第1話 では、今日から本当のことしか申しません
「エレナ・ヴァルハイト。今宵をもって、私はそなたとの婚約を破棄する」
王太子アレクシスの声が大広間へ響いたとき、最初にエレナの頭へ浮かんだのは、悲しみでも怒りでもなかった。
――よりによって、今日なのね。
王宮で開かれている秋季祝賀会には、国内の有力貴族だけでなく、西方三王国から訪れている使節団まで出席している。本来ならば、王太子の婚約に関する重大発表をするには、これ以上ないほど不向きな夜だった。
少なくとも、外交上の火種を一つでも減らしたいのなら。
天井から吊るされた無数の魔石灯が白い光を放ち、楽団はいつの間にか演奏をやめていた。先ほどまで葡萄酒と笑い声で満ちていた大広間には、ドレスの裾が擦れる小さな音まで聞こえるほどの沈黙が落ちている。
その中心に立つアレクシスは、王太子として申し分のない姿をしていた。金の髪は丁寧に整えられ、濃紺の礼装には王家の銀獅子が刺繍されている。その隣には、淡い水色のドレスをまとった伯爵令嬢セシリアが、不安そうに両手を胸元で重ねていた。
エレナは二人を見比べ、それから自分の右手を見た。
薬指には、十年前に贈られた王家の婚約指輪がある。
随分と長くつけていたものだ、と妙に他人事のように思った。
「殿下」
エレナが呼びかけると、アレクシスの眉がわずかに動いた。泣き崩れるか、怒鳴りつけられるか、そのどちらかを予想していたのかもしれない。
「理由をお聞きしてもよろしいでしょうか。婚約を続けたいからではございません。正式な記録を残す必要がありますので、確認させていただきたいのです」
「……そういうところだ、エレナ」
「どういうところでしょう」
「今、この場でさえ、そなたは記録だの手続きだのと言う。人の心というものが分からないのか」
周囲から小さなざわめきが起きた。
エレナは反論しなかった。
人の心が分からないと言われることには慣れている。実際には、人の心が分からなければ十年もこんな仕事は続けられなかったのだが、その説明をするには、この広間には耳が多すぎた。
アレクシスは隣のセシリアを見た。
その眼差しには、エレナに向けられたことのない柔らかさがある。
「私はセシリアを愛している。彼女は優しい。誰かを陥れることも、自らの立場を利用して他人を傷つけることもない。そなたとは違う」
「アレクシス様、私は……」
セシリアが困ったように王太子の袖へ触れた。
「私のために、エレナ様を責めるようなことはなさらないでください。私はただ、皆様が笑って過ごせるようになればと思っているだけです。エレナ様にも、どうか幸せになっていただきたいのです」
心からそう言っているのだろう。
エレナには、それが分かった。
だから余計に厄介だった。
セシリアは悪女ではない。自分が誰かから何を奪っているのか、本当に知らないだけなのだ。
そして彼女が知らないようにしてきたのは、他でもないエレナ自身だった。
エレナは十年前から、王家に都合の悪いことを人目から隠す仕事をしている。
王太子が十三歳のとき、隣国の使節の前で不用意な発言をした際には、「婚約者候補だったエレナが誤った知識を教えた」と発表された。
王女が十五歳の誕生日に王宮予算を大幅に超える舞踏会を望んだときは、「公爵令嬢エレナが王女を煽り、豪華な宴を要求した」という話に変わった。
王家御用達商会との契約で不正が見つかったときには、エレナが独断で商会を推薦したことになった。
もちろん、後始末もエレナが行った。
詫び状を書き、相手の腹を探り、譲ってよい条件と譲ってはならない条件を決め、王家が頭を下げたように見えない形で関係を修復する。
王族が国民から嫌われれば政治は不安定になる。しかし、公爵令嬢が一人嫌われたところで国は滅びない。
その理屈を最初にエレナへ説明したのは、亡き父だった。
そして仕事に正式な名前はなかった。
王宮の一部では、半ば冗談めかして「黒衣役」と呼ばれていた。
王家の白い衣を汚さないため、自分が黒く染まる役目。
そんなものを十年間続ければ、世間が自分をどう見るかなど、とっくに諦めている。
「そうですか」
エレナは静かに答え、アレクシスを見た。
「では、婚約破棄の理由は、殿下がセシリア様を愛しておられ、私とは婚姻関係を結びたくないから。それでよろしいでしょうか」
「ああ」
「私が王太子妃として不適格だから、という理由ではなく?」
「それも理由の一つだ。そなたはこれまで、王家のためとはいえ数多くの汚れ仕事をしてきた。その点については私も感謝している。しかし、もう必要ない。これからは民に愛される王家を作りたいのだ」
エレナの指が、ほんのわずかに止まった。
近くにいた宰相が顔を上げた。
王宮書記官の一人など、手にしていた杯を落としかけている。
アレクシスは、それに気づかなかった。
「殿下」
「何だ」
「今のお言葉を、皆様の前でおっしゃってよろしいのですか?」
「何を言っている?」
「いえ。殿下がお決めになったのであれば、私から申し上げることはございません」
エレナは小さく頭を下げた。
確認はした。
それで十分だった。
アレクシスはどこか苛立った様子で言葉を続けた。
「そなたがこれまで担ってきた王宮内の特別業務についても、本日限りで解任する。私との婚約を失った者が、王家の内情に関わり続けるわけにはいかないからな」
大広間の端で、今度こそ宰相が目を閉じた。
年老いた外務卿は額に手を当てている。
エレナは二人を見たが、助け舟を出すつもりはなかった。
これは王太子自身が下した決定である。
「承知いたしました。それでは、必要なものをお返しいたします」
エレナは左手の手袋を外し、婚約指輪を抜いた。十年近く指にあったため、外した場所だけ肌の色がわずかに違っている。
それを近くの銀盆へ置く。
澄んだ小さな音が大広間に響いた。
次に、腰につけていた細い鎖を外す。その先には、黒鉄で作られた小さな鍵が一本下がっていた。
それを見た瞬間、外務卿の顔から血の気が引いた。
「エレナ嬢、その鍵は――」
「王宮地下第三文書庫の鍵でございます。私は先ほど、王家の特別業務から正式に解任されましたので、所持する理由がなくなりました」
「待て」
宰相が初めて口を挟んだ。
「殿下。せめて引き継ぎだけは――」
「必要ない」
アレクシスは迷わなかった。
「いつまでもエレナに頼っていては、新しい王宮にならない。父上にも私から説明する。文書庫については書記官に管理させればいい」
宰相の唇が何かを言いかけたが、結局閉じられた。
王太子にこれ以上恥をかかせまいとしたのか、それとも今さら何を言っても止まらないと判断したのか、エレナには分からない。
ただ一つだけ確かなのは、第三文書庫を普通の書庫だと思っている人間が王太子になろうとしているという事実だった。
「あちらには、何があるのですか?」
セシリアが恐る恐る尋ねた。
責めるような響きはなく、純粋な疑問だった。
アレクシスが答えるより先に、エレナは穏やかに言った。
「私が管理していた書類です」
「それは分かりますけれど……それほど大切なものなのですか?」
「もう私が説明してよい立場ではございません」
エレナがそう返すと、セシリアは申し訳なさそうに眉を下げた。
「ごめんなさい。意地悪を言わせるつもりではなかったのです」
「意地悪とは思っておりません。立場が変わった以上、口にしてはならないことが増えただけです」
これだけは嘘ではなかった。
むしろ今日から、随分と口が軽くなる。
これまでエレナは、王家を守るために必要なら嘘をついた。事実を伏せ、責任を引き受け、時には自分が悪人に見える言葉さえ選んだ。
しかし解任された者に、それを続ける義務はない。
エレナは黒鉄の鍵を婚約指輪の隣へ置いた。
「殿下。長い間、お世話になりました」
「……ずいぶん簡単に受け入れるのだな」
アレクシスの声に、初めて戸惑いが混じった。
おそらく彼は、自分がもっと責められると思っていたのだろう。
あるいは、引き留められることを少しは期待していたのかもしれない。
「泣いてほしかったのでしょうか」
「そういう意味ではない」
「でしたら、これでよろしいかと。殿下は望む方とご一緒になれる。私は王家のお役目から解放される。少なくとも、この場で争う理由はございません」
「十年だぞ」
アレクシスは低い声で言った。
「十年近く、私の隣にいた。それなのに、何も思わないのか」
その問いだけは、少し卑怯だとエレナは思った。
何も思わないわけがない。
十六歳の少女だった自分は、いつか本当に彼の妻になれると信じていた。政略から始まった婚約でも、長い年月を一緒に過ごせば、互いに情くらいは生まれると思っていた。
彼の失敗をかばうたび、次は自分を見てくれるかもしれないと考えたこともある。
けれど、それを今さら口にして何になる。
「思うところはございます」
エレナは少し考えてから答えた。
「ですが、それは私一人で整理すべきことです。殿下がセシリア様を選ばれた以上、ここで申し上げても、お二人を困らせるだけでしょう」
アレクシスは黙った。
その横で、セシリアがほんの少し俯いた。
エレナは二人へ礼をし、踵を返した。
そのときだった。
「エレナ」
呼び止められ、彼女は振り返った。
アレクシスは何か言おうとしていた。
けれど結局、出てきたのは王太子としての言葉だった。
「王家に関することを、外で軽々しく話すな」
エレナは一瞬だけ目を細めた。
十年間の最後に言われる言葉が、それなのか。
悲しいというより、妙に納得した。
彼にとって自分は最後まで、愛した女でも、人生を共にするはずだった婚約者でもなく、王家の不都合を片づける便利な役職だったのだろう。
「ご心配なく。守秘義務のある事柄については、もちろん口外いたしません」
「ならばいい」
「ただし」
エレナはそこで初めて、ほんの少しだけ笑った。
「今後起きた出来事についてまで、私が王家に都合のよい嘘を申し上げる義務はございません」
アレクシスの表情が固まる。
「どういう意味だ」
「言葉のままでございます」
エレナは深く礼をした。
「それでは本日をもちまして、私が王家に代わって嘘をつくのも終わりにいたします。これからは、尋ねられたことには本当のことだけを申し上げます」
今度こそ、大広間を後にした。
扉が閉じる直前、ざわめきが一気に戻ったのが聞こえた。
廊下へ出ると、秋の夜気が開いた窓から流れ込んでいた。磨き上げられた床を歩きながら、エレナは無意識に腰へ手を伸ばし、そこに鍵がないことに気づく。
十年間、毎日持ち歩いていたものだ。
妙に身体が軽かった。
「お嬢様!」
柱の陰で待っていた侍女ミナが駆け寄ってきた。主人の評判がどれほど悪くなろうと辞めなかった、数少ない人間である。
「本当に婚約を破棄されたのですか? あの馬鹿王太――」
「ミナ」
「……王太子殿下は」
「言い直せて偉いわ」
「褒められても腹が立ちます」
ミナは目を潤ませていた。
エレナはその顔を見ると、先ほどまで平気だった胸の奥が少しだけ痛んだ。
自分のことでは泣けなくても、自分のために泣いている人を見ると困る。
「帰りましょう。今夜はもう仕事がないの」
「……本当ですか?」
「ええ」
「夜中に王宮から使いが来ても?」
「出ない」
「外国から急使が来ても?」
「寝たふりをするわ」
「書類が山ほど届いても?」
「燃やしはしないけれど、開かない」
ミナはしばらく主人の顔を見つめ、それから袖で目元を拭った。
「では帰ったら、温かいスープを作ります。お嬢様、この三日間まともに夕食を召し上がっていませんから」
「パンも欲しいわ」
「もちろんです」
「それから明日の朝は起こさないで」
「何時までですか?」
「目が覚めるまで」
言ってから、エレナは自分でも可笑しくなった。
十年間、日の出より遅くまで眠った記憶がない。
明日から何をすればいいのかは、まだ分からなかった。
ただ、少なくとも明日の朝、王太子の予定表を確認する必要はない。
その事実だけで、胸の奥に空いた穴へ少しだけ風が通った。
だが、エレナが王宮正門へ向かおうとした、そのときだった。
背後から乱れた足音が近づいてくる。
「ヴァルハイト公爵令嬢! お待ちください!」
王宮侍従の一人が、息を切らして走ってきた。祝賀会の最中に走るなど、普段なら厳重に叱責される行為だが、その顔色を見れば事情が尋常ではないことくらい分かる。
「どうしました?」
「西方から急使です。三王国すべてから、同時に抗議文が届きました。それも一通や二通ではありません。現時点で十二通、まだ増える可能性があります」
エレナは少しだけ考えた。
心当たりはある。
先月から保留になっている関税条項、王太子が宴席で不用意に約束した港湾使用権、王女が個人的に送った贈答品の扱い。そして何より、今夜の祝賀会には西方使節がいる。
彼らのうち何人かは、先ほどの婚約破棄を目の前で聞いていた。
侍従は縋るような目でエレナを見た。
「殿下がお呼びです。至急、処理してほしいと」
ミナが隣で息を呑んだ。
エレナは怒らなかった。
十年もやっていれば、習慣というものは恐ろしい。頭の中ではすでに、十二通の抗議文を緊急度順に並べ始めている自分がいる。
だが、腰にはもう鍵がない。
薬指にも指輪はない。
それを確かめるように右手を見てから、エレナは侍従へ穏やかに答えた。
「申し訳ございません。つい先ほど、解任されましたので」
「ですが、このままでは――」
「それは大変ですね」
侍従が目を見開いた。
エレナ自身も、その言葉を口にして初めて知った。
誰かの失敗を、ただ「大変ですね」と言って見送ることが、こんなにも難しく、そして少しだけ気持ちのいいものだったとは。
「どうぞ殿下にお伝えください。私はもう王宮の者ではございません、と」
そして今度こそ、エレナは王宮を後にした。
その夜、十年間で初めて、彼女は自分が片づけなくてもよい問題を背中に置いて帰った。




