第2話 十二通の抗議文
翌朝、エレナ・ヴァルハイトは目覚ましの鐘を三度聞き逃した。
正確には、屋敷の時計塔が鳴らす朝六時、七時、八時の鐘を、どれも聞いた記憶がなかった。
ようやく意識が浮かび上がったとき、厚いカーテンの隙間から差し込む光は、すでに朝というより午前の終わりに近い明るさを帯びていた。寝台の天蓋をぼんやり眺めながら、エレナは最初、自分がなぜ起こされていないのか分からなかった。
いつもなら夜明け前に侍女が湯を運び、六時までには王宮から届いた予定表に目を通す。七時には朝食を取りながら外務関係の書簡を確認し、その後は馬車の中でも資料を読む。それが十年間続いた生活だった。
寝過ごした。
そう気づいた瞬間、エレナは反射的に身体を起こしかけた。
「……あ」
しかし途中で動きを止める。
今日は、王宮へ行く必要がない。
王太子の予定も確認しなくていい。
昨夜の抗議文も、自分の机へ運ばれてくることはない。
その事実が頭の中へ馴染むまで、少し時間がかかった。
エレナは再び枕へ背中を預けた。
「これは……随分と贅沢ね」
王都で最も裕福な公爵家の令嬢が、朝寝坊を贅沢と呼ぶのも妙な話だった。
宝石もドレスも、必要ならいくらでも買えた。だが、自分の都合だけで眠り続ける時間は、これまで一度も手に入らなかった。
扉の外で何かが倒れる音がした。
続いて、慌てて拾い上げるような気配がする。
「ミナ」
「……はい」
「そこにいるのでしょう?」
数秒後、寝室の扉がそっと開いた。銀盆を抱えたミナが顔だけ覗かせ、その表情には、見つかってしまった子供のような気まずさが浮かんでいた。
「お目覚めでしたか」
「今、何時?」
「十時を少し回ったところです」
エレナはしばらく答えられなかった。
十時。
これまでの人生なら、すでに会議を二つ終え、誰かの失言を一つ修正し、昼食を取れるかどうか考え始めている時刻である。
「……十時」
「はい」
「私、病気かしら」
「健康です。むしろ昨日までがおかしかったのです」
ミナは遠慮なく言い切ると、盆を小卓へ置いた。焼きたてのパン、蜂蜜、柔らかく煮た卵、それから湯気の立つ乳茶が並んでいる。
「お嬢様は三日間、ほとんどまともな食事を召し上がらず、昨日は夜会の前にも一口しか食べていません。それで十時まで眠ったくらいで病人扱いされたら、世の中の貴族の半分は重病人でございます」
「あなた、昨夜から随分と口が悪くなったわね」
「お嬢様が王太子妃になられる予定がなくなりましたので、私も少しくらい自由になってよいかと思いまして」
「私の婚約破棄を自分の待遇改善に利用する侍女は初めて見たわ」
「お嬢様が今まで働きすぎていただけです」
ミナは寝台の脇まで来ると、エレナの顔を確かめるように覗き込んだ。
「それで……大丈夫ですか?」
先ほどまでの軽口とは違う声音だった。
何について尋ねているのかは、確認するまでもない。
エレナは答えようとして、少し考えた。
「昨夜よりは」
「それは、どのくらい大丈夫なのです?」
「朝食に蜂蜜をつけるかどうか考えられるくらいには」
「では、かなり回復していますね。昨日の夜は、スープを飲みながら塩が入っているかどうかも分かっていませんでしたから」
「そんなに?」
「はい。私が二度も味見しました」
「それは単にあなたが飲みたかっただけではなくて?」
「そうとも申します」
エレナは思わず笑った。
笑ったあとで、胸の奥が少しだけ痛んだ。
婚約がなくなったことを、まだ完全には受け止められていないのだろう。十年間そこにあった未来が、昨夜を境に突然消えたのだから当然だった。
それでも涙は出なかった。
もっと激しく傷つくものだと思っていた。だが実際には、悲しみの下に、それ以上に大きな疲労が沈んでいる。
アレクシスを失った悲しみよりも、もう誰かの失敗を自分の責任として処理しなくてよいという安堵のほうが、今は強かった。
そのことが少し寂しかった。
十年間の婚約が終わった翌朝に、最も強く感じるものが解放感だなんて、十六歳の自分には聞かせたくない。
「ところで」
エレナはパンを手に取りながら尋ねた。
「門のあたりが妙に騒がしいけれど、何かあったの?」
ミナの動きが止まった。
「聞こえていましたか」
「馬車が三台止まった音がしたわ。それに正門のベルが何度も鳴っている。朝から来客?」
「ええ、まあ……来客と申し上げてよいのかどうか」
「王宮ね」
ミナは露骨に嫌そうな顔をした。
「今ので分かるのですか?」
「昨日の夜に十二通も抗議文が届いたのでしょう。何も来ないほうがおかしいわ」
エレナは蜂蜜をパンに塗った。
昨日までなら、十二通という数字を聞いた時点で胃が重くなっていただろう。
今朝は蜂蜜の量のほうが気になる。
「何人来ているの?」
「最初は王宮書記官が一人、その次に外務省の役人が二人、そのあと王太子殿下の侍従が来ました。いまは全員、応接室で待っています」
「随分と仲良くなったのね」
「まったく仲良くありません。書記官殿と外務省のお二人が、お互いに『そちらの責任だ』と言い合っております」
「でしょうね」
目に浮かぶようだった。
王宮の問題というものは、平常時には誰もが自分の功績として扱いたがるくせに、火がついた途端に持ち主がいなくなる。
その持ち主を、今まではエレナが引き受けていた。
「お嬢様、会われますか?」
「朝食を食べてから」
「追い返してもよいのですよ」
「それは駄目よ。王宮から正式な使者が来たなら、会うだけは会わなければ」
ミナが不満そうに口を尖らせた。
「昨日は『寝たふりをする』とおっしゃっていたではありませんか」
「本当に寝ていたから、嘘ではないでしょう」
「なるほど。では十年間で一番お上手な政治判断かもしれません」
「あなた、やっぱり今朝から口が悪いわ」
朝食を終え、身支度を整えて応接室へ向かったころには、十一時を過ぎていた。
エレナが部屋へ入ると、三組の来客が同時に立ち上がった。
王宮書記官のローデン、外務省の次官補とその部下、そして昨夜も顔を合わせた王太子付き侍従。
三者とも、程度の差はあれど疲れ切った顔をしている。
「お待たせいたしました」
エレナが着席を勧めると、誰もすぐには座らなかった。
最初に口を開いたのは、年配の書記官ローデンだった。
「ヴァルハイト公爵令嬢、昨夜の件について、王宮より正式に協力をお願いしたく参りました」
「昨夜の件、では範囲が広すぎます。どの件でしょう」
「……西方三王国からの抗議文です」
「十二通の?」
「今朝までに十八通になりました」
エレナは手にしていた茶器を置いた。
「増えましたね」
ローデンは笑わなかった。
「さらに、二国の使節団が本日の予定を取り消しました。一国は帰国準備に入っています」
外務省の次官補が割って入った。
「だから我々は、早急に事情を説明し、誤解を解かなければならないと申し上げているのです。王宮書記局が昨日のうちに適切な返答を作成していれば、ここまで悪化することはなかった」
「待ってください。それは違うでしょう」
ローデンもすぐに言い返した。
「我々は外交交渉を行う部署ではない。これまで公爵令嬢が作成していた文案を清書し、王家の名で送付していただけです。外交上の判断をこちらへ押しつけられても困ります」
「しかし原本も記録も第三文書庫にあるのでしょう? 書記局の管理ではないのですか」
「昨夜まで管理責任者は公爵令嬢でした!」
そこで二人とも、ほとんど同時にエレナを見た。
エレナは乳茶を一口飲んだ。
「なるほど。それで、私に何をしてほしいのでしょう」
王太子付き侍従が前へ出た。
「殿下は、公爵令嬢に昨夜届いた抗議文への返答案を作成するよう命じておられます」
「命じて?」
エレナが聞き返すと、侍従は自分の言葉の選び方に気づいたらしく、表情を固くした。
「……失礼いたしました。殿下から、協力を求めるよう申しつかっております」
「そうですか」
エレナは怒ることもなく、ただ確認するように尋ねた。
「私は昨夜、王家の特別業務から正式に解任されましたね?」
「はい」
「婚約も破棄されました」
「……はい」
「第三文書庫の鍵も返却しております」
「承知しております」
「でしたら、私にはもう王宮内部の外交文書に触れる権限がありません」
次官補が身を乗り出した。
「ですが、内容をご存じなのでしょう?」
「昨日までの内容なら、ある程度は覚えております」
「ならば!」
「覚えていることと、権限があることは別問題です」
エレナの声は穏やかだったが、次官補は続きを言えなかった。
「国と国との交渉記録には、公開されていない条件や口約束が含まれています。解任された公爵令嬢が私的な立場でそれを扱い、王太子名義の文書を作成するほうが、よほど大きな問題になります。私が勝手に外交へ介入したと相手国から指摘された場合、どなたが責任を負うのですか?」
誰も答えなかった。
昨日までなら、その「どなた」がエレナだった。
責任を負う人間が最初から決まっていたから、王宮は多少雑な手順でも回っていた。
だが、その人物はもう役目を降りている。
「それに、抗議文の内容を見てもいない私が返答案を作ることはできません。昨夜から状況が変わっているのでしょう?」
「……はい」
ローデンが苦々しそうに答えた。
「殿下が昨夜、最初の三通について返答なさいました」
エレナの手が止まった。
「殿下ご自身で?」
「はい」
「どちらの国へ?」
国名を聞いた瞬間、エレナは思わず額へ指を当てそうになり、どうにかこらえた。
「返答の内容は?」
三人が互いの顔を見た。
嫌な予感ほどよく当たる。
侍従が慎重に言葉を選んだ。
「殿下は、王国側に非があった可能性を認め、先方の要望について最大限譲歩する用意がある、と……」
「最大限」
「はい」
「その言葉を?」
「正確には、『我が国の不手際について謝意を示し、貴国の希望に最大限配慮する』と」
エレナは数秒、何も言えなかった。
昨夜の時点では、王太子の処理能力を甘く見ていたらしい。
一晩でここまで状況を悪くできるとは思わなかった。
「何か問題が?」
次官補が不安そうに尋ねる。
エレナは、どこまで答えてよいか考えた。
すでに公務から外れている以上、内部情報を使って具体的な助言はできない。しかし一般論として説明する程度なら問題はない。
「外交上の抗議には、本当に謝罪を求めているものと、こちらがどこまで譲るか確認するためのものがあります。相手の主張を全面的に受け入れる前に、何を認め、何を認めないかを切り分けなければなりません」
「昨夜の三通は……?」
「内容を見ていないので判断できません」
エレナはそこで言葉を止めた。
知っている。
少なくとも、そのうち二件は先方にも明確な落ち度があった。
だからこそ交渉を止め、双方が面子を失わずに済む落としどころを探していた。
だが、今のエレナがそれを口にすれば、結局はまた仕事をすることになる。
「公爵令嬢」
ローデンが、先ほどまでよりずっと低い声で言った。
「私個人からお願い申し上げます。どうか一度だけ王宮へ来ていただけませんか。皆、あなたがどれだけの業務を抱えていたのか、正確には理解していなかったのです」
その言葉には、取り繕ったところがなかった。
エレナは少しだけ迷った。
ローデンは悪い人間ではない。
彼もまた、自分の仕事をしていただけだ。これまでエレナが夜中に持ち込んだ文書を何度も清書し、愚痴をこぼしながらも付き合ってくれた。
だからこそ、断るのが少しつらい。
「ローデン様」
「はい」
「もし私が今日一度だけ戻れば、明日は戻らなくて済みますか?」
老書記官は答えられなかった。
「十八通を処理すれば、その次の問題は誰が処理します? 使節団との再交渉は? 来月の通商会議は? 殿下の不用意な発言があった場合、その修正は誰がします?」
「それは……」
「私が一度戻れば、結局また以前と同じになります」
エレナは自分でも驚くほど静かな声で続けた。
「そして次に問題が起きたとき、皆様はまた『今回だけ』とおっしゃるでしょう。私は十年間、その『今回だけ』を続けてきました」
部屋が静かになった。
ミナが少し離れた場所で控えている。普段なら使用人として感情を表に出さない彼女が、今日はわずかに顎を上げていた。
「ですから、お戻りください」
エレナは三人に向かって頭を下げた。
「私から申し上げられるのは一つだけです。昨日まで私がしていた仕事は、私だけにしかできない特別な魔法ではありません。記録を読み、人の話を聞き、過去の約束を覚え、相手の事情を考え、責任を持って判断する。それを積み重ねていただけです」
「ですが、それを十年分、今すぐ誰かにやれというのは……」
「無理でしょうね」
「では!」
「だからこそ、私を突然解任する前に引き継ぎが必要だったのです」
次官補が口を閉じた。
誰も反論できなかった。
エレナは、自分でも少し意地が悪いと思った。
だが、これは必要な意地悪だった。
助けてしまえば、王宮は何も学ばない。
「殿下には、何とお伝えすればよろしいでしょう」
侍従が疲れた顔で尋ねた。
「昨夜申し上げた通りで結構です。私はすでに解任されておりますので、公務には関われません、と」
「それだけで?」
「それだけです」
侍従は深く頭を下げた。
三人が帰っていったあと、応接室には妙な静けさが残った。
エレナは冷めかけた茶を飲み、窓の外へ目を向ける。
秋の日差しの下、王宮から来た馬車が一台ずつ門を出ていく。
ミナが後ろから言った。
「本当に、よろしかったのですか?」
「何が?」
「放っておいて」
その言葉には責める響きはなかった。
エレナは少し考えてから答えた。
「よくはないわ。今でも、どの抗議から処理するべきか考えてしまっているもの」
「では、戻りたいですか?」
「それはもっと嫌」
ミナが小さく笑った。
「安心しました」
「何が?」
「お嬢様にも、ちゃんと嫌なことを嫌と言う機能が残っていたので」
「私を壊れた置き時計みたいに言わないで」
エレナも笑いかけたところで、正門のベルが再び鳴った。
二人は同時に窓のほうを見る。
今度の馬車は王宮の紋章ではなかった。
深緑の車体に、翼を広げた銀鷹。
エレナはその紋章を知っていた。
「……レーヴェルト王国」
西方三王国とは別の、北東に国境を接する大国。
そして現在、その国の第二王子が外交使節として王都に滞在している。
ミナが首を傾げた。
「王宮の方ではありませんね」
「ええ」
ほどなくして執事が応接室へ入り、一通の封書を銀盆に載せて差し出した。
「お嬢様。レーヴェルト王国第二王子、ルシアン殿下より書状でございます」
「私に?」
「はい。先方の従者が、直接お渡しするようにと」
エレナは封蝋を見た。
銀鷹の紋章は正式なものだ。
個人的な悪戯ではない。
封を切り、中の紙を開く。
書状は驚くほど短かった。
礼儀正しい挨拶のあとに記されていたのは、明日の午後、時間をもらえないかという面会の申し入れだった。
理由は書かれていない。
ただ最後に、一行だけ付け加えられていた。
――王太子の元婚約者としてではなく、エレナ・ヴァルハイト個人に話がある。
その一文を二度読んでから、エレナは紙を畳んだ。
「何と?」
ミナが尋ねる。
「面会したいそうよ」
「王子殿下が?」
「ええ」
「婚約破棄の翌日に?」
「だから、その言い方をすると妙な話になるでしょう」
「十分妙な話だと思いますが」
エレナは否定できなかった。
昨日までなら、外国王族からの私的な面会申し入れを受けた瞬間に、王宮へ報告し、王太子の許可を取り、外務省と調整していた。
だが今は違う。
王太子の婚約者ではない。
王家の特別業務も解かれた。
誰に許可を取る必要もない。
「明日の午後なら空いているわ」
「お嬢様」
「何?」
「その言葉、今まで一度も聞いたことがありません」
エレナは少し考え、確かにそうだと思った。
予定が空いている。
たったそれだけのことが、不思議なほど新鮮だった。
「では、お受けすると返事をして」
「承知いたしました」
ミナが書状を受け取ろうとしたところで、エレナはふと尋ねた。
「ところで、今日の午後は何か予定がある?」
「ございません」
「夕方は?」
「ございません」
「夜も?」
「もちろんございません」
エレナは椅子の背にもたれた。
十年間、自分の一日がこれほど空白だったことはない。
何をしてよいか分からず、しばらく考えた末に出てきた答えは、我ながら情けないものだった。
「……もう一度寝てもいいかしら」
ミナは呆れた顔をしたあと、声を上げて笑った。
「どうぞ。今日だけは、誰にも文句を言わせません」
エレナも笑った。
そのころ王宮では、十二通だった抗議文が十八通へ増え、さらに二国の使節が予定を取り消していたことなど、今の彼女には知る必要のない話だった。
少なくとも、今日までは。




