第五章 氏照の猛攻、辛垣城攻防戦
辛垣城へ移って二年。
三田勢は険しい山々を盾に、北条の小部隊を幾度も退けながら、なおも奥多摩の山を守り続けていた。
しかし――その均衡は、永禄六年(一五六三年)、ついに破られる。
滝山城を発した北条氏照は、数千に及ぶ軍勢を率いて辛垣城へ迫った。
山の麓を埋め尽くす「三つ鱗」の赤旗は、まるで山そのものを飲み込む炎の海だった。
「放てぇ!」
綱秀の号令が尾根に響く。
狭い山道へ雨のように矢が降り注ぎ、鉄砲の轟音が谷間を震わせた。
一騎ずつしか進めぬ険路は、北条軍にとって死の一本道である。
矢に倒れた兵が坂を転げ落ち、その上へさらに後続が押し寄せる。
「今だ!」
合図とともに、崖上に備えていた巨岩と大木が一斉に突き落とされた。
轟音。
岩は兵を押し潰し、大木は列を薙ぎ払い、断末魔の叫びが深い谷へ吸い込まれていく。
天然の要害は、その牙をむき出しにして北条軍へ襲いかかった。
緒戦は三田軍の勝利だった。
北条は幾度となく攻め寄せ、そのたびに撃退される。
山は、まだ三田の味方だった。
綱秀もまた、先祖伝来の甲冑をまとい、自ら最前線へ立つ。
「恐れるな!
北条とて人だ!
この山では我らが主だ!
耐え抜け!
越後から必ず上杉様の援軍が来る!
義は我らにある!」
その声に兵たちは雄叫びを上げた。
泥と血にまみれながらも、その瞳には希望が宿っていた。
だが――。
希望は、日を追うごとに現実へ押し潰されていく。
五日。
十日。
半月。
北条軍は減るどころか、小田原から次々と増援を受け、包囲は日に日に厚くなった。
夜になれば、山を囲む敵陣の篝火が無数に灯る。
見渡す限りの赤い火。
まるで地上に星空が降りたようだった。
しかし、その光のどこにも、待ち望んだ上杉軍の白旗はない。
越後の龍・上杉謙信は、自国の統治と武田信玄との激戦に追われていた。
武蔵西端で孤立する三田氏へ兵を差し向ける余裕など、もはや残されてはいなかったのである。
城内には、静かな絶望が広がり始めた。
師岡将監が重い足取りで綱秀の前へ進み出る。
「殿……兵糧が尽きかけております。」
その声は掠れていた。
「さらに……隠し水の手も、敵に見つかったようにございます。」
綱秀は息を呑んだ。
辛垣城最大の生命線。
代々秘密に守られてきた水脈が、ついに北条の密偵に暴かれたのである。
籠城戦で水を失う。
それは敗北を意味した。
城内では喉の渇きに耐えかねた馬が狂ったように嘶き、幼い子どもたちの泣き声が夜の城へ響く。
兵たちは水筒の最後の一滴を惜しむように口へ含み、互いの顔を見つめるしかなかった。
その一方で、山の下からは北条軍の太鼓と酒宴の笑い声が夜通し聞こえてくる。
勝利を確信した敵の宴。
その賑わいは、飢えと渇きに苦しむ三田勢の心を、少しずつ、しかし確実に削り続けた。
綱秀は闇に浮かぶ敵陣の灯を見つめたまま、静かに拳を握り締める。
義だけでは、人は生きられない。
その残酷な現実が、辛垣城をゆっくりと締め上げ始めていた。




