第15話 王子殿下、部下を夕食まで働かせないでください
五か国通商制度の試案を現場へ見せると決めた翌日、エレナは朝から三度、自分の案を訂正することになった。
一度目は東市場の小規模商人からだった。
「共通申請票はありがたいです。でも、有効期間を一年にされたら、年に二回しか国境を越えない者には更新料のほうが高くつきますよ」
二度目は河岸倉庫を管理する業者から。
「内陸国商人の総負担へ上限をつけるのはいいでしょう。ただ、港に着いたあと長期間倉庫を占有されても、その保管料まで上限に含められたらこちらが困ります」
三度目は大商会の会計責任者からだった。
「取引規模に応じて保証額を変える案そのものには賛成です。しかし一度の取引額だけで区分すると、大きな契約を細分化して小規模枠へ逃げる商人が出るでしょう」
どれも正しかった。
正しいから腹が立つ。
腹が立つから直す。
そして直した結果、最初より良いものになるので、なおさら文句が言えない。
「……案というものは、どうして机を離れた瞬間に穴が増えるのかしら」
夕方の大使館で、エレナは誰にともなく呟いた。
窓の外では日が沈み始めている。
昼間まで降っていた雨は上がり、濡れた石畳に夕焼けの色が残っていた。
机の上には、現場から戻ってきた意見書が積み上がっている。
小規模商人。
大商会。
倉庫業者。
荷運び組合。
港湾管理者。
それぞれが同じ制度案を読んで、まったく違う場所へ不満を持った。
エレナにとっては面白い。
だから困る。
「お嬢様」
隣の机で聞き取り記録を整理していたミナが、筆を置いた。
「何?」
「そろそろ帰りませんか」
「あと少しよ」
「その『あと少し』を、私は何百回も聞いてきました」
「今日は本当に少しなの」
「具体的には?」
「この保証制度のところだけ整理したら」
「何頁ございます?」
「……七頁」
「それは少しではありません」
「読むだけならすぐよ」
「読むだけで終わらないでしょう」
否定しようとして、できなかった。
ミナは長年の経験から分かっている。
エレナは資料を読むと、気になる箇所へ印をつける。
印をつけると関連資料を探す。
関連資料を探すと、今度は数字を確認したくなる。
気づけば日が変わっている。
以前なら、それでよかった。
今は良くないらしい。
「契約時間は?」
突然、背後から声がした。
エレナが振り返ると、会議室の入口にルシアンが立っていた。
「……殿下」
「質問に答えろ」
「まだ少しくらいは」
「時刻を聞いている」
壁の時計を見る。
午後六時十二分。
契約上の勤務終了は五時だった。
「一時間ほど過ぎておりますね」
「ほど、ではない。一時間十二分だ」
「細かいですね」
「君に言われたくない」
ルシアンは部屋へ入り、机の上を見た。
「これは何だ」
「今日戻ってきた意見です。小規模商人から三件、大商会から二件、倉庫業者から――」
「内容を聞いていない。なぜ今読んでいる」
「明日の会議で使いますので」
「明日の朝読めばいい」
「朝になってからでは、修正案まで間に合わないかもしれません」
「なら会議で修正すればいい」
「事前に考えられることは考えておいたほうが効率的です」
「君は昨日、『一人で正解を抱え込まない』と話していたはずだが」
エレナは黙った。
言った。
確かに言った。
「それとこれとは――」
「同じだ」
「少し違います」
「どう違う」
「これは私の担当部分です」
「だから全部自分で仕上げる?」
言い返しかけて、エレナは口を閉じた。
図星だった。
ルシアンは机の端に置かれた七頁の意見書を取った。
「ゲオルグへ回せ」
「保証制度は税務だけではありません」
「ならヨハンにも回す」
「明日までに読めるか分からないでしょう」
「それを決めるのは彼らだ」
「ですが」
「エレナ」
声が少し低くなった。
怒鳴ってはいない。
それでも、普段の軽口とは違う。
「君を雇ったのは、君一人で五人分働かせるためではない」
エレナは視線を逸らした。
「五人分も働いているつもりはありません」
「自覚がないのが一番困る」
「殿下までミナのようなことを」
「ミナが正しい」
「殿下」
「私は雇用主だ。君が契約時間を守らないなら止める責任がある」
「働きたい人間まで止めるのですか?」
「働きたいことと、働かせてよいことは別だ」
どこかで聞いたような言い方だった。
エレナが黙っていると、ルシアンは机の上の紙を一枚ずつまとめ始めた。
「何をなさっているのです?」
「今日は終わりだ」
「まだ署名していない資料が」
「明日」
「この一覧だけでも――」
「明日」
「殿下、命令する権限は契約時間内の――」
「では命令ではない」
ルシアンは最後の紙を閉じ、革紐を結んだ。
「頼むから帰れ」
その言葉だけ、少し違って聞こえた。
エレナは反論を飲み込んだ。
「……分かりました」
ミナが隣で、あからさまにほっとしている。
「ミナ」
「何も申し上げておりません」
「顔が言っているわ」
「お嬢様のお顔ほどではございません」
最近、誰も彼も遠慮がない。
◇
大使館を出たところで、エレナは一つ問題に気づいた。
「夕食の時間に間に合わないわね」
公爵邸へ戻れば、料理人たちは当然食事を用意してくれる。
ただ、今から帰ればかなり遅くなる。
「それなら食べて帰れ」
隣を歩いていたルシアンが言った。
「殿下も?」
「ああ」
「大使館で召し上がるのでは?」
「今日は予定がない」
「また昼食のときのような食堂ですか」
「嫌か?」
「いいえ。ただ、王子殿下が随分気軽だと思いまして」
「高級店だと、店側が準備に一時間かける。腹が減っているときには不向きだ」
「非常に合理的ですね」
「君にそう言われると、少し嫌だな」
大使館から歩いて数分のところに、小さな食堂があった。
市場の店より静かだが、貴族向けでもない。近隣の役人や書記官が使うらしく、壁には簡素な木棚があり、香草と焼いた肉の匂いが漂っている。
ルシアンは慣れているらしく、店主から軽く頭を下げられただけだった。
「殿下、よくいらっしゃるのですか?」
「月に何度か」
「護衛の方は?」
「外の席だ。食事を取らせている」
「なるほど」
エレナとミナ、ルシアンは奥の卓についた。
ミナは最初遠慮しようとしたが、エレナが「あなたも朝から一緒だったでしょう」と言うと素直に座った。
注文したのは鶏肉と根菜の煮込み、黒パン、焼いた玉葱。
豪華ではない。
けれど、湯気と香草の匂いを嗅いだ途端、エレナの胃が正直に反応した。
「……お腹が空いていたみたい」
ルシアンが呆れた顔をする。
「今気づいたのか」
「仕事中はあまり感じないのです」
「それを異常と言う」
「そこまで?」
「そこまでだ」
ミナが力強く頷いている。
「二対一は卑怯です」
「多数決ではない」
「では何です?」
「君の健康問題だ」
煮込みが運ばれてくる。
匙を入れると、柔らかく煮えた鶏肉が簡単に崩れた。塩気は控えめで、香草の匂いが強い。
エレナは一口食べて、思っていた以上に身体が冷えていたことに気づいた。
「美味しいですね」
「だろう」
「殿下が作ったわけではないのに誇らしそうですね」
「良い店を知っていることも能力だ」
「外交能力ですか?」
「人生能力だ」
「初めて聞きました」
少し笑う。
仕事の書類が手元にない食事は、まだ妙な感じがする。
以前なら、夕食を取りながら翌日の予定を聞き、食後すぐ執務室へ戻っていた。
「今日、なぜあそこまで残りたかった?」
ルシアンが唐突に尋ねた。
「明日の準備です」
「それは聞いた。なぜ今日中に終わらせないと落ち着かない」
エレナは匙を止めた。
「質問が細かいですね」
「昨日まで君に制度の裏を散々聞かれたから、真似している」
「仕返しですか」
「半分は興味だ」
「残り半分は?」
「雇用主としての確認」
エレナは少し考えた。
理由など単純だと思っていた。
仕事があるからやる。
間に合わなければ困るから先にやる。
しかし、ルシアンが聞いているのはそこではない。
「……人に任せて、もし間に合わなかったら嫌なのだと思います」
「誰が困る?」
「皆でしょう」
「君も?」
「もちろん」
「それだけか?」
しつこい。
少し腹が立つ。
だが、今日までのルシアンは、エレナが答えたくないことへ無理に踏み込まなかった。
だから少しだけ考えてみる。
「父が亡くなったあと」
自分でも意外なところから言葉が出た。
「私が王宮の仕事をかなり引き受けるようになりました」
「聞いている」
「弟は公爵位を継いだばかりでした。領地のことだけでも大変だったし、王家との昔の問題まで負わせたくなかった」
「だから君が先回りした」
「ええ」
エレナはパンを少しちぎった。
「最初は、誰かに任せるより自分でやったほうが早かったのです。それに失敗されれば、結局私が後から直すことになる。それなら最初から自分で、と」
「分かりやすい罠だな」
「罠?」
「有能な人間ほど落ちやすい」
エレナが眉を寄せると、ルシアンは続けた。
「一度自分でやれば早い。二度目も自分でやる。そのうち周囲は、その人がやるものだと思う。本人も、自分がやらないと回らないと思い始める」
「……耳が痛いですね」
「私も似た経験がある」
「殿下が?」
「第二王子だからな」
ルシアンは水を飲んだ。
「兄が王太子に決まったあと、私は『兄ができないことをする』のが自分の役目だと思っていた時期がある」
「以前、市場でもおっしゃっていましたね。外へ出ろと言われた、と」
「ああ。ただ、最初のころは父に言われたからではなく、自分で勝手に張り切っていた」
「意外です」
「またそれか」
「殿下は昔から落ち着いていらしたように見えるので」
「十八のころは、かなり面倒だったぞ」
「どのように?」
「兄が内政会議へ出るなら、私は外交書を三倍読む。兄が騎士団視察へ行けば、私は国境砦を五つ回る。兄が十の仕事をするなら、自分は十五やらなければ価値がないと思っていた」
「……少し分かります」
「だろう?」
そこでルシアンは笑った。
「ある日、国境視察から戻った直後に倒れた」
「殿下が?」
「高熱だ。しかも翌日に外国使節との会談があった」
「大変だったでしょう」
「私ではなく周囲がな」
その言い方に、エレナは何も言えなくなった。
「そのとき兄に言われた。『お前が倒れて予定が全部崩れるなら、それは支えたことにならない』と」
「厳しいですね」
「寝台の横で言うことではないと思った」
「でも正しい」
「腹が立つほどな」
二人とも少し笑った。
「それから少しずつ、人へ任せるようになった。今でも得意ではない」
「殿下も?」
「今日、君を止めたあと、自分の執務室へ戻って仕事をしようとしてハインツに追い出された」
エレナは思わず笑ってしまった。
「人のことを言えないではありませんか」
「だから一緒に食事をしている」
「まさか私を止めた手前、働けなくなったのですか?」
「その通りだ」
「それは少し面白いですね」
「笑うな」
「無理です」
ミナまで笑っている。
ルシアンは不満そうだったが、その表情もどこか楽しそうだった。
しばらくして、エレナは父の手紙のことを話した。
詳しい政治的内容までは言わない。
ただ、父が亡くなる前に残した手紙が見つかったこと。
そこに「家とは一人が背負うものではない」と書かれていたこと。
自分が父の借りを返す必要はないと、本人から書かれていたこと。
「読んだとき、どう思った?」
ルシアンが尋ねる。
「腹が立ちました」
「悲しい、ではなく?」
「両方です」
エレナは少し笑った。
「生きているうちに言ってほしかった。私は八年も、自分が引き継がなければならないと思っていたのですから」
「手紙を書く人間は、自分が死んだあと相手がどう読むかまでは見られないからな」
「だから困ります」
「でも、読めてよかった?」
エレナは少し考えた。
「……ええ」
あの手紙がなくても、王太子との婚約へ戻るつもりはない。
王宮の仕事も以前と同じ形では受けない。
それはすでに自分で決めていた。
けれど、父の言葉は心の奥に残っていた見えない義務を一つ外してくれた。
「弟にも怒られました」
「何を?」
「守るために何も知らせなかったことを」
「正しいな」
「殿下、そこは少しくらい私の味方をしてください」
「正しい相手が弟なら弟の味方をする」
「雇用主なのに?」
「仕事と関係ない」
エレナは呆れた顔をしたが、内心では少し安心していた。
自分の話を聞いたからといって、何でも肯定する人ではない。
それがいい。
「殿下は、お兄様を支えるのが嫌になったことはありませんか?」
今度はエレナから尋ねた。
ルシアンは少しだけ目を細めた。
「ある」
答えは早かった。
「今でも時々ある」
「今も?」
「ああ。兄が失敗すれば、私は外交で説明しなければならないこともある。逆に私の失敗を兄が国内で処理することもある。家族であり、王族であり、仕事仲間でもあるから、綺麗に分けられない」
「面倒ですね」
「かなりな」
「でも続けている」
「自分で選んだからだ」
その一言が、エレナの胸へ静かに残った。
「父に言われたから始めた役目でも、途中から自分で選び直せる」
ルシアンはそう続けた。
「嫌ならやめてもいい。続けたいなら続けてもいい。誰かに与えられた役目だからといって、一生その理由まで借り物である必要はないだろう」
エレナは返事をしなかった。
王太子妃候補。
黒衣役。
公爵令嬢。
姉。
そのどれも、自分で生まれる前から選んだものではない。
しかし、これからどうするかは選べる。
「……殿下」
「何だ」
「今日は少し良いことをおっしゃいましたね」
「少し?」
「褒めすぎると調子に乗りそうなので」
「評価が厳しいな」
「一か月の試用期間中ですので」
「まだそれを言うか」
食事が終わるころには、店内の客もずいぶん減っていた。
外へ出ると、夜気はかなり冷たい。
王都の通りには灯りが点り、濡れていた石畳がところどころ白く乾き始めている。
「公爵邸まで送る」
ルシアンが言った。
「必要ありません」
「夜だ」
「護衛がおります」
「知っている」
「ではなぜ?」
「話の続きがしたい」
あまりにも自然に言われ、エレナは一瞬返事に詰まった。
「仕事の?」
「今は仕事を禁止したはずだ」
「……では何を話すのです?」
「何でもいい」
何でもいい。
その言葉に、妙な違和感があった。
アレクシスと過ごした十年間、二人きりの時間でさえ話題には目的があった。
翌日の式典。
誰へ挨拶するか。
どの貴族の機嫌を取るか。
王女の問題。
外交。
結婚後の予定。
何でもいいから話す、という時間は、いつからなくなっていたのだろう。
「では」
エレナは少し考えた。
「殿下は甘いものがお好きですか?」
ルシアンが目を瞬かせた。
「随分普通の質問が来たな」
「何でもいいとおっしゃったので」
「嫌いではない。だが甘すぎるものは苦手だ」
「私もです。蜂蜜は好きですが、砂糖菓子はあまり」
「朝食に蜂蜜をかけると聞いた」
「どこから?」
「ミナ」
エレナが振り返る。
ミナは後ろで、何も知りませんという顔をしている。
「あなた」
「朝食のお話をしただけでございます」
「いつ?」
「先ほど、お嬢様がお手洗いへ立たれたときに」
「短時間で何を話しているの」
「健康管理についてです」
ルシアンが笑う。
「君の周囲は君をよく見ているな」
「見すぎです」
「大事にされているということだ」
その言葉に、エレナは反論しなかった。
以前なら、必要とされていることと大事にされていることを同じだと思っていたかもしれない。
今は少し違いが分かる。
仕事をしなくても食事を気にされる。
何も片づけなくても眠るよう言われる。
失敗しても、能力がなくなったとは言われない。
それがたぶん、大事にされるということなのだろう。
公爵邸の門が見えてきた。
「明日は九時からだな」
ルシアンが言う。
「はい」
「八時半には来るなよ」
「なぜ分かったのです?」
「君ならやる」
「資料を少し確認したいので」
「九時から確認しろ」
「殿下」
「契約だ」
強い。
エレナは諦めた。
「分かりました。九時に参ります」
「よろしい」
「でも殿下も、その前に仕事を始めないでください」
「私まで?」
「自分だけ働くのは不公平でしょう」
「同じ条件が公平とは限らないと昨日言っていたな」
「そういうところだけ覚えていらっしゃるのですね」
「便利だからな」
エレナは笑ってしまった。
門前で別れる。
屋敷へ入る直前、振り返ると、ルシアンはまだそこにいた。
「殿下?」
「何だ」
「お帰りにならないのですか?」
「君が門へ入るのを見てから帰る」
「護衛がおりますよ」
「知っている」
「過保護では?」
「雇用主としてだ」
「仕事時間外ですが」
言い返すと、ルシアンが少し困ったように笑った。
「では、知人として」
エレナは返す言葉を探した。
友人、とまではまだ言わない。
知人。
それくらいの距離が今はちょうどいい。
「それなら、ありがとうございます」
エレナは今度こそ門をくぐった。
背後から馬車が動き出す音が聞こえる。
自室へ戻ると、机の上には大使館から持ち帰った資料が置かれていた。
習慣で手を伸ばしかける。
途中で止めた。
「ミナ」
「はい」
「この資料、明日の朝まで見えないところへ置いて」
ミナの顔がぱっと明るくなった。
「承知いたしました」
「そこまで喜ぶ?」
「大変な進歩ですので」
「また子供みたいに扱って」
「では、お嬢様」
「何?」
「今夜は何をなさいます?」
エレナは答えに詰まった。
仕事をしない夜。
以前なら考えたこともない。
「……本でも読むわ」
「外交資料以外でお願いいたします」
「分かっているわよ」
「恋愛小説などいかがです?」
「それは却下」
「なぜです?」
「今は少し面倒だから」
ミナは何か言いたそうだったが、珍しく黙った。
エレナは棚から昔好きだった旅行記を取り出した。
仕事ではない。
誰かのためでもない。
ただ読みたいから読む。
それだけの夜が、少しずつ増えていくのかもしれない。
自分が倒れないことまで含めて仕事なのだと、今日ルシアンは言った。
正確には、そこまで直接は言っていない。
けれど、たぶん意味は同じだ。
誰かを支えるために、自分を使い切ってはいけない。
それを身につけるには、まだ時間がかかりそうだった。
けれど少なくとも今夜、エレナは机の上の仕事へ手を伸ばさずに済んだ。




