エレナは眉を寄せた。
「先ほどから質問が曖昧ですね」
「意図的だ。肩書ではなく、君自身の認識を聞きたい」
少し考えた。
十年間やってきたことを一言で説明しろと言われたのは、初めてだった。
「……後始末でしょうか」
「それだけか?」
「王家の方々が人前で倒した花瓶を拾い、破片を隠し、床を磨き、見ていた人へ『たいしたことではありませんでした』と説明するような仕事です」
「なるほど。だが私から見ると違う」
「では?」
「壊れる前に棚を押さえていた」
エレナは言葉を失った。
ルシアンは淡々と続けた。
「君が処理した案件の中には、放置すれば国同士の関係を何年も傷つけたものがあったはずだ。もちろん全部を君一人で行ったわけではないだろう。役人も商人も、現場の人間も働いている。だが、それらをつないで判断する者がいたから、問題が大きくならなかった」
「……ずいぶん高く評価してくださるのですね」
「低く見積もる理由がない」
あまりにも当然のように返され、エレナは困った。
褒め言葉には慣れている。
ドレスが似合う。
公爵令嬢らしい。
王太子妃に相応しい。
礼儀作法が完璧だ。
そういったものなら、数え切れないほど聞いてきた。
だが、自分が十年間してきた仕事そのものを、これほど具体的に評価された覚えはほとんどない。
「買いかぶりです」
「その可能性もある。だから今日は確かめに来た」
「そして?」
「今のところ、思ったより厄介な人間だという結論になりつつある」
「それは評価が上がったのでしょうか、下がったのでしょうか」
「外交官としては上がった。友人になるなら苦労しそうだ」
「ご安心ください。まだご友人になる約束はしておりません」
「それもそうだ」
二人の間に、今度は不自然ではない沈黙が落ちた。
窓の外では、庭師が冬を迎える前の薔薇を手入れしている。小さな鋏の音が、ときおり開いた窓から聞こえてきた。
ルシアンが卓上の焼き菓子を一つ手に取った。
「機密を盗まなかったので、菓子を食べても?」
「どうぞ。そこまで厳密に採点していたつもりはございません」
「よかった。朝から何も食べていない」
「殿下もですか?」
「も?」
「いえ。私も昨日までよくやっていましたので」
エレナは言ってから少し眉を寄せた。
「王族が食事を抜くと周囲が迷惑します。倒れた場合、一人で済みませんから」
「初めて会った日に健康管理まで叱られるとは思わなかった」
「初めてではございません。夜会や公式行事で何度もお目にかかっています」
「まともに話すのは初めてだ」
「でしたら、なおさら私生活に口を出すべきではありませんでした。失礼いたしました」
「いや。そのままでいい。少なくとも、私に媚びるつもりがないことはよく分かった」
そこでルシアンは焼き菓子を一口食べ、少し意外そうな顔をした。
「これは美味いな」
「料理長が聞けば喜びます」
「君が焼いたのでは?」
「なぜそうなるのです」
「令嬢ものの詩劇では、こういう場面で手作りの菓子が出るものだろう」
エレナは思わずルシアンを見つめた。
「殿下、そういうものをご覧になるのですか?」
「妹が好きでな。半ば強制的に付き合わされる」
「少し意外です」
「私も外交会議で君が相手国の関税資料を暗記しているのを見たとき、ずいぶん意外だった」
「見られていたのですね……」
「かなり前から」
その言い方に、わずかに引っかかるものがあった。
しかしルシアンは、それ以上そこへ意味を持たせようとはしなかった。
「さて。今日はもう一つだけ確認したい」
「何でしょう」
「王宮へ戻るつもりはあるか?」
エレナは答える前に考えた。
戻りたいかと問われれば、今は戻りたくない。
だが国の状況が本当に危険になれば、自分がどうするかまでは分からない。意地だけで国を見捨てられるほど、割り切った人間でもなかった。
「少なくとも、以前と同じ条件では戻りません」
「条件次第では戻る?」
「分かりません。ただ、『困ったから以前のように働け』と言われて戻ることだけはありません」
「なぜ?」
尋ね方が率直だった。
エレナも取り繕わなかった。
「戻れば、また同じことになるからです」
自分でも驚くほど簡単な答えだった。
「問題を片づければ、次の問題が来る。それも片づければ、『やはりエレナに任せれば大丈夫だ』となります。誰も悪気はないのでしょう。むしろ信頼されていると言われるかもしれません。でも、それを十年続けた結果、私がいなくなっただけで王宮が混乱しました」
「一人へ仕事を集めすぎた」
「ええ。そして私も、それを受け入れすぎたのでしょうね」
そこは、すべて王宮のせいにはしたくなかった。
頼まれれば引き受けた。
自分がやったほうが早いと思ってしまった。
誰かに任せて失敗されるくらいなら、自分で片づけたほうが楽だった。
その積み重ねが、今の状況を作った一因でもある。
「君は自分にも厳しいな」
「他人だけを責めれば気楽でしょうけれど、それでは同じ失敗を繰り返します」
「ますます欲しくなる」
エレナは聞き違えたかと思った。
「……何がでしょう」
ルシアンは焼き菓子を置いた。
「今日はそこまでにしておこう」
「殿下」
「今の段階で言えば、誤解される」
「すでに十分誤解を招く言い方をなさいましたが」
「だから止めた」
この男は案外、性格が悪いのかもしれない。
エレナがそう判断しかけたところで、廊下が急に騒がしくなった。
公爵家の使用人は、来客中に無用な物音を立てない。その彼らが慌ただしく行き交っている。
ほどなくして執事が扉を叩いた。
「お嬢様。お話中のところ、失礼いたします」
「どうしたの?」
「王宮より、国王陛下の使者がお越しになりました」
エレナは姿勢を正した。
これまで来ていたのは王太子からの使いだった。
国王自身が動いたとなれば、話が変わる。
「使者はどなた?」
「宰相閣下ご本人でございます」
今度こそエレナは言葉を失った。
宰相が直接、公爵家まで来た。
それだけでも尋常ではない。
ルシアンは立ち上がった。
「どうやら、今日はここまでにしたほうがよさそうだな」
「申し訳ございません」
「君が謝ることではない。むしろ私が長居した」
玄関まで見送ろうとしたエレナへ、ルシアンは小さく首を振った。
「宰相を待たせるな。私は勝手に帰れる」
「外国王族を勝手に帰す公爵令嬢など、聞いたことがありません」
「昨日、夜会の途中で王太子を置いて帰った女性が今さら気にすることか?」
「正式に退出しただけです」
「そういうことにしておこう」
去り際、ルシアンは少しだけ声を落とした。
「エレナ。今日聞いた答えは覚えておく」
「どの答えでしょう」
「以前と同じ条件では戻らない、という答えだ」
それだけ言うと、彼は護衛とともに部屋を出ていった。
エレナはその背中を見送りながら、なぜそれを覚えておく必要があるのか尋ね損ねたことに気づいた。
考える時間はなかった。
入れ替わるように現れた宰相の顔が、これまで見たこともないほど疲れていたからである。
◇
「突然押しかけたことを詫びよう、エレナ嬢」
宰相アルベルト・クラインは、挨拶を終えるなりそう言った。
六十二歳。
三代の国王に仕えた老臣であり、王宮内でも数少ない、エレナが自分より仕事を抱えているのではないかと心配したことのある人物である。
「宰相閣下までいらっしゃるとは思いませんでした」
「私も昨日までは、こうなるとは思っていなかった」
「抗議文の件ですか?」
「それもある」
アルベルトは出された茶へ手をつけなかった。
そのことだけで、相当に切羽詰まっているのが分かる。
「まず先に伝えておく。今朝、リューデン王国への追加回答は止めた。君が示した記録も確認した」
「それは何よりです」
「何より、ではない。すでに王太子殿下の最初の声明は先方へ届いている。撤回すれば今度はこちらの信用を傷つける。訂正文で済ませるか、別の条件と引き換えにするか、これから交渉し直さねばならん」
「そうでしょうね」
「他人事の顔をするようになったな」
「他人事でございますから」
アルベルトは苦笑した。
「耳に痛い」
「閣下を責めるつもりはありません」
「それが余計に痛いのだ」
長い付き合いである。
アルベルトも、エレナへ仕事が集中していることをまったく知らなかったわけではない。
何度か補佐官を増やそうという話も出た。しかし王宮内の事情を広く知りすぎる役職だけに、誰を置くかで各派閥が争い、結局先送りになった。
そしてエレナ自身も、「人を選んでいる時間があるなら私がやります」と言ってしまった。
今になって思えば、最悪の解決法だった。
「陛下のお言葉を伝える」
アルベルトの表情が変わった。
「はい」
「王宮へ戻ってほしい」
エレナは予想していたため、驚かなかった。
「どのような立場で、でしょうか」
「そこまで聞くか」
「最も重要なところです」
「……そうだな。君ならそう言う」
宰相はわずかに考えた。
「陛下は、王太子殿下との婚約問題とは切り離して考えておられる。婚約を元に戻せとは仰っていない」
その言葉に、エレナは少しだけ肩の力を抜いた。
もし国王から復縁を命じられれば、話はずっと厄介になる。
「では、特別業務への復帰でしょうか」
「そうなる。ただし、以前とまったく同じ形で、とは――」
「お断りいたします」
アルベルトが口を閉じた。
エレナは自分でも、思った以上に早く答えが出たことに驚いた。
「最後まで聞かないのか?」
「以前とまったく同じではない、と仰るところまでは聞きました。しかし『特別業務へ復帰』という時点で、根本は同じです」
「君にしか分からない案件がある」
「それをなくすことから始めるべきでしょう」
「今すぐには無理だ」
「だからといって私を戻せば、今すぐには困らなくなります。そして半年後も一年後も、何も変わりません」
アルベルトは反論せず、椅子へ深く腰を下ろした。
疲れている人間に正論をぶつけるのは、少し気が咎める。
だが、ここで曖昧にすれば戻される。
「エレナ嬢。これは国王陛下からの要請だ」
「命令ではないのですね」
アルベルトの目がわずかに細くなった。
「そこまで見抜くか」
「命令なら、閣下は最初からそうおっしゃいます」
公爵令嬢とはいえ臣下である以上、国王の正式命令なら簡単には拒めない。
しかし国王は、あえて要請という形にした。
理由は想像できる。
婚約破棄と同時に職を奪った翌々日に、王命で連れ戻したとなれば、王家の失策を自ら認めるに等しい。
それ以上に、エレナを無理に戻しても以前のようには働かないと理解しているのかもしれない。
「陛下は、君に借りがあることをご存じだ」
宰相が静かに言った。
「借りなど」
「ある。少なくとも私はそう思っている。十年間、王家は君の忠誠心を便利に使いすぎた」
胸の奥に、予想していなかった痛みが走った。
責められる覚悟はあった。
国が大変なときに意地を張るのかと言われる覚悟もしていた。
だが、謝罪に近い言葉を聞く準備はしていなかった。
「今さら、ずるいですね」
気づけば、そう口にしていた。
アルベルトは怒らなかった。
「ああ。ずるいと思う」
「もっと早く言ってくださればよかったのに」
「ああ」
「私が婚約者だった間に」
「ああ」
否定されないことが、かえってつらかった。
エレナは少しの間、窓の外を見た。
ルシアンを乗せた馬車は、もう門の向こうへ消えている。
「それでも、戻れません」
「そうか」
「ただし」
エレナは宰相へ向き直った。
「王宮が本当に仕組みを変えるつもりなら、相談には乗ります」
アルベルトが初めて顔を上げた。
「どういう意味だ?」
「私を元の席へ戻して仕事を再開させるのではなく、私が何をしていたのか洗い出し、それぞれ正式な部署へ移すのです。外交案件は外務省、王室予算は財務局、王族の公的発言の確認は書記局。どうしても横断的な判断が必要なら、新しい役職を正式に作ってください」
「それには時間がかかる」
「十年放置したものを三日で直せとは申しません」
「その移行期間に、君が必要だ」
エレナは黙った。
そこを突かれることは分かっていた。
「戻る、戻らないという二択で考えるのはやめましょう」
「では?」
「私は王宮の職員には戻りません。必要なら、期限を区切って引き継ぎのための助言をいたします。ただし文書で依頼を受け、担当者を必ず同席させ、私が代わりに処理することは禁止です」
アルベルトが目を瞬かせた。
「そこまで考えていたのか」
「今考えました」
「君は時々、恐ろしく腹の立つことを平然と言うな」
「褒め言葉として受け取っておきます」
老宰相は、そこでようやく茶を一口飲んだ。
「陛下へ持ち帰ろう」
「お願いいたします」
「王太子殿下は納得されないだろうがな」
「殿下がお決めになることではございません。私はもう婚約者でも、殿下直属の者でもありませんので」
「それを本人が理解するまで、少しかかりそうだ」
エレナは答えなかった。
アレクシスが理解するかどうかは、もう自分が教えるべき問題ではない。
◇
宰相が公爵邸から王宮へ戻ったのは、日が西へ傾き始めたころだった。
国王の執務室には、国王エドワード、アレクシス、外務卿が待っていた。
「それで?」
アレクシスが、父王より先に口を開いた。
「エレナはいつ戻る?」
アルベルトは外套を従者へ渡しながら答えた。
「戻りません」
「何?」
「以前の職務へそのまま復帰することは拒否されました」
アレクシスが立ち上がった。
「国王からの要請だぞ」
「だからこそ、私が直接参ったのです。しかし陛下からいただいたのは復帰命令ではございません」
「父上!」
国王エドワードはすぐには答えなかった。
五十を過ぎたばかりだが、ここ二日の混乱で普段より老けて見える。
「座れ、アレクシス」
「しかし――」
「座れ」
二度目は、王の声だった。
アレクシスは不満を隠し切れないまま席へ戻った。
「それで、エレナ嬢はただ断っただけか?」
エドワードが尋ねる。
「いいえ。王宮の業務そのものを組み替えるのであれば、期限付きで引き継ぎに協力する用意があるとのことです」
アルベルトはエレナの条件を一つずつ説明した。
各業務を正式な部署へ移すこと。
担当者を定めること。
エレナは助言に徹し、実務を肩代わりしないこと。
王家の失敗を彼女個人の責任として発表する従来のやり方も、当然ながら終わりにすること。
聞き終えたアレクシスは露骨に顔をしかめた。
「面倒な条件ばかりではないか。今は緊急事態なのだぞ」
「だからこそ必要だ」
答えたのは国王だった。
「父上?」
「この二日で分かった。余は、エレナ嬢に任せている仕事の量を把握していなかった」
「ですが、彼女が自分で引き受けていたものも――」
「それを許したのは誰だ」
アレクシスは口を閉じた。
エドワードは机の上に積まれた書類へ手を置いた。
以前なら、これらの多くは王のところまで届かなかった。エレナや宰相、各部署が処理し、判断が必要なものだけが簡潔にまとめられていたからだ。
「人一人が辞めただけで国が止まりかけるなら、その仕組みのほうが間違っている」
外務卿も静かに頷いた。
「私どもにも責任がございます。公爵令嬢が調整してくださることを前提に、各部署が自分の範囲だけを見すぎておりました」
「だが、今はその仕組みを直している時間などない!」
「だから、エレナ嬢は引き継ぎには応じると言っている」
アレクシスは納得できないらしい。
「なぜそこまで彼女の言い分を聞かなければならないのです。昨日までは王家のために働いていたのですよ」
アルベルトは、しばらく王太子を見た。
「殿下」
「何だ」
「昨日まで、でございます」
それ以上の説明は必要なかった。
アレクシスの表情が硬くなる。
国王は長く息を吐いた。
「条件を受けよう」
「父上!」
「ただし、詳細は詰める。彼女を以前の役職へ戻すのではない。王宮の仕組みを作り直すための臨時協力者として扱う」
「そんなことをすれば、こちらが彼女へ頭を下げたように見えます」
アレクシスの言葉に、部屋の空気が変わった。
国王は息子をしばらく見つめてから、低い声で言った。
「頭を下げるべき相手に頭を下げることの、何が問題だ?」
アレクシスは答えられなかった。
「お前は昨日、謝罪してはならぬ相手に謝罪した。その一方で、謝罪すべき相手には頭を下げたくないと言う。まず、その違いから学べ」
父から叱責され、アレクシスの頬がわずかに強張った。
しかし国王は容赦しなかった。
「それから、エレナ嬢を呼び戻す件については余が扱う。お前は手を出すな」
「ですが、彼女は私の――」
言いかけて、アレクシスは止まった。
もう「婚約者」ではない。
その事実を、初めて自分の口で確かめる羽目になったようだった。
国王は書類へ視線を戻した。
「そうだ。もう、お前の婚約者ではない」
◇
同じころ、エレナは自室の机で、ルシアンから渡された覚え書きをもう一度読んでいた。
王宮へ戻る条件について宰相と話したあとから、なぜか彼の最後の言葉が頭に残っている。
――以前と同じ条件では戻らない、という答えを覚えておく。
「お嬢様」
書類整理をしていたミナが、不意に声をかけた。
「何?」
「先ほどから同じ紙を三回読んでいますよ」
「内容を確認しているの」
「ずいぶん短い覚え書きなのに?」
エレナは紙を裏返した。
「あなた、最近ますます余計なところを見るようになったわね」
「暇になりましたので」
「私が暇になると、あなたまで暇になるのね」
「大歓迎です」
ミナは書類を棚へ収めながら、何でもないことのように尋ねた。
「それで、ルシアン殿下はどのような方でした?」
「どういう意味?」
「どういう意味でもございません。外国の王子様が、婚約破棄されたばかりのお嬢様をわざわざ訪ねてきたのですから、侍女としては気になります」
「仕事の話よ」
「お嬢様の場合、その言葉が一番信用できません」
「失礼ね」
「アレクシス殿下との十年間も、ほとんど仕事の話だったではありませんか」
言われて、エレナは反論できなかった。
ミナは少し考えてから、さらに尋ねた。
「少なくとも嫌いではなさそうですね」
「今日まともに話したばかりの方に、好きも嫌いもないでしょう」
「私は好きか嫌いかを聞いたのではありません。嫌いではなさそう、と申し上げました」
「……あなたを暇にしてはいけない気がしてきたわ」
ミナが楽しそうに笑う。
エレナは覚え書きを引き出しへしまった。
明日以降、王宮との引き継ぎ条件を詰めなければならない。
リューデンとの問題も、おそらく簡単には終わらない。
自分の生活が、完全な休日のまま続くことはなさそうだった。
ただし、以前とは違う。
今度は誰かから命じられたからではなく、自分でどこまで関わるかを決める。
その違いは小さく見えて、エレナにとっては十年分の重さがあった。
そして彼女はまだ知らなかった。
翌朝、王宮からではなくレーヴェルト王国大使館から届く一通の正式書簡が、その選択肢をさらに大きく広げることを。
そこには王子から公爵令嬢への求婚ではなく、エレナがこれまで一度も受け取ったことのない種類の言葉が記されていた。
――我が国は、あなたの能力を正式に雇用したい。




