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杣(そま)の白旗――奥多摩三田戦記――  作者: 水川仁


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第六章 裏切りと落日

激戦が始まって一か月。


辛垣城は、限界を迎えていた。


兵糧は尽き、水もない。


兵たちは木の皮を削って飢えをしのぎ、泥水をすすって命をつないでいた。


城内に漂うのは、もはや勝利への希望ではない。


静かな絶望だった。


その隙を、北条氏照は見逃さなかった。


金か。


命か。


あるいは家族の助命か。


闇の中で放たれた調略は、飢えと渇きに苦しむ人の心を少しずつ蝕んでいく。


そして――その夜。


城の東側から、突然火の手が上がった。


「謀反だ!」


「裏切り者が出たぞ!」


絶叫が夜の山へ響き渡る。


内応した家臣が、夜陰に紛れて城門の閂を外したのだ。


昨日まで肩を並べて戦っていた仲間が、自ら北条軍を城内へ導き入れた。


「……ここまで、か。」


綱秀は燃え上がる炎を見つめ、小さく息を吐いた。


信じ続けた義は、敵ではなく、味方の裏切りによって砕かれた。


その事実が、どんな刃よりも深く胸をえぐる。


崩れ落ちた搦手門から、松明を掲げた北条兵が一気になだれ込んできた。


「進めぇ!」


怒号。


金属がぶつかり合う甲高い音。


暗闇の中で白刃が乱れ飛び、敵味方の区別もつかぬまま血しぶきが舞う。


昨日まで静かだった山城は、一瞬にして修羅場へと変わった。


「殿!」


師岡将監が駆け寄る。


全身は返り血に染まり、肩口からは深い刀傷が血を流していた。


「ここは私がお引き受けいたします!」


「殿は岩槻へ!


太田資正殿のもとへ落ち延びてくだされ!」


綱秀は首を振った。


「将監、お前を置いては行けぬ!」


「ならば私もここで果てよう!」


将監は強く叫ぶ。


「三田の血を絶やしてはなりませぬ!」


「生きてください!」


「それこそが、三田の再興につながります!」


その一言に、綱秀は言葉を失った。


将監は静かに一礼すると、槍を握り直す。


「……長きにわたり、お仕えできたこと、望外の誉れにございました。」


そして振り返ることなく、炎の中へ駆け出した。


「三田の者ども!


我に続けぇぇっ!」


雄叫びが山を震わせる。


将監は次々と敵兵を斬り伏せた。


槍を払い、刀を受け、なお前へ出る。


しかし、多勢に無勢だった。


四方八方から突き出された無数の槍が、その身体を貫く。


それでも将監は倒れない。


最後の力を振り絞り、なお一人、また一人と敵を斬り伏せる。


その鬼神のような姿に、一瞬、北条兵の足が止まった。


やがて膝をついた将監は、燃え上がる辛垣城を見上げ、小さく微笑んだ。


「……殿。」


その一言を最後に、静かに息を引き取った。


その時間が、綱秀を逃がした。


「……将監。」


綱秀は唇を噛み締めた。


流れる涙を袖でぬぐい、わずかな近習だけを従えて裏山へ駆ける。


振り返れば、辛垣城は炎に包まれていた。


兵たちの叫び。


北条軍の勝ち鬨。


燃え盛る櫓。


すべてが夜空を赤く染めている。


奥多摩の尾根を越え、東へ。


闇の中をひたすら走る綱秀の耳に、多摩川の激流が響いていた。


その流れは、炎を映して赤く燃えているように見えたという。


こうして――


奥多摩に五百年近く根を張った名門・三田氏の本拠、辛垣城は陥落した。


山は残った。


だが、その山を治める者は、この夜を境に永遠に変わったのである。

【終章 岩槻の月、そして「綱秀」という名】へつづく

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