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杣(そま)の白旗――奥多摩三田戦記――  作者: 水川仁


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第三章 龍は去った

小田原城を囲む白旗の海は、今日も揺れていた。


だが、その揺らぎは、もはや勝利の熱気ではない。


ざわめきだった。


どこか落ち着かない空気が、陣全体を覆っている。


「……遅いな」


綱秀は城を見つめたまま呟いた。


小田原城は落ちない。


昼も夜も攻め続けているというのに、北条の旗はなお天守に翻っていた。


「殿」


師岡将監が静かに歩み寄る。


「兵糧の運び込みが滞り始めております。」


「こちらか。」


「いえ。」


将監は首を横に振った。


「越後勢にございます。」


綱秀の眉が動く。


「どういうことだ。」


「甲斐の武田信玄が動いたとの噂が広まっております。」


その名を聞いた瞬間、綱秀は息を呑んだ。


武田信玄。


越後の龍が、唯一背中を預けられぬ男。


もし越後を脅かされれば――。


「まさかな……」


嫌な予感が胸をよぎる。


だが、その予感は翌朝、現実となった。


一本の早馬が、本陣へ飛び込む。


続いて法螺貝。


さらに太鼓。


陣中が慌ただしく動き始める。


「何事だ!」


兵たちが口々に叫ぶ。


その中を、一人の伝令が駆け抜けた。


「政虎様、ご帰国!」


「越後へ兵を返される!」


その一言で、陣が凍り付いた。


「何だと……」


誰かが呟く。


「帰る……?」


「今、この時に?」


「小田原はどうなる!」


怒号が飛び交う。


昨日まで勝利を疑わなかった兵たちが、一斉に動揺し始めた。


綱秀は伝令の肩を掴む。


「確かな話か。」


「間違いございませぬ!」


「武田勢が越後を窺っているため、一刻も早く帰国されるとのこと!」


綱秀は、しばらく言葉を失った。


やがて。


遠くから聞こえてきた。


馬の足音。


白旗が、一つ、また一つと北へ向かって動き始める。


越後勢だった。


「……龍が。」


綱秀は呆然と呟く。


「帰ってしまう。」


軍勢は整然としていた。


逃げるのではない。


撤退である。


景虎は最後まで堂々としていた。


だからこそ残された者たちは理解できない。


「なぜだ。」


「我らはまだ戦える!」


「あと一押しではないのか!」


悲鳴にも似た叫びが、あちこちから聞こえた。


しかし白旗は止まらない。


龍は、北へ帰っていく。


綱秀は馬へ飛び乗った。


「殿!」


「政虎様に会う!」


将監が慌てて後を追う。


北へ。


北へ。


撤退する本隊を追い掛ける。


ようやく景虎の本陣へ辿り着いた時には、周囲には多くの国衆が集まっていた。


「お待ちくだされ!」


「我らを置いて行かれるのですか!」


「関東はどうなる!」


誰もが必死だった。


その前へ、景虎が馬を進める。


若き武将は静かだった。


「諸将。」


低い声が響く。


「越後を失えば、この戦そのものが終わる。」


誰も反論できない。


「必ず戻る。」


景虎は続けた。


「北条との決着は、まだ終わっておらぬ。」


それだけ言うと、馬首を返した。


白頭巾が遠ざかっていく。


綱秀は、その背を見送るしかなかった。


やがて。


白旗は見えなくなった。


残されたのは沈黙だけだった。


・・・


その日の夕暮れ。


陣には、昨日までとは別の空気が流れていた。


「小田原へ使者を出そう。」


「あの時のことを詫びれば、許されるかもしれぬ。」


「あれは上杉に従っただけだ。」


昨日まで義を語っていた武将たちが、今度は競うように助命を口にする。


「将監。」


「はっ。」


「あれが戦国か。」


将監は苦く笑う。


「生き残る者は、皆ああして生きてきたのでしょう。」


翌日。


白旗だった陣に、赤い旗が現れ始める。


北条へ降った国衆である。


昨日まで酒を酌み交わした者が、今日は小田原へ頭を下げていた。


綱秀は何も言わなかった。


ただ見ていた。


夕方。


将監が静かに口を開く。


「殿。」


「申せ。」


「今なら、まだ間に合います。」


綱秀は黙っていた。


「北条は勝者です。」


「ここで謝れば、三田は残ります。」


長い沈黙。


「将監、お前にしては弱気だな」


「殿が強気すぎるのです」


「私は、あのお方の前で誓った。」


景虎の姿が浮かぶ。


『関東を正すには、そなたたちの力が要る。』


その言葉。


その眼差し。


「一度義を誓った相手を、形勢が悪くなったから裏切る。」


綱秀は静かに首を振る。


「それでは三田ではない。」


「しかし。」


「家は滅ぶかもしれぬ。」


将監は俯く。


「領民も苦しみます。」


「分かっている。」


綱秀は苦しそうに目を閉じた。


「それでも。」


再び開いた瞳には、迷いがなかった。


「私は、あの白旗を裏切れぬ。」


その日。


勝沼城へ帰る道は、来た時よりはるかに長く感じられた。


山へ戻った綱秀を待っていたのは歓声ではない。


静寂だった。


谷を渡る風だけが聞こえる。


周囲の国衆は、次々と北条へ帰参した。


昨日まで味方だった城には、「三つ鱗」の旗が翻る。


三田だけが。


奥多摩の山だけが。


広大な赤い海に浮かぶ、小さな白い島となった。


綱秀は城の櫓へ登る。


遠く南には、小田原。


北には越後。


そのどちらも、今はあまりに遠かった。


「将監。」


「はっ。」


「これからが本当の戦だ。」


将監は返事をしなかった。


返せなかった。


その言葉が、あまりにも重かったからである。


奥多摩へ、冷たい秋風が吹き始めていた。


その風は、孤立した三田家だけを包み込むように、静かに山々を渡っていった。

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