第13話 王太子は自分の名前で謝る
その日の午後、エレナが王宮へ到着したころには、リューデン王国との再交渉をめぐって、王太子執務室の空気はすでに二度ほど険悪になっていた。
もちろん、エレナはその場にはいなかった。
今日の彼女の契約上の仕事は王女宮の会計引き継ぎであり、リューデンとの外交問題は外務省の担当である。東門から入り、王女宮へ向かう途中にも、外務省の官吏が何人か足早に廊下を横切っていったが、エレナは呼び止めなかった。
以前なら、顔色だけで何か起きていると察し、誰かを捕まえて事情を聞いていただろう。
今日はしない。
少なくとも、正式に頼まれるまでは。
「お嬢様」
隣を歩いていたミナが小声で言った。
「今、三人ほど追いかけたそうなお顔をなさいました」
「していないわ」
「していました」
「あなたは最近、私の顔に勝手な字幕をつけるわね」
「長年のお付き合いですので」
王女宮の会計室へ入ると、昨日分類した請求書は、きちんと四つの箱へ分けられていた。
即時支払。
追加確認。
私費負担。
保留。
机の上には処理済み一覧まで置かれている。
エレナは思わず足を止めた。
「……ちゃんと進んでいる」
財務局の若手官吏が、少し誇らしげに頭を下げた。
「昨日教えていただいた手順で進めました。判断に迷ったものだけ、こちらへ残しております」
「全部私のところへ持ってこなかったのね」
「はい」
「偉いわ」
言った瞬間、相手が何とも言えない顔をした。
「公爵令嬢」
「何?」
「昨日、ご自分が同じように褒められたとき、不満そうでいらっしゃいましたよね」
ミナが横を向いた。
「笑っているでしょう」
「いえ」
「肩が揺れているわ」
エレナは少し恥ずかしくなった。
「では訂正します。よく判断できています」
「ありがとうございます。そのほうが嬉しいです」
仕事というものは、自分がいなくても進むと少し寂しく、同時にかなり安心するらしい。
以前のエレナは、その感覚を知らなかった。
王宮では、自分の机へ仕事が戻ってこなければ不安だった。今は、戻ってこないことが成功なのだと少しずつ分かり始めている。
残っていた案件を一つずつ確認し、担当者が判断した理由を聞いていく。
エレナが修正したのは三件だけだった。
以前なら、三件も間違いがあったと思ったかもしれない。
今日は、百件以上のうち三件しか戻ってこなかったことのほうを見た。
「この調子なら、来週から私が確認する件数はもっと減らせそうですね」
そう言うと、財務局の官吏がほっとしたように笑った。
「それは助かります。公爵令嬢がずっと見てくださると思うと安心ではありますが、三か月後にまた何もできなくなるのは困りますので」
「その考え方でいてください」
自分がいなくなる前提で仕組みを作る。
それは少し前までのエレナにとって、怖いことだった。
必要とされなくなることと、自分の価値がなくなることを混同していたのだろう。
今は、その二つが同じではないと分かり始めている。
ちょうど最後の帳簿を閉じたところで、会計室の扉が叩かれた。
「ヴァルハイト公爵令嬢」
入ってきたのは外務省の若い書記官だった。
顔を知っている。
何度か第三文書庫へ資料を運んできた者だ。
「何でしょう」
「外務卿閣下からの伝言でございます。もし本日の契約時間内で、かつ公爵令嬢にご負担でなければ、リューデン王国への回答文案について意見を伺いたいとのことです」
エレナは反射的に時計を見た。
まだ契約時間は一時間ほど残っている。
「正式な依頼ですか?」
「はい。こちらに書面も」
差し出された紙には、案件名、依頼内容、担当者、秘密区分まで記されていた。
そこまで整えてくるようになったことに、エレナは少しだけ驚いた。
「分かりました。ただし、王女宮の担当分を終えてから伺います」
「承知いたしました」
書記官が一礼して出ていく。
ミナが隣で呟いた。
「皆様、学習していらっしゃいますね」
「それを言うと、王宮全体が以前は学習能力のない場所みたいでしょう」
「違うのですか?」
「ミナ」
「はい」
「ここでは少し控えて」
「承知しました」
返事だけは素直だった。
◇
外務省の小会議室には、外務卿、宰相アルベルト、数人の書記官がいた。
そして、アレクシスもいる。
エレナが入ると、彼は一瞬だけこちらを見た。
「来たか」
「正式にご依頼をいただきましたので」
その言葉に、アレクシスの表情が少し複雑になる。
まだ慣れていないのだろう。
エレナも同じだ。
以前なら、この部屋に呼ばれて「依頼されたから来ました」などと言う必要はなかった。
「こちらが、リューデン王国へ送る回答案です」
外務卿が数枚の紙を差し出した。
「王太子殿下ご自身が、先ほどまでにまとめられました」
エレナの指がわずかに止まった。
「殿下が?」
「何か意外か」
アレクシスが少し不機嫌そうに言う。
「いいえ。拝見します」
余計なことは言わず、文面を読む。
最初の段落で、エレナは少し驚いた。
以前の回答とは違う。
前回は、こちらの非を曖昧に全面的に認め、「最大限配慮する」と書いてしまった。
今回の文書では、謝罪すべき点が具体的に分けられている。
港湾側の説明不足。
待機命令の伝達方法。
船員に対する一部役人の無礼な態度。
そこについては謝罪する。
しかし積荷申告の不備、検査拒否、特別許可が必要な薬草を積載していた事実については、リューデン側にも責任があると明記されていた。
「かなり変わりましたね」
エレナが言うと、アレクシスの眉が少し動いた。
「前よりはまし、という意味か」
「はい」
「……はっきり言うようになったな」
「以前から申し上げていたつもりですが」
「以前はもう少し言葉を選んでいた」
「婚約者でしたから」
それだけ言って、また文面へ視線を戻した。
最後まで読み終える。
賠償については、港で実際に発生した損害のうち、王国側の責任と認められる範囲のみを補償する。
関税引き下げや恒久的な検査簡略化は、今回の事件と切り離して別協議とする。
そこも妥当だった。
「どうだ」
アレクシスが尋ねる。
声には、評価を待つ緊張が少し混じっている。
エレナはすぐには答えなかった。
褒めればよいわけでもない。
わざと厳しくする必要もない。
今の自分は、元婚約者ではなく助言を求められた側なのだから。
「全体としては、これでよいと思います」
アレクシスがわずかに息を吐いた。
自分でも意外なほど、その反応が人間らしく見えた。
「ただし二か所、気になります」
「どこだ」
「こちらの『不当な要求には応じない』という部分です」
「事実だろう」
「事実でも、相手国へ送る文章としては喧嘩腰です。『今回の事案と直接関係のない恒久的制度変更については、別途協議を要する』くらいでよいでしょう」
「同じ意味ではないか」
「外交では、同じ意味でも言い方で次の会議の空気が変わります」
外務卿が小さく頷いた。
「私も同意見です」
アレクシスは少し不満そうだったが、文案に線を引いた。
「もう一つは?」
「最後です。『我が国は誠意をもって対応したにもかかわらず』という一文」
「それも事実だ」
「殿下」
「何だ」
「今、謝る文書ですよね?」
会議室の何人かが目を伏せた。
アレクシスはしばらくエレナを見たあと、紙へ目を落とした。
「……消したほうがいいか」
「はい。謝罪文の中で『でもこちらは悪くない』と言いたくなるお気持ちは分かりますが、それを入れると謝っているのか怒っているのか分からなくなります」
「では、こちらの責任だけ強調される」
「だから責任の範囲を前段で明確にしたのでしょう」
アレクシスは黙った。
外務卿も何も言わない。
しばらくして、アレクシスは自分でその一文を横線で消した。
「これで?」
「よいと思います」
「他には?」
「ございません」
エレナは文書を返した。
「本当に?」
「はい」
「以前なら、もっと何か言っただろう」
「殿下」
「責めているわけではない。ただ……」
アレクシスは言葉を探した。
「自分で作ると、これで足りているのか分からない」
エレナは少し意外に思った。
彼がそんなことを口にするのは珍しい。
以前なら「これでいい」と言い切っていただろう。
「足りないところは、外務省の皆様が確認なさいます」
「君ではなく?」
「私は今日たまたま助言を求められただけです」
アレクシスの顔に、またわずかな苛立ちが出た。
「そこまで線を引く必要があるのか」
「あります」
「分かっている」
彼はすぐに言い直した。
前なら、そこからもう一度反論したかもしれない。
今日は違った。
「分かっているが、慣れていないだけだ」
その言葉に、エレナは少しだけ胸を突かれた。
「私もです」
思わず、そう返していた。
アレクシスが顔を上げる。
「私も、殿下が困っていると知って何もしないことには慣れておりません」
「なら――」
「だからといって、元へ戻るという意味ではございません」
「……最後まで言わせろ」
「すみません」
外務卿が咳払いをした。
宰相アルベルトは、何も聞いていないような顔で別の資料を読んでいる。
「一つだけ聞きたい」
アレクシスが言った。
「この文書を出せば、リューデンとの関係は戻ると思うか」
「戻る、という言葉をどこへ置くかによります」
「以前の状態だ」
「それは無理でしょう」
エレナは正直に答えた。
「殿下は一度、広い譲歩を示してしまいました。相手国に期待を持たせた以上、今から条件を絞れば不満は出ます」
「では失敗は消えない」
「消えません」
アレクシスの表情が硬くなった。
「でも、失敗したあと何をするかは残っています」
「……」
「こちらの非は認める。相手の非も確認する。今後同じことが起きない手続きに変える。できるのはそれくらいです」
「それだけか」
「十分では?」
エレナは少しだけ笑った。
「私は以前、失敗を消そうとしすぎていました。誰かが失言すれば無かったことにし、王女殿下が予算を越えれば別の数字で埋める。結果として、皆様が失敗から学ぶ機会まで消していたのかもしれません」
アレクシスは何も言わなかった。
「今回の件も、うまく収めることより、次に同じ失敗をしないことのほうが重要です」
外務卿が静かに頷く。
「殿下。私もそう思います」
アレクシスはしばらく黙っていた。
やがて、机の上の最初の謝罪文を手に取った。
自分が数日前に出した文書だ。
「これを書いたとき」
彼は低い声で言った。
「私は、早く一つ片づけたかった」
誰も口を挟まなかった。
「抗議が十八通になって、使節が帰国準備を始めた。エレナはいない。周囲は皆、事実確認が必要だと言う。その間にも問題が増えていく気がして……謝れば、とりあえず相手は落ち着くと思った」
エレナには、その感覚が少し分かった。
仕事が積み上がると、とにかく一つ減らしたくなる。
ただし外交では、その焦りが新しい仕事を増やす。
「これまでなら」
アレクシスは続けた。
「私が何か言っても、そのあと問題にならなかった」
誰のおかげだったのか。
そこまで言葉にしなくても、全員分かっていた。
「だから、自分は判断が早いのだと思っていた」
その言葉には、以前の彼にはなかった苦さがあった。
「……違ったようだな」
エレナは、すぐに肯定も否定もしなかった。
ここで「そうです」と言えば、長年溜めてきたものをぶつけることはできる。
少しは気も晴れるかもしれない。
でも、それは今の仕事ではない。
「今回、殿下ご自身で文案をお作りになったのでしょう」
「ああ」
「でしたら、前回よりは確実に進んでいます」
アレクシスが顔を上げた。
「それは慰めか?」
「評価です」
「君に褒められると、なぜか素直に喜べないな」
「それは私の責任ではございません」
外務卿がとうとう小さく笑った。
空気が少し緩む。
「では、この修正で先方へ送ります」
外務卿が文書をまとめる。
「署名は殿下ご自身で」
「ああ」
アレクシスはペンを取った。
以前なら、エレナが最終文面を作り、書記官が清書し、アレクシスは最後に署名するだけだった。
今日は、自分で読んだ。
自分で直した。
自分で責任範囲を確認した。
そして署名する。
たったそれだけのことが、こんなにも違って見える。
アレクシスは名前を書き終え、紙を外務卿へ渡した。
「これで終わりではないな」
「はい」
外務卿が答える。
「先方の返答次第で、次の交渉となります」
「分かった。返答が来たら、まず事実関係を整理してから私へ持ってきてくれ」
エレナは少しだけ目を細めた。
前回とは順番が違う。
それでいい。
「エレナ」
退室しようとしたところで呼び止められた。
「はい」
「今日は……ありがとう」
一瞬、返事に迷った。
婚約者だったころ、アレクシスから感謝されなかったわけではない。
ただ、その多くは「助かった」「任せたぞ」という形で、仕事が終われば次へ進んだ。
今日は、少し違って聞こえた。
「契約時間内ですので」
エレナはわざとそう返した。
アレクシスの眉が寄る。
「そこは普通に受け取れないのか」
「では、どういたしまして」
「最初からそう言えばいいだろう」
「少し意地悪を申したくなりました」
「君はそんな人間だったか?」
「婚約者ではなくなったので、少しくらいは」
アレクシスは驚いたあと、ほんのわずかに笑った。
その笑顔を見ても、昔ほど胸は痛まなかった。
完全に何も感じないわけではない。
でも、それでいいのだと思った。
◇
その日の夕方、エレナが公爵邸へ戻ると、玄関先でミナが新聞を持って待っていた。
「ずいぶん早い号外ね」
「王宮が正式声明を出したそうです」
紙面には、リューデン王国との件について王太子名義の新たな声明が掲載されていた。
港湾側の説明不足について謝罪すること。
一方で、積荷申告違反と検査拒否については先方にも確認を求めること。
関税や検査制度の恒久変更は別途協議とすること。
エレナは立ったまま、最後まで読んだ。
「どうです?」
「外務省が少し整えたみたいね」
「そこではなくて」
「何?」
「王太子殿下です」
ミナは以前ほど露骨にアレクシスを悪く言わなくなった。
エレナが止めたからではない。
どうやら彼女なりに、主人が前を向こうとしているのを見て、感情の置き場所を変え始めたらしい。
「ご自分でお書きになったのでしょう?」
「ほとんどはね」
「では、やればできるのですね」
「最初からできない方ではないのよ」
エレナは新聞を畳んだ。
「やる必要がなかっただけ」
「お嬢様がやっていたから?」
「ええ」
口にすると、自分にも刺さった。
王太子が成長できなかった理由のすべてがエレナにあるわけではない。
しかし、自分が先回りしすぎたことも事実だ。
「それで、お嬢様は嬉しいのですか?」
「少し」
「寂しいですか?」
エレナは答えるまでに少し時間がかかった。
「……少し」
「両方ですか」
「人間なんて、そんなものではなくて?」
自分がいなくても、アレクシスは仕事をした。
その事実は嬉しい。
同時に、自分が十年間必要以上に抱えてきたことを証明されたようで、少し寂しい。
さらに、その成長を見て昔の気持ちが完全に消えたわけではないことにも気づく。
感情は、帳簿のように一つの欄へ綺麗に分類できない。
「でも」
エレナは新聞をミナへ返した。
「殿下ご自身でなさったのなら、それでよいと思うわ」
「それだけ?」
「それ以上、私が何かすることではないもの」
ミナは少し笑った。
「最近のお嬢様、それを言えるようになりましたね」
「何を?」
「『私が何とかしなくてもいい』と」
エレナは一瞬考え、それから頷いた。
「そうね」
王太子は自分の名前で謝った。
自分の失敗を、自分で直そうとした。
それは小さな一歩だ。
でも、エレナにとっても同じだった。
誰かの一歩を、自分が代わりに踏まないこと。
それもまた、新しく覚えなければならない仕事だった。




