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第14話 同じ条件なら公平、とは限りません

 五か国通商協議の新しい試案を作る会議は、開始から二十分で早くも行き詰まっていた。


「ですから、税率は統一したほうがいいのです」


 税務分析担当のゲオルグが、机の中央へ置かれた一覧表を指で叩いた。


「国ごと、品目ごと、経路ごとに数字を変えるから不正も抜け道も増える。商人にとっても、どこを通ればいくら払うのか分かりにくい。五か国すべて同率にすれば、少なくとも制度は明快になります」


「明快にはなります。でも公平とは限りません」


 向かいに座るエレナが答えると、ゲオルグの眉間に皺が増えた。


「またその話ですか」


「まだ結論が出ておりませんので」


「昨日の市場調査だけで、半年間検討してきた統一税率案を捨てるおつもりですか?」


「昨日だけではありません。これまでの資料と、昨日聞いた話を合わせて考えています」


「しかし商人は当然、自分が払う税を安くしてほしいと言うでしょう」


「その通りです。だから彼らの希望をそのまま制度にするとは言っていません」


 窓の外では、小雨が大使館の石壁を濡らしていた。


 会議室にはエレナ、ルシアン、ゲオルグ、ヨハン、メリア、ティアナが集まり、昨日の聞き取り結果をもとに、初めて具体的な制度案へ踏み込もうとしている。


 問題は、最初の一歩から意見が割れたことだった。


 ゲオルグは統一を重視する。


 税率、申請方式、商人資格をできる限り五か国で揃えれば、制度は簡潔になり、管理もしやすい。


 理屈は分かる。


 むしろエレナも、最初に資料だけを読んでいたなら同じ方向へ傾いたかもしれない。


 しかし今は、そう単純には考えられなかった。


「一つ、例を出しても?」


「どうぞ」


 ゲオルグの返事には、すでに反論する気配が満ちている。


 エレナは地図を引き寄せた。


「このノルディアの商人が、自国からレーヴェルト東港まで商品を運ぶとします」


「はい」


「国境を二度越え、街道を使い、最後に港へ入る。一方でセルファの商人は、自国の港から直接船へ積める」


「だから?」


「同じ税率でも、支払う回数が違います」


「そのために通行回数を減らす協定も検討しています」


「でも、街道維持費までゼロにはできない」


「当然です」


「なら、『全員同じ率だから公平』ではなく、『必要な負担はする。ただし一つの取引で際限なく重ならない』仕組みのほうがよいのでは?」


 ゲオルグはすぐには答えなかった。


 代わりに紙へ数字を書き始める。


「負担上限を設ける、ということですか」


「案の一つです」


「それでは大量に荷を運ぶ商人ほど得をする可能性があります」


「だから取引額や重量まで含めて調整する必要があります」


「結局、複雑になるではありませんか」


「そうですね」


 エレナがあっさり認めたため、ゲオルグが顔を上げた。


「……そこは否定なさらないのですか」


「複雑だから悪い、という話でもありません。商売そのものが違うのに、数字だけ一つへ揃えれば、見た目だけ綺麗な制度になるでしょう」


「制度は綺麗なほうが管理しやすいのです」


「人間が制度に合わせて商売しているのではなく、商売を回すために制度があるのでは?」


 少し強い言い方になった。


 ゲオルグも引かなかった。


「理想論です。例外を増やせば、役人の裁量も増える。不正も増えます。昨日あなた自身が、関所での非公式手数料を問題視したでしょう」


 その指摘には、エレナもすぐに反論できなかった。


 正しい。


 現場事情へ配慮しすぎれば、今度は判断の余地が増え、その隙間を利用する者が出る。


「……そこは問題ですね」


「では統一のほうがよい」


「いえ。それもまだ早いです」


「公爵令嬢」


「何です?」


「あなたは時々、議論を終わらせる気があるのか分からなくなる」


「ありますよ。間違ったところで終わらせたくないだけです」


 ヨハンが小さく咳払いし、笑いを隠した。


「二人とも、そのまま続けても午後まで税率だけで終わりそうです」


「それは困るな」


 ルシアンがようやく口を挟んだ。


 彼は先ほどからほとんど発言せず、二人のやり取りを聞いていた。


「なら、一度『同じにするもの』と『同じにしないもの』を分けたらどうだ」


 エレナとゲオルグが同時に彼を見る。


「何を統一したい?」


 ルシアンがゲオルグへ尋ねた。


「税率そのものです」


「なぜ?」


「分かりやすさと不正防止のためです」


「エレナは?」


「同じ目的なら、必ずしも税率まで同一でなくてよいと思います」


「では何を同じにする」


 問われて、エレナは少し考えた。


「……原則でしょうか」


「原則?」


「例えば、同じ荷物に同じ種類の税を二重三重に課さない。税の計算方法を公開する。例外を設ける場合は理由と期限を明示する。誰が判断したか記録する」


 ゲオルグの表情がわずかに変わった。


「数字ではなく、決め方を統一する?」


「ええ」


 エレナは自分で口にしながら、考えを組み立てていく。


「税率まで全部同じにしようとするから、各国が自国の事情を理由に反対する。でも、『どういう条件なら税を変えてよいか』を共通化すれば、国ごとの違いを残しながら透明性は上げられるのでは?」


 メリアが身を乗り出した。


「例えば港湾国なら、港の維持費を理由に追加料金を設けることは認める。ただし金額と算定根拠を公開する、と?」


「そうです」


「内陸国は?」


「通過する国が多い分、一取引あたりの総負担が一定額を超えないよう上限を決める」


 ゲオルグが再び紙へ数字を書き始めた。


「共通原則と、各国ごとの補正条件……」


「補正条件には期限をつけるべきですね」


 ヨハンが言った。


「一度認めた例外が永遠に残れば、また今と同じになります」


「三年ごとに見直すとか」


 ティアナが続ける。


「見直しの際は、例外措置によって実際に何が変わったか報告させる」


「いいですね」


 エレナは頷いた。


 議論が、ようやく一つの方向へ動き始めた。


     ◇


 午前の終わりまでに、試案は大きく三つの柱へ整理された。


 一つ目は、申請書式と基本情報の共通化。


 商人が国境を越えるたび、同じ氏名、住所、商会登録番号を書き直す必要をなくす。五か国共通の登録票を一度作れば、有効期間中は各関所でそれを利用できるようにする。


 二つ目は、通行税と港湾使用料に「共通原則」を設けること。


 税率そのものは各国の事情に応じて一定範囲で違いを認める。


 ただし、計算式と根拠は公開する。


 同一取引に対する重複徴収は制限する。


 内陸国の商人については、複数国を通過する場合の総負担に上限を設ける。


 三つ目は、例外措置の透明化。


 特別税率や優遇措置を認める場合は、対象、理由、期間を公開し、三年ごとに見直す。


「問題は商人資格ですね」


 ティアナが新しい紙を出した。


「昨日の聞き取りでは、小規模商人が一律保証金を恐れていました」


「でも資格制度を各国に残せば、ヴァルツの保証人制度もそのまま残る」


 ヨハンが言う。


「そこをどうするかだな」


 ルシアンがエレナを見る。


 期待されている気がして、エレナは少し嫌だった。


「なぜ私を見るのです?」


「今まで一番楽しそうに制度を壊していたからだ」


「壊していません。組み直しています」


「似たようなものだ」


「全然違います」


 そう返しながらも、エレナは資料を引き寄せた。


「資格自体は共通化したほうがいいと思います」


 ゲオルグが眼鏡越しに見る。


「今度は統一に賛成するのですか」


「必要なところは」


「随分都合がいい」


「制度とはそういうものでは?」


「あなたは本当に税務官向きではありませんね」


「褒めています?」


「半分ほど」


 最近、大使館内でこの言い回しが流行り始めている気がする。


「ただし、共通資格を取るための保証金を一律にはしません」


 エレナは続けた。


「取引規模に応じて段階を作る」


「昨日、自分で『規模を小さく見せる商人が出る』と言っていましたよね」


 ゲオルグは容赦がない。


「言いました」


「なら駄目では?」


「売上額そのものではなく、保証対象額で区分できませんか?」


「どういう意味です」


「保証人制度の目的は、商人が逃亡した場合に相手方の損害を埋めることですよね」


「原則は」


「なら、年間売上ではなく、一度に扱える信用取引額へ上限を設ければいい。小額の取引しかしない商人に、大商会と同じ保証金を求める必要はないでしょう」


 ゲオルグの筆が止まった。


「資格に段階をつける?」


「例えば三段階。小規模、中規模、大規模。それぞれ保証額と取引上限を設定する」


 メリアが頷く。


「船舶許可でも似た仕組みがあります。船の大きさで保険額が違いますから」


「それを商人資格へ応用する」


 ヨハンが紙へ書き込む。


「ヴァルツの保証人制度は?」


「段階的に共通保証制度へ移します」


 エレナはそこで少し言葉を選んだ。


「いきなり廃止すれば、組合側は絶対に反対するでしょう。過去の詐欺事件という理由もある。だから最初の一年は並存を認めて、共通制度を使う商人には保証人を不要とする。実績が出れば、利用者は自然に移るかもしれません」


「組合の既得権を正面から奪わない」


 ルシアンが言う。


「完全に守るわけでもありません」


「嫌らしい案だな」


「外交上の褒め言葉として受け取ります」


「もちろんそのつもりだ」


 エレナは紙へ視線を戻した。


 悪くない。


 少なくとも昨日までよりは、ずっと現実に近い。


 ただ、何かが引っかかる。


「……待ってください」


 ゲオルグが言った。


「この案だと、各国が独自補正を設ける余地がかなり残る」


「ええ」


「三年ごとの見直しまで認めるなら、結局各国が自分に都合よく例外を積み上げる可能性があります」


「だから公開を――」


「公開されていても、合法なら止められません」


 エレナは口を閉じた。


「例えばレーヴェルトが『港維持費』という名目で高い追加料金を設定する。数字の根拠も形式上は出す。しかし実際には外国商人を締め出す水準だった場合、どうします?」


「五か国共同で審査する?」


「それでは主権への干渉だと反対されるでしょう」


 正しい。


 また穴があった。


 エレナは少し悔しくなった。


「やっぱり、ある程度の上限値は共通で決める必要がありますね」


「ようやく私の案へ戻ってきましたか」


「全部ではありません」


「意地ですか?」


「違います」


「少しは意地でしょう」


「……少しは」


 認めると、ゲオルグが初めて笑った。


「安心しました。公爵令嬢も普通に意地を張るのですね」


「何だと思っていたのです」


「議論に勝つためなら自分の最初の意見すら平気で捨てる人かと」


「それは褒められているのか怖がられているのか分かりませんね」


「両方です」


 ルシアンが横から言った。


「殿下は参加しなくて結構です」


「雇用主なのに?」


「今はゲオルグと話しています」


「扱いが雑だな」


 そのやり取りで場が少し緩み、エレナも頭を切り替えた。


「ではこうしましょう」


 新しい紙を取る。


「税率そのものを完全統一するのではなく、共通の上下限を決める。その範囲内なら各国が事情に応じて設定できる」


「例えば基準税率を一とした場合、八割から一・二倍まで?」


「そういう形です。上限を越える例外を設ける場合だけ、五か国へ理由を通知する」


「承認までは求めない?」


「最初から承認制にすると通らないでしょう。でも通知義務なら受け入れられる可能性があります」


 ゲオルグはしばらく考え、やがて頷いた。


「それなら、少なくとも際限なく上げるのは難しくなる」


「例外には期限もつける」


「三年は長い。最初は一年でいい」


「一年ごとに見直すと事務負担が増えすぎませんか?」


「最初の制度なら、むしろ短いほうがいい。問題が出たまま三年放置するほうが危険です」


「……そのほうがいいですね」


 また修正する。


 以前なら、ここまで他人に赤を入れられることを不快に思ったかもしれない。


 今は、不思議と気にならない。


 自分の案が削られ、変えられ、別の人間の知識が足されるたび、最初より強くなっていく。


 仕事とは本来、こういうものなのかもしれない。


 自分の有能さを証明するための場所ではなく、結果を良くするための場所。


     ◇


 午後になり、ようやく一枚の試案が形になった。


 ティアナが清書した文書には、最上部に仮の題名が記されている。


 ――五か国共通通商原則及び補正制度案。


「名前が堅いですね」


 メリアが言った。


「外交文書ですから」


 ティアナが返す。


「もっと商人に分かりやすい名前でもいいのでは?」


「正式名称と通称を分けましょう」


 エレナは言った。


「例えば『共通通商票』とか」


「申請制度の名前に聞こえます」


「では『五国通商枠組み』」


「少し大げさですね」


「名前はあとにしましょう」


 ゲオルグが疲れた顔で言った。


「今日は数字だけで十分です」


「珍しく意見が一致しました」


「何です、その言い方は」


 しかし、彼も少し笑っていた。


 ルシアンが完成した試案を最初から読み直す。


「一つ確認する」


「何でしょう」


「この案は、どの国にも完全には満足されないな」


「はい」


 エレナは迷わず答えた。


「ノルディアはもっと通行税を下げてほしいでしょうし、港湾国は維持費負担を増やしたい。ヴァルツ商業組合は保証人制度を残したがるでしょう」


「それでいいのか?」


「誰か一国だけが大喜びする制度なら、たぶん別の国が損をしています」


 ルシアンは試案をもう一度見た。


「君らしいな」


「どこがです?」


「全員が少しずつ不満になるところへ持っていく」


「以前もおっしゃいましたね。外交では褒め言葉だと」


「覚えていたか」


「仕事のことはよく覚えています」


「仕事以外は?」


「何の話です?」


「何でもない」


 ルシアンはそれ以上言わなかった。


「では、これを次回協議へ出す前に各担当部署へ回す。問題点を洗い出してもらおう」


「その前に」


 エレナが止める。


 ルシアンがこちらを見る。


「まだあるのか?」


「あります」


「何だ」


「現場側に見せたいです」


「商人へ?」


「全部ではなく概要だけです。昨日話を聞いた方々や、ほかの小規模商人、大商会、港湾業者。それぞれに、自分たちならどこが困るかを聞いておきたい」


 ゲオルグが呆れたように眼鏡を押し上げた。


「また修正するつもりですか」


「必要なら」


「いつ完成するのです?」


「完成してから間違いが見つかるよりはよいでしょう」


「公爵令嬢」


「はい」


「あなたは本当に、一度出した案へ愛着がないのですね」


 エレナは少し考えた。


「ありますよ」


「なら、なぜそんなに簡単に変えるのです?」


「案が可愛いからでしょうか」


 ゲオルグが意味を測りかねた顔をする。


「どういうことです」


「間違ったまま世に出して嫌われるより、出す前に直してあげたいのです」


 一瞬の沈黙のあと、メリアが吹き出した。


 ティアナも笑う。


「なるほど。そういう愛情ですか」


「今、我ながら少し変なことを言ったと思っています」


「珍しいですね」


「忘れてください」


「記録官なので覚えておきます」


「議事録には書かないで」


 会議室に笑いが広がった。


 エレナも笑いながら、完成したばかりの試案へ目を落とす。


 昨日までの自分なら、完成という言葉を使ったかもしれない。


 今はまだ、そう思わない。


 これはただの最初の形だ。


     ◇


 夕方、会議が終わったあとも、エレナは一人で席に残っていた。


 他の職員たちはそれぞれの部署へ戻り、ルシアンも一度別の会議へ出ている。


 机の上には、今日作った試案と市場で取った聞き取りメモが並んでいた。


 同じ条件なら公平。


 その考えは一見分かりやすい。


 けれど、背負っている荷物も、通る道も、持っている金も違う者へまったく同じ条件を押しつければ、弱い者から先に動けなくなることもある。


 では特別扱いすればいいのかといえば、それも違う。


 誰かだけに見えない例外を与えれば、不信と癒着が生まれる。


 必要なのは、違いを認めながら、違いを隠さないことなのだろう。


「まだいたのか」


 声に顔を上げると、ルシアンが扉のところに立っていた。


「資料を整理していました」


「契約時間は終わっている」


「分かっています」


「昨日、何と言った?」


「仕事をするな、でしたね」


「その翌日に破るのか」


「これは仕事というより考え事です」


「便利な言い訳だな」


 ルシアンは部屋へ入り、エレナの向かいの椅子を引いた。


「帰れ」


「殿下は?」


「私も帰る」


「本当に?」


「その疑い方は何だ」


「大使館の方から、殿下も夜遅くまで残ることが多いと聞きました」


「誰だ、余計なことを教えたのは」


「皆様です」


「大使館全体が敵に回った気分だな」


 エレナは紙をまとめ始めた。


「では一緒に帰りましょう」


「公爵邸まで送るという意味か?」


「いいえ。大使館の玄関までです。そこから私は馬車、殿下はご自分のお部屋へ」


「ずいぶん短い同行だ」


「それで十分でしょう」


 二人で廊下を歩く。


 窓の向こうはすでに薄暗く、雨は止んでいた。濡れた庭石に灯りが映り、昼間とは違う静かな大使館になっている。


「今日のゲオルグとの議論」


 ルシアンが歩きながら言った。


「何です?」


「楽しかったか?」


「楽しいという言葉が適切かは分かりませんが、面白かったです」


「怒っているようにも見えた」


「少しは腹が立ちました」


「認めるのだな」


「自分の案へ穴を開けられれば、多少は」


「でも変えた」


「正しい指摘でしたから」


「王宮でもそうだったのか?」


 エレナは歩く速度を少し落とした。


「……王宮では、私へそこまで言う人が少なかった気がします」


「なぜ?」


「私が王太子殿下の婚約者だったからかもしれませんし、皆が忙しすぎて議論する時間がなかったのかもしれません。あるいは、私自身が『もう決めました』という顔をしていたのかも」


「していそうだな」


「否定してくださらないのですね」


「今の君でも十分している」


「そんなに?」


「ああ。ただ今は、言えば聞く」


 エレナは少し笑った。


「それなら、前よりましですね」


「かなり」


 玄関へ着く。


 公爵家の馬車はもう回されていた。


 エレナが外套を受け取ると、ルシアンが言った。


「今日の案、私は悪くないと思う」


「珍しく素直に褒めますね」


「ただし、まだ穴はあるだろう」


「でしょうね」


「明日また壊すか」


「組み直すのです」


「そこは譲らないな」


「言葉は大事ですから」


 エレナは外套を羽織り、馬車へ向かいかけた。


 その背中へ、ルシアンの声が届く。


「エレナ」


「はい?」


「全員へ同じものを与えることが公平ではない、と今日言っていただろう」


「ええ」


「人間関係も同じかもしれないな」


 思いがけない言葉だった。


「どういう意味です?」


「分からないなら、今はそれでいい」


「殿下」


「仕事の話ではないから、説明する義務もない」


 昼間、自分が使っている理屈をそのまま返された。


 エレナは少しだけ眉を寄せた。


「そういう使い方をなさいますか」


「便利な言葉だからな」


「狡いですね」


「外交官だから」


 さらに以前の言葉まで返され、エレナはとうとう笑った。


「では、明日」


「ああ。明日は現場の反応を見る」


「また案が壊れるかもしれませんよ」


「なら組み直せばいい」


 今度はルシアンがそう言った。


 エレナは一瞬だけ目を見開き、それから頷いた。


「その通りです」


 馬車へ乗り込む。


 走り出した車内で、エレナは膝の上の鞄へ手を置いた。


 今日一日で、最初の案は何度も変わった。


 それでも、不思議と失敗した気はしなかった。


 誰かと意見が違うことも、相手に訂正されることも、自分の考えを変えることも、仕事がうまくいっていない証拠ではない。


 むしろ、独りで正解を抱え込もうとしなくなった証拠なのかもしれない。


 同じ条件なら公平、とは限らない。


 そして同じやり方なら正しい、というわけでもない。


 エレナは窓の外を流れる王都の灯りを眺めながら、今日作った制度案より、そのことのほうを少し長く考えていた。


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