第9話 私を悪女にした人たち
レーヴェルト王国から届いた通商協議の資料を読み始めて一時間ほど経ったころ、エレナは自分が同じ頁を三度めくっていることに気づいた。
五か国の通行税制度について考えていたはずなのに、いつの間にか頭の中では別の数字が並んでいる。
百二十七枚の請求書。
三か月の王宮との臨時契約。
一か月のレーヴェルトでの試用期間。
そして、四日前に終わった十年間の婚約。
「……集中できていないわね」
自分に言い聞かせるように呟き、エレナは資料を閉じた。
夕食までにはまだ時間がある。以前なら、こういうときには別の仕事へ手を伸ばした。外交資料で頭が疲れれば予算書を読み、予算書に飽きれば王太子の翌日の予定を確認する。
休むという発想は、今でもなかなか出てこない。
机から立ち上がろうとしたところで、廊下から早い足音が近づいてきた。
ミナではない。
公爵家でこれほど遠慮なく歩く人間は限られている。
エレナが扉を見るのとほぼ同時に、二度だけ強く叩かれた。
「姉上。入ってもいいですか」
聞き慣れた声に、エレナは思わず時計を見た。
「レオン?」
返事を待たずに扉が開き、長旅用の濃紺の外套をまとった青年が入ってきた。
エレナより四歳年下の弟、レオン・ヴァルハイト。
父亡きあとヴァルハイト公爵位を継いだ、現在の当主である。
本来なら領地にいるはずだった。
「あなた、どうして王都に?」
「どうしても何もありません。姉上が王太子殿下に婚約を破棄されたと聞いて、領地でのんびり帳簿を見ていろと?」
「あなたが見ているのは、のんびりできるような帳簿ではないでしょう」
「そこですか?」
レオンは呆れた顔をした。
幼いころは姉の後ろをついて歩いてばかりいた少年も、今ではエレナより頭一つ近く背が高い。父に似た茶色の髪に、母譲りの灰色の目を持ち、貴族社会では穏やかで人当たりのよい若き公爵として知られている。
ただし姉の前では、昔のままだった。
「婚約破棄の話を聞いたのはいつ?」
「四日前の夜です」
「それなら翌朝には出発している計算ね」
「しましたよ」
「領地の仕事は?」
「家令に任せました」
「秋税の確認は?」
「終わっています」
「北部の水路工事は?」
「副官が見ています」
「冬麦の――」
「姉上」
レオンが低い声で遮った。
「僕は領地経営の報告をしに来たんじゃありません」
「分かっているわよ」
「分かっている人は、普通、久しぶりに会った弟へ最初から仕事の確認ばかりしません」
言われてみればその通りだった。
エレナは少し気まずくなり、椅子を勧めた。
「座って。お茶を呼ぶわ」
「その前に一つだけ」
「何?」
レオンは座らなかった。
「姉上、本当に大丈夫なんですか」
ここ数日、何度も聞かれた言葉だった。
けれど弟から聞くと、少し違った。
「大丈夫よ」
「その答えが一番信用できないんです」
「どうして?」
「父上が亡くなった日の夜にも、同じ顔で同じことを言いましたから」
エレナは黙った。
忘れていたわけではない。
忘れられるはずもない。
父が亡くなったのは八年前。
レオンはまだ十八歳になったばかりで、公爵位を継ぐには若すぎると陰口を叩かれていた時期だった。
葬儀が終わった夜、泣き疲れた弟に「大丈夫よ。私がいるから」と言った。
その言葉を、レオンは覚えていたらしい。
「今回は、本当に大丈夫」
「泣きました?」
「それを弟に確認されるのは、かなり嫌なのだけれど」
「泣いていないんですね」
「……まだね」
正直に答えると、レオンの顔から少しだけ怒りが抜けた。
「座りましょう」
今度はエレナから言った。
ミナを呼び、二人分の茶を頼む。
レオンがようやく長椅子へ腰を下ろすと、旅の疲れが一気に出たのか、深く背もたれへ身体を預けた。
「寝ていないでしょう」
「姉上ほどではありません」
「昔の私を基準にしないで」
「今は寝ているんですか?」
「十時まで寝た日もあるわ」
レオンの目が大きく見開かれた。
「姉上が?」
「そこまで驚く?」
「領地の馬が人語を話したと聞くより驚きます」
「失礼ね」
「よかった」
レオンは小さく笑った。
「本当に少し変わったんですね」
「四日しか経っていないわ」
「姉上が四日で変わるとは思わなかったんです」
ミナが茶を運んできた。
弟が帰ってきたことが嬉しいらしく、いつもより菓子の皿が多い。
「公爵様、お帰りなさいませ」
「ただいま、ミナ。姉上はちゃんと食べている?」
「最近は以前より随分と」
「ちょっと。私の前で健康状態を共有しないで」
「公爵様から以前より頼まれておりますので」
「あなた、そんな密約をしていたの?」
「姉上が三食食べているか確認してくれ、とだけです」
レオンが平然と言う。
「公爵家当主と侍女が主人を監視するのは、どうなのかしら」
「姉上が自分で自分を管理できていれば必要ありません」
「二人とも、最近私に遠慮がなさすぎるわ」
ミナは満足そうに一礼して出ていった。
扉が閉まると、レオンはしばらく茶を飲んでいた。
先ほどより表情は落ち着いたが、何か言いたいことを飲み込んでいるのは分かる。
「王太子殿下のところへ殴り込みに行くつもりなら、止めるわよ」
先回りして言うと、レオンは噎せた。
「行きません!」
「顔が少し似ていたから」
「いくら腹が立っていても、王太子を殴るほど馬鹿ではありません」
「安心したわ」
「でも、文句くらいは言いたいです」
「それもやめて」
「姉上」
「終わった婚約について、ヴァルハイト家が王家へ抗議すれば政治問題になるでしょう。少なくとも今は、正式な婚約解消手続きに瑕疵はないのだから」
「そうやって、すぐ政治の話にする」
レオンの声が強くなった。
「姉上は傷ついていないんですか?」
「傷ついているわ」
今度は誤魔化さなかった。
弟の勢いが止まる。
「でも、傷ついたからといって、何をしてもいいわけではないでしょう」
「……それは分かっています」
「それならいいの」
「よくありません」
レオンは茶器を置いた。
「僕が腹を立てているのは、婚約破棄だけじゃない」
エレナは弟の顔を見た。
「王宮で姉上が何をしていたのか、今回初めて具体的に知りました」
「誰から?」
「宰相閣下からです。王都へ着いてすぐお会いしました」
「私より先に?」
「現公爵として、話を聞く権利はあるでしょう」
「それはそうだけれど」
レオンは懐から折り畳まれた紙を取り出した。
王宮から正式に送られてきた説明書らしい。
「外交調整、王室予算の確認、貴族間の仲裁、王族の公的発言の修正。それから、王家に都合の悪い問題が起きたときの……責任の引き受け」
最後の言葉だけ、吐き出すようだった。
「どうして僕に言わなかったんです」
「言う必要がなかったから」
「姉上にはあったんでしょうね。僕にはありました」
即座に返され、エレナは黙った。
「僕は、この家の当主です」
「分かっているわ」
「分かっていない」
弟に真正面から叱られたのは、いつ以来だろう。
「父上が亡くなったあと、僕は公爵位だけ継いだ。王宮との面倒な関係は、全部姉上が持っていった。それを僕は『姉上は王太子妃になるのだから、宮廷のことは任せたほうがいい』と勝手に納得していました」
「実際、私のほうが事情を知っていたもの」
「だからって、一人で抱える理由にはならないでしょう!」
声が響いた。
レオンは言ったあとで、感情的になりすぎたと思ったのか、口を閉じた。
だが謝らなかった。
エレナも叱らなかった。
「……あなたはまだ若かったの」
「十八でした」
「十分若いでしょう」
「姉上は二十二だった」
「私は四歳年上よ」
「四歳しか違わない!」
その言葉に、エレナは返す言葉を失った。
確かにそうだ。
当時の自分は、弟が若すぎると思っていた。
父を亡くしたばかりの十八歳に、この家が抱える政治上の負債まで背負わせるのは酷だと。
だから自分が引き受けた。
しかし二十二歳の自分だって、今振り返れば十分に若かった。
「父上が、姉上に頼んだんですよね」
レオンが静かに言った。
「黒衣役を続けろ、と」
その呼び名を弟の口から聞き、エレナの胸がわずかに強張った。
「……どこまで聞いたの?」
「宰相閣下からは詳しくありません。でも父上の書斎に残っていた記録を、以前少し見たことがあります」
「勝手に?」
「僕の書斎です。今は僕が公爵なんですから」
「そうだったわね」
忘れているわけではないのに、弟をいつまでも守るべき子供として扱ってしまう。
それも自分の悪い癖なのだろう。
「父上が南方通商協定で問題を起こしたことも知っています」
レオンの言葉に、昔の記憶が開いた。
十四年前。
南部国境で収穫不良が続き、穀物価格が急騰した年だった。
当時、外務交渉の中心にいた父ギルベルト・ヴァルハイトは、国境封鎖を避けるため、隣国との間で一時的な穀物関税免除を認めた。
判断そのものは多くの民を救った。
問題は、その手続きを正式な王命が出る前に進めたことだった。
数日遅れていれば、南部では暴動が起きていた可能性が高い。
だが法律上、父は明らかに権限を越えていた。
政敵はそれを見逃さなかった。
「父上は間違ったと思う?」
エレナが尋ねると、レオンは少し考えた。
「僕には分かりません。法を守るべきだったとも思うし、待っていたら人が飢えたのも事実なのでしょう」
「私も同じよ」
だから、この話は単純な善悪では終わらなかった。
国王エドワードは父を処罰しなかった。
正式な責任追及をすれば、父の決断で救われた地域まで否定することになる。
しかし、何事もなかったことにもできなかった。
反王家派の貴族たちは、ヴァルハイト家が王権を無視したという材料を握った。
爵位剥奪を求める声まであった。
「陛下は父上を守ってくださった」
「だからヴァルハイト家は王家に借りがある、と?」
「ええ」
「それで姉上が払った?」
問いかけが鋭かった。
「最初は父自身が払っていたわ」
エレナは昔を思い出しながら続けた。
「問題が表へ出ないよう調整し、王家の失策を引き受け、反対派へ『ヴァルハイト家は王家に従っている』と示した。私が十二歳で宮廷へ出入りするようになったのも、その手伝いからだった」
「十二歳」
レオンの顔が歪んだ。
「最初は手紙を運んだり、父のそばで記録を取ったりする程度よ」
「それでも十二歳です」
「貴族の子供としては、珍しくないわ」
「姉上は、そうやって何でも普通のことにする」
その言葉に、エレナは少し傷ついた。
「責めたいわけではないです」
レオンはすぐに言い直した。
「ただ……姉上は、自分が我慢できたことを『大したことではない』に変えてしまうでしょう」
エレナは答えられなかった。
思い当たるところがありすぎた。
「父上が亡くなったとき、状況はまだ完全には片づいていなかった」
エレナはゆっくり話を戻した。
「あなたは公爵位を継いだばかりで、反対派の中には、若い当主を理由にヴァルハイト家の権限を削ろうとする者もいた。私とアレクシス殿下の婚約が正式に固まれば、家の立場も安定する。だから私は――」
「王家に残った」
「ええ」
「僕のために?」
「それだけではないわ」
そこだけは訂正したかった。
「自分で選んだ部分もある。アレクシス殿下のことも、当時は本当に好きだった。王太子妃になることに誇りもあった。それに父から受け継いだ仕事を、途中で投げ出したくない気持ちもあった」
「でも僕を守るという理由もあった」
「……あったわ」
レオンは両手を組み、しばらく黙った。
「僕は、それを知らなかった」
「知らなくてよかったの」
「姉上」
「少なくとも当時は、そう思っていた」
エレナは言い直した。
「あなたには領地経営を覚えて、公爵家を立て直してほしかった。宮廷で父の失敗を蒸し返されるたびに頭を下げるようなことは、私一人で十分だと思ったの」
「それで八年間?」
「そうね」
「姉上、それは守ったとは言わない」
静かな言葉だった。
「どういう意味?」
「僕に何も選ばせなかった」
エレナの胸へ、重く落ちた。
「僕が知ったら苦しむと思ったんでしょう」
「ええ」
「なら苦しめばよかったんです。自分の家の問題なんだから」
「そんな言い方をしなくても」
「姉上は僕に、領地を治める責任は負わせた。でも王家との関係については、ずっと子供扱いした」
そこまで言われて、反論はできなかった。
それはまさに、この数日間エレナ自身が王宮に対して言ってきたことだった。
一人へ仕事を集めるな。
責任を分けろ。
誰かが代わりに全部処理してしまえば、残った人間は学ばない。
自分は王宮にそれを求めながら、弟には正反対のことをしていた。
「……嫌になるわね」
「何が?」
「私、王宮と同じことをしていたみたい」
レオンが少し驚いた顔をした。
「問題が起きても、あなたには見せない。私が処理する。そのほうが早いし、あなたを守れると思っていた。でも、それではあなたは何も知らないままになる」
「そうですね」
「そこは少しくらい慰めてくれてもいいでしょう」
「今は駄目です」
「厳しいわね」
「姉上に似ました」
エレナは苦笑した。
不思議だった。
弟に責められているのに、少し気持ちが軽くなっている。
自分が何もかも正しくやってきたわけではないと認めることは、以前なら怖かった。
王家の失敗を引き受ける人間は、自分まで間違ってはいけないと思っていたからだ。
今は、間違えたなら直せばいいと思える。
「分かったわ」
エレナは言った。
「これから王家とヴァルハイト家に関係することは、あなたにも共有する」
「全部?」
「全部は無理よ。守秘義務のある話もあるもの」
「そこは分かっています」
「家に関係する範囲で、必要なことは全部」
「約束です」
「ええ」
レオンはようやく肩の力を抜いた。
そして、しばらく迷ったあとに言った。
「それから、もう一つお願いがあります」
「何?」
「僕を守るために、王太子殿下のところへ戻らないでください」
エレナは目を見開いた。
「そんな理由で戻るつもりは――」
「今はなくても、国や家のためだと言われたら姉上は考えるでしょう」
否定しかけて、やめた。
確かに、自分なら考える。
「ヴァルハイト家は僕が守ります」
レオンの声音には、若いころにはなかった芯があった。
「姉上が婚約者でなくても、公爵家は立っています。王家との関係も僕が考える。もし昔の件を蒸し返す者がいるなら、自分で説明します」
「簡単ではないわよ」
「知っています。でも、それは僕の仕事です」
エレナは弟を見つめた。
十八歳の少年ではなかった。
いつの間にか、自分と同じように責任を持つ大人になっていた。
それを見ないようにしていたのは、自分のほうだったのかもしれない。
「分かった」
「本当に?」
「何度も言わせないで」
レオンが笑った。
「では、これでようやく領地へ戻れます」
「もう戻るの?」
「姉上が元気だと確認したら帰るつもりでした。秋税の集計が待っていますので」
「あなたも十分仕事好きじゃない」
「姉上に言われたくありません」
そこへ、控えめなノックが響いた。
入ってきたのは執事だった。
「公爵様、お嬢様。古い書類庫の整理について、ご確認いただきたいものがございます」
「今?」
レオンが尋ねる。
「公爵様が王都へお戻りになったので、前公爵様の私物を含む保管箱の鍵を開けたのですが、その中にお二人宛てと記された封書がございました」
エレナとレオンは顔を見合わせた。
「父上の?」
「はい」
執事が銀盆の上から古びた封書を差し出した。
年月を経た紙は少し黄ばんでいる。
表には、父ギルベルトの筆跡でこう記されていた。
――エレナとレオンへ。二人が、私の失敗を私の失敗として読める年齢になったときに。
エレナの指が止まった。
「これ、いつ書かれたもの?」
「封蝋の印から見て、前公爵様が亡くなられる数か月前と思われます」
レオンが受け取ろうとして、途中で姉を見た。
「一緒に読みますか」
「ええ」
二人は並んで長椅子へ座った。
封を切る。
最初の一行を読んだだけで、エレナは息を止めた。
そこには、父が生前一度も娘へ言わなかった言葉が書かれていた。
――まず最初に謝る。王家への借りは、私が作ったものだ。エレナ、お前が返す必要はない。
エレナは、その先をすぐには読めなかった。
八年間、自分が背負ってきた理由の一つを、死んだ父自身から否定された気がした。
隣でレオンも何も言わない。
部屋には時計の針が進む音だけが響いていた。
やがてエレナは、震えそうになる指で次の行へ目を移した。
父の手紙は、まだ始まったばかりだった。




