第四章 辛垣の狼
小田原から帰還して数か月。
勝沼城に戻った綱秀を待っていたのは、静かな絶望だった。
北条へ降った国衆は日に日に増え、三田領を囲む城という城に、「三つ鱗」の旗が翻り始める。
昨日まで味方だった者たちが、今日は敵として山を見下ろしている。
奥多摩は、完全に孤立した。
「殿。」
師岡将監が一枚の地図を広げる。
赤い印が、勝沼城をぐるりと囲んでいた。
「滝山城へ入った北条氏照が動き始めました。」
「氏照か。」
綱秀は静かに頷く。
北条氏康の三男。
若いながらも武勇に優れ、武蔵攻略を任された猛将である。
「周辺の国衆を次々と従えております。」
「早いな。」
「恐ろしいほどに。」
将監は苦く笑った。
「戦わずして味方を増やしております。」
綱秀は地図を見つめたまま動かなかった。
敵は、ただ兵が多いだけではない。
戦う前に勝つ。
それが北条という家だった。
・・・
数日後。
勝沼城へ一人の使者が現れた。
赤地に三つ鱗。
北条氏照の使者である。
「三田殿。」
使者は深々と頭を下げた。
「氏照様より書状を預かって参った。」
綱秀は受け取らない。
「読め。」
使者は巻物を開いた。
『今ここで降るならば、本領は安堵する。家臣も領民も傷付けぬ。だが逆らえば、山ごと焼き払う。』
静かな口調だった。
だからこそ恐ろしい。
脅しではない。
実行するという宣告だった。
読み終えた使者は顔を上げる。
「氏照様は無益な戦を望んではおられませぬ。」
綱秀は答えない。
「御返答を。」
沈黙。
やがて綱秀は書状を手に取った。
将監は息を呑む。
まさか――。
そう思った。
しかし。
綱秀は書状を火鉢へ放り込んだ。
紙が赤く燃え上がる。
火は瞬く間に文字を呑み込んだ。
「返事は、それで十分だ。」
使者の顔色が変わる。
「……後悔なされますぞ。」
「その言葉、氏照殿へ返せ。」
使者は深く一礼すると、何も言わず城を去っていった。
・・・
その夜。
評定が開かれた。
家臣たちの顔には疲労が色濃い。
「勝沼では守り切れませぬ。」
「平地が近すぎます。」
「氏照が本気で来れば、ひとたまりもない。」
誰も反論しない。
それが現実だった。
将監が静かに言う。
「殿。」
「申せ。」
「辛垣城へ移りましょう。」
部屋が静まり返る。
辛垣城。
奥多摩の山奥に築かれた天然の要害。
険しい尾根。
切り立つ崖。
狭い登り道。
攻めるには最悪の城だった。
しかし。
「勝沼を捨てよ、と。」
綱秀は静かに尋ねた。
「はい。」
将監は頭を下げる。
「今なら、まだ間に合います。」
綱秀は立ち上がった。
障子を開ける。
月明かりが庭を照らしていた。
幼い頃、父に連れられ歩いた庭。
家臣たちと酒を酌み交わした広間。
春になると桜が咲く井戸端。
勝沼城には、三田家の歴史が刻まれていた。
それを捨てる。
武士にとって、それは城を失う以上の意味を持つ。
「将監。」
「はっ。」
「負けたから山へ逃げるのではない。」
「……。」
「勝つために山へ入る。」
その一言で、家臣たちの表情が変わる。
綱秀は続けた。
「北条は平地で戦うことに慣れている。」
「ならば。」
「我らは山になる。」
誰も口を開かなかった。
その言葉が、胸に深く刺さったからである。
・・・
翌朝。
勝沼城は静かだった。
兵だけではない。
領民まで荷車を引いている。
米俵。
鍋。
鍬。
木材。
老人も。
女も。
子供も。
皆が山へ向かって歩いていた。
綱秀は驚いた。
「なぜ来る。」
村長が笑う。
「殿だけ戦わせるわけにはいきません。」
「ここに残れば命は助かる。」
「助かりません。」
老人が首を振る。
「北条様は立派なお方でしょう。」
「だが。」
「この山は三田様と生きてきました。」
若い木こりも言う。
「俺たちは山を知っています。」
「木を切る場所も。」
「水の湧く場所も。」
「岩を落とす場所も。」
綱秀は何も言えなかった。
将監が小さく笑う。
「殿。」
「皆、殿と同じ頑固者でございます。」
綱秀は照れ臭そうに鼻をかいた。
「困ったものだ。」
「ええ。」
「本当に困った領民です。」
皆が笑う。
その笑いは久しぶりだった。
・・・
辛垣城。
標高四百メートルを超える尾根に築かれた山城。
切り立つ崖。
幾重もの堀切。
狭い尾根道。
ここなら、大軍は力を発揮できない。
綱秀は山頂から眼下を見下ろす。
遥か彼方に勝沼城が見えた。
やがて。
小さく煙が上がる。
北条軍が入城したのだ。
三田家が百年以上守ってきた城は、静かに敵の手へ渡った。
「殿。」
将監が隣へ立つ。
「これで。」
「ああ。」
綱秀は頷く。
「もう戻る場所はない。」
その声に悲壮感はなかった。
覚悟だけがあった。
谷から吹き上げる風が、白旗を揺らす。
綱秀はその旗を見上げた。
「ここが三田の最後の城になる。」
誰も否定しなかった。
その場にいた全員が。
同じ未来を見ていたからである。
奥多摩の山々は静かだった。
だが、その静けさは嵐の前触れだった。
滝山城では若き猛将・北条氏照が軍勢を整え、辛垣城を見据えていた。
一方は、大軍を率いる北条。
一方は、山と共に生きる小さな国衆。
避けられぬ戦いは、すぐそこまで迫っていた。




