第3話 謝罪してはいけない相手
婚約を破棄されてから二日目の朝、エレナ・ヴァルハイトは、これまでの人生で一度もしたことのない失敗をした。
朝食の席で、新聞を読みながら紅茶を吹き出しかけたのである。
「……ああ、それは駄目です」
どうにか飲み込んだものの、喉に紅茶が入りかけて咳き込むエレナを見て、向かいで給仕をしていたミナが慌てて水差しへ手を伸ばした。
「お嬢様、大丈夫ですか? 昨日は昼寝までなさったのに、今朝になって急に体調を崩されたのではありませんよね?」
「体調は悪くないわ。この記事が悪いの」
エレナは新聞を食卓へ広げた。
王都で最も購読者の多い『王都新報』の一面には、普段より大きな活字が踊っている。
――王太子殿下、西方リューデン王国へ正式謝罪。
その下には、昨夜王宮が発表した声明文の要旨まで掲載されていた。
先月発生したリューデン王国商船の入港拒否について、アレクシス王太子が「我が国側の不手際によって貴国に不利益を与えたことを遺憾に思い、貴国の要望へ最大限配慮する」と伝えたという。
文章だけなら、それほど奇妙には見えない。
むしろ事情を知らない市民が読めば、王太子が外国との揉め事を早々に収めたように思えるだろう。
ミナも記事へ目を走らせ、首を傾げた。
「謝ったら駄目なのですか? 港へ入れなかったのはこちらなのでしょう?」
「そこだけ聞けばね」
「ということは、何かあるのですね」
「何かどころではないわ」
エレナはパンをちぎりながら、どこまで話して構わないか考えた。すでに新聞で公表された事件について一般的な説明をするだけなら、守秘義務には触れない。
「リューデンの商船が入港を拒否されたのは事実よ。でも、港湾役人が気まぐれで追い返したわけではないの。その船は申告していた積荷と実際の積荷が一致しなかった。それに検査を拒否して、港の外で三日間待つよう命じられたのに、勝手に入港しようとした」
「それなら、向こうにも問題があるではありませんか」
「ええ。しかも積荷の一部は、こちらの法律では輸入に特別許可が必要な薬草だった。だから争点は『入港させなかったこと』ではなく、『検査手続きの途中でどちらが協定に違反したのか』だったのよ」
ミナはもう一度新聞を見た。
「でも殿下は、こちらの不手際だったと……」
「認めてしまったわね」
「最大限配慮する、とも書いてあります」
「そこが一番まずいの」
エレナは額を押さえたくなったが、今朝は我慢した。
せっかくゆっくり朝食を取れるようになったのに、王太子の外交失策で頭痛を覚えるなど、まるでまだ勤務中のようで腹立たしい。
「リューデンが要求していたのは、船一隻への損害賠償だけではないの。今後、同国の商船について入港検査を簡略化すること、滞船料の免除、それから一部品目の関税引き下げ。こちらが全面的に非を認めない限り、その三つを交渉材料にはできないというのが、これまでの前提だった」
「では昨日の謝罪で……」
「少なくとも相手は、『そちらが非を認めたのだから、こちらの要求を拒む理由はないでしょう』と言えるようになった」
ミナは新聞をそっと食卓へ戻した。
「お嬢様、よく平然とパンを召し上がれますね」
「私の仕事ではないもの」
「そう言いながら、さっきから蜂蜜を一度もつけずに食べています」
エレナは手元を見た。
確かに、昨朝はあれほど楽しみにしていた蜂蜜にすら手を伸ばしていない。
「……習慣というのは嫌ね」
「心配なのですか?」
「国のことだから当然でしょう。王宮を辞めたからといって、国まで嫌いになったわけではないもの」
そこは自分でも割り切れなかった。
アレクシスに腹が立たないわけではない。王宮の者たちにも、少しくらい自分がいなくなった不便を味わえばいいと思っている。
だが、その結果として商人や港湾労働者、関係のない領民に負担がかかることまで望んでいるわけではなかった。
復讐とは便利な言葉だが、国政においては誰か一人だけを綺麗に苦しめることなどできない。
「それにしても、どうして殿下はそんなに急いで謝罪なさったのでしょう」
「十八通も抗議文が届けば、早く一つでも片づけたくなる気持ちは分かるわ」
「お嬢様なら?」
「返事をしない」
ミナが目を丸くした。
「放っておくのですか?」
「返事をしないことと、放っておくことは違うわ。受領したことだけ伝えて、事実関係を確認するまで回答を保留する。相手国の使節にも、こちらが真剣に調査していることだけは伝える。それから港の記録、船長の証言、積荷一覧、協定文を全部そろえる。謝るのは、そのあとよ」
「ずいぶん時間がかかりそうですね」
「外交は、早く答えることより、取り返しのつかない答えをしないことのほうが大切なの」
言ったあとで、エレナは自分の口を閉じた。
また仕事の説明をしている。
ミナも同じことに気づいたのか、少し笑った。
「お嬢様、やはり向いていたのですね」
「何に?」
「そのお仕事です」
エレナはすぐには答えなかった。
向いていたのだと思う。
嫌いだったわけでもない。
複雑に絡まった利害関係をほどき、誰か一人が完全に勝つのではなく、それぞれがぎりぎり納得できる場所を見つける。その作業には、確かに面白さがあった。
ただし、仕事そのものが嫌だったのではない。
失敗すれば自分の責任、成功すれば王太子の功績という仕組みに疲れたのだ。
「仕事が好きなことと、使い潰されても構わないことは別でしょう」
「それはそうですね」
ミナの返事は妙に力強かった。
そこで、食堂の扉が控えめに叩かれた。
入ってきた執事は銀盆を持っている。
「お嬢様、王宮より書状が届いております」
エレナとミナは同時に顔を見合わせた。
「昨日も来ましたよね」
ミナが嫌そうに言う。
「本日で二日連続です」
「昨日より回数は少ないわ。改善していると考えましょう」
「お嬢様は時々、妙なところで前向きですね」
封蝋には王太子家の紋章が押されていた。
エレナはすぐに開けず、朝食を最後まで食べた。
以前なら、王宮からの書簡を待たせたまま食事を続けるなど考えられない。しかし一度やってみると、特に雷が落ちるわけでも、空が割れるわけでもなかった。
パンを食べ終え、紅茶を飲んでから封を切る。
内容を読んだエレナは、思わず眉を寄せた。
「何と?」
「王太子殿下が、今日の正午までに登城するよう求めているわ」
「お願いではなく?」
「『求める』とあるわね」
「行くのですか?」
「行かない」
返答は迷わなかった。
だが書状には続きがあった。
リューデン王国側が、王太子の声明を受けて正式な要求書を提出したらしい。
入港検査の簡略化。
滞船料の恒久免除。
薬草を含む指定品目五十七種についての関税引き下げ。
さらに、今回の損害に対する賠償金。
「……欲張ったわね」
エレナは呟いた。
「そんなに?」
「交渉では、相手が譲る姿勢を見せたら最初に多めに要求するものよ。全部通ると思っているとは限らない。ただ、こちらが何を守ろうとするかを見るの」
「では断ればよいのでは?」
「今度は簡単に断てなくなった。『最大限配慮する』と王太子本人が言ってしまったから」
ミナは腕を組んだ。
「その王太子殿下が、自分で何とかすればよろしいのでは?」
「あなた、本当に遠慮がなくなったわね」
「今までの十年間分、少しずつ取り戻しております」
その返答がおかしくて、エレナは口元を緩めた。
しかし次の瞬間、新聞の別の記事が目に入り、その笑みが消えた。
リューデン王国との問題を受け、王都の薬種商組合が「関税制度の急変は国内商業に重大な影響を与える」と声明を出したという。
もう外交官だけの話ではなくなり始めている。
「お嬢様」
ミナの声が少し柔らかくなった。
「やはり、助けに行きたいですか?」
エレナは書状を畳んだ。
「行きたい、とは少し違うわね」
困っている人を見れば手を出したくなる。
自分なら何とかできる問題を、誰かが間違えているのを見るのは落ち着かない。
だが、それは責任感なのか、それとも十年間かけて染みついた癖なのか、今のエレナにはまだ区別がつかなかった。
「もし今日、私が戻ったら、殿下は何を学ぶと思う?」
「困ればお嬢様を呼べばよい、と」
「そうでしょうね」
「では、行かないほうがよろしいと思います」
「あなたにしては冷たいわね」
「冷たいのは、お嬢様一人に十年間も責任を押しつけていた方々です」
ミナはそこで少し言いすぎたと思ったのか、唇を結んだ。
しかしエレナは叱らなかった。
代わりに、返事を書くための便箋を頼んだ。
短い文章だった。
昨夜まで自分が担当していた案件であることは認める。
しかし正式に解任された以上、王宮へ戻って交渉に関与することはできない。
外交記録については第三文書庫に保管してあり、必要な資料はすべて王宮内に残している。
そして最後に、助言ではなく事実として一つだけ付け加えた。
――先月十九日付の港湾監督官報告書、および同月二十二日付の積荷再検査記録をご確認ください。
それ以上は書かなかった。
答えそのものを渡すつもりはない。
ただし、王宮が自力で調べようとするなら、必要な材料にはたどり着けるようにした。
「随分と親切ですね」
完成した返書を見て、ミナが言った。
「国まで困らせたいわけではないもの」
「殿下は?」
「少しくらい困ればいいと思っているわ」
ミナが満足そうに頷いた。
「安心いたしました。昨日より健康になっています」
エレナは笑いながら封を閉じた。
◇
一方、そのころ王宮では、誰も笑っていなかった。
「なぜ、これほど要求が増えている!」
アレクシスの声が会議室へ響いた。
長机にはリューデン王国から届けられた要求書が広げられている。外務卿、宰相、書記官たちが並んでいたが、誰もすぐには王太子の問いへ答えなかった。
「昨日は、謝罪すれば先方も態度を軟化させると言ったではないか」
外務卿が重い表情で答えた。
「殿下。私は『謝罪も選択肢の一つ』とは申し上げましたが、我が国の全面的な非を認める文面には反対いたしました」
「だが、いつまでも抗議を放置するわけにはいかなかった!」
「それは承知しております。しかし外交文書の一語には、それぞれ意味がございます」
「分かっている!」
言い切ったあと、アレクシスは机へ手をついた。
本当に分かっているなら、なぜこんなことになったのか。
その疑問を、ここにいる誰も口にはしなかった。
アレクシス自身も、胸の内では同じ問いを抱いていた。
これまでだって、外国から抗議が来たことは何度もある。
自分が判断し、命令を出し、問題は収まってきた。
少なくともアレクシスはそう思っていた。
しかし昨日から、何かがおかしい。
指示を出せば別の問題が起こり、それを処理しようとするとさらに二つ、三つと問題が増える。
「エレナから返事はまだか」
侍従が答えようとしたちょうどそのとき、扉が開き、別の侍従が封書を持って入ってきた。
「ヴァルハイト公爵令嬢より、返書が届きました」
「貸せ」
アレクシスはほとんど奪うように受け取った。
文面を読み進めるにつれ、期待していた表情が険しくなっていく。
「……来ないというのか」
宰相が慎重に尋ねた。
「何と?」
「解任済みである以上、外交交渉には関われない、と」
アレクシスは苛立った様子で紙を机へ置いた。
「形式にこだわる女だ。国が困っているときくらい、以前のことは脇へ置けばいいだろう」
その場にいた数人が、何とも言えない顔をした。
外務卿だけが、とうとう我慢できなかったらしい。
「殿下」
「何だ」
「公爵令嬢を解任なさったのは、殿下ご自身でございます」
「分かっている」
「引き継ぎを不要と判断されたのも」
「それも分かっている!」
アレクシスの声が荒くなった。
外務卿はそれ以上責めなかった。
代わりに、返書の末尾を指で示した。
「この二つの記録を確認するように、とあります」
「だから何だ」
「確認しましょう」
「今さら古い記録を読んで何になる」
「今さらだからこそ、読むのです」
宰相が口を挟んだ。
普段は王太子に対して穏やかな老臣だったが、今日の声には珍しく硬さがあった。
「殿下。エレナ嬢が答えそのものを書かなかった理由をお考えください。おそらく、我々自身で判断できるよう材料だけを示したのでしょう」
アレクシスは納得していない顔だったが、拒む理由もなかった。
「……持ってこい」
書記官たちが第三文書庫へ走った。
ところが十分後、戻ってきた彼らが抱えていたのは二通の報告書ではなく、厚い帳簿が何冊も入った木箱だった。
「何だ、それは」
「該当する記録に関連文書が添付されておりまして……」
書記官ローデンが困ったように答える。
「一つの案件だけで、これほどあるのか?」
「はい。港湾記録、積荷目録、船員証言、リューデンとの旧協定、過去七年間の類似事例、それからエレナ嬢が作成した交渉方針案がございます」
アレクシスは木箱を見た。
今までは、自分の机へ届く頃には二枚か三枚の紙になっていた。
問題点。
選択肢。
推奨する対応。
署名する場所。
それだけだった。
「……これを、毎回エレナが読んでいたのか?」
誰もすぐには答えなかった。
ローデンが小さく頷く。
「はい。必要な部署へ問い合わせ、記録の矛盾を確認したうえで、殿下に提出する要約を作成しておりました」
アレクシスは箱から一冊を取った。
細かな数字と専門用語が延々と並んでいる。
二ページ読んだところで、何が重要なのか分からなくなった。
「十九日の報告書はどれだ」
ようやく見つけた書類を開く。
数行目で、アレクシスの顔色が変わった。
船側が事前申告していなかった積荷。
検査拒否の記録。
港湾警備隊との口論。
さらに二十二日の再検査記録には、輸入許可のない薬草が複数発見されたことが記されている。
「……向こうが協定に違反しているではないか」
外務卿が苦い顔で頷いた。
「だからこそ、昨日の時点で全面謝罪すべきではなかったのです」
「なら、なぜ誰も私に言わなかった!」
その瞬間、会議室が完全に静まり返った。
アレクシスは、自分が何を言ったのか一拍遅れて理解した。
外務卿は王太子を真っ直ぐ見た。
「申し上げました」
声は穏やかだった。
「事実関係を確認してから返答なさるべきだと、昨日申し上げました。ですが殿下は、一刻も早く騒ぎを収めることを優先なさいました」
アレクシスは何も言えなかった。
窓の外では、昼を告げる鐘が鳴り始めている。
いつもなら、この時間までには厄介事の半分ほどが整理されていた。
誰が整理していたのかを、彼は昨日まで考えたことがなかった。
◇
正午少し前。
エレナは自室で服を選んでいた。
午後には、レーヴェルト王国第二王子ルシアンとの面会がある。
公式外交ではないとはいえ、相手は王族である。華美すぎず、喪に服しているようにも見えず、婚約破棄された女が意地になって着飾ったとも思われない服装となると、意外に難しかった。
「こちらはいかがでしょう」
ミナが深い青色のドレスを掲げる。
「少し硬すぎるわ」
「では、こちらの若草色は?」
「春ならいいけれど、今は秋よ」
「お嬢様」
「何?」
「外国王子と会うより、ドレス選びのほうが真剣な顔をなさっています」
「服装で失敗したら、それは完全に私の責任でしょう」
「なるほど。外交で失敗しても責任を取ってくれる方がいらした頃の癖ですね」
「今日のあなたは特に刺してくるわね」
ミナが楽しそうに笑った。
そのとき、窓の外から馬車の音が聞こえた。
予定より少し早い。
「ルシアン殿下かしら」
「まだお時間には早いですが」
やがて廊下から足音が近づき、執事が扉を叩いた。
「お嬢様。レーヴェルト王国第二王子ルシアン殿下がお着きになりました」
エレナは時計を見た。
予定より十五分前である。
「お待ちいただいて。こちらもすぐ参ります」
「承知いたしました。それと、殿下から先にこちらをお渡しするようにとのことでございます」
執事が一枚の紙を差し出した。
正式な書状ではなく、簡単な覚え書きだった。
エレナはそこに記されていた一文を読んで、眉を寄せる。
――リューデン王国が今朝、我が国にも接触してきた。貴国から得た譲歩を前例として、同種の条件を要求するつもりらしい。
「もう動いたの……」
ミナが心配そうに尋ねた。
「また悪い知らせですか?」
「ええ。ただし今回は、私のところへ仕事を押しつけに来たわけではなさそうね」
「では、何をしに?」
エレナは覚え書きの最後まで読んだ。
そこには、ルシアン自身の筆跡で短く追記されていた。
――あなたが昨日まで何をしていた人物なのか、ようやく確信した。
エレナはしばらく、その一文から目を離せなかった。
王太子の元婚約者でも、王国一の悪役令嬢でもない。
どうやらルシアンは、エレナ自身に用があるらしい。
「会ってみましょう」
エレナは青いドレスをミナへ渡した。
「結局、こちらになさるのですか?」
「ええ。今日は少し硬いくらいでちょうどよさそうだから」
婚約を失ってから二日。
王宮の外で初めて、自分の能力を理由に会いたいと言ってくる人間が現れた。
それを嬉しいと思ってよいのか、警戒するべきなのか。
まだエレナには分からなかった。
ただ一つ確かなのは、午後の予定が空白ではなくなったということだった。




