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杣(そま)の白旗――奥多摩三田戦記――  作者: 水川仁


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第二章 十万の白旗

永禄四年――一五六一年、春。


武蔵の野は、白い旗で埋め尽くされていた。


風が吹くたび、無数の旗が一斉にはためく。


その音は、まるで巨大な生き物が呼吸しているかのようだった。


上野から武蔵へ。


武蔵から相模へ。


越後の長尾景虎に従う軍勢は、進むごとに膨れ上がっていった。


宇都宮。


佐竹。


小山。


里見。


そして、北条に領地を奪われ、あるいは従属を強いられてきた関東の国衆たち。


それぞれの旗を掲げた兵が、次々と越後の龍のもとへ集まってくる。


その数、十万余。


実数がいかほどであったにせよ、馬上から見渡す限り、大地は兵で埋まっていた。


三田弾正少弼綱秀もまた、その軍列の中にいた。


「見よ、将監」


綱秀は馬上から振り返った。


「関東には、まだこれほどの武士が残っていたのだ」


並走する師岡将監は、複雑な表情で周囲を見渡した。


どこまでも続く兵の列。


槍の穂先が陽光を反射し、春の野を銀色に染めている。


太鼓が鳴る。


法螺貝が響く。


道端には、軍勢を一目見ようと集まった百姓や町人たちが群がっていた。


誰もが口々に叫んでいる。


「越後勢だ!」


「長尾様が北条を討つぞ!」


「関東管領様がお戻りになる!」


その熱気は、長く北条の支配に耐えてきた者たちの鬱屈を、一気に吹き飛ばすほどだった。


「殿」


将監が声を落とした。


「浮かれすぎてはなりませぬ」


「浮かれてなどおらぬ」


「その顔で申されても、説得力がございませぬな」


将監の言葉に、綱秀は一瞬きょとんとし、やがて声を上げて笑った。


「そう見えるか」


「勝沼を発たれてから、十歳は若返っておられます」


「ならば、二十歳ほど若返ってみせよう」


綱秀は馬の腹を軽く蹴った。


馬が足を速める。


春風が頬を打った。


体の奥が熱い。


長年、奥多摩の山で北条の圧力に耐え続けてきた。


検地を迫られ、服従を求められ、周囲の国衆が一人また一人と小田原へ膝を折っていくのを見てきた。


それでも、三田だけは完全には屈しなかった。


正統なる関東管領の秩序が戻る日を信じて。


山内上杉家の旗が、再び関東に翻る日を待ち続けて。


その日が、今まさに訪れようとしている。


「将監」


「はっ」


「北条が伊豆に旗を揚げてから、どれほどになる」


「七十年余りにございましょう」


「そうか」


綱秀は前方を見据えた。


「大したものだ。わずか一代、二代のうちに、関東をここまで呑み込んだ」


「敵ながら、恐ろしい家にございます」


「だがな」


綱秀は静かに笑った。


「我らも同じだけの歳月、この山を守ってきた」


将監は黙って主君を見る。


綱秀の声には、誇張も虚勢もなかった。


ただ、揺るぎない確信だけがあった。


「大国が領地を広げた年月と、小国が滅びずに耐え抜いた年月。その重さに、違いなどない」


「……殿らしいお言葉です」


「北条には城がある。兵がいる。銭がある。だが、我らには意地がある」


「意地だけでは、腹は膨れませぬ」


「お前は時々、本当に興を削ぐな」


「それが重臣の役目にございます」


将監は真顔で答えた。


綱秀は再び笑った。


周囲の兵たちも、その笑いにつられる。


勝利はまだ手にしていない。


それでも、この軍勢を見れば、誰もが北条の時代は終わると思った。


十万の大軍。


関東の名門が一堂に会し、その先頭に越後の龍がいる。


これほどの力を前にして、小田原が耐えられるはずがない。


やがて軍勢は武蔵を抜け、相模へ入った。


北条方の小城や砦は、まともに戦うこともなく次々と放棄されていく。


村々では、北条の印を打ち壊す者まで現れた。


「北条は逃げ腰だ!」


「小田原まで一息ぞ!」


軍中には、早くも勝利を確信する空気が漂っていた。


綱秀もまた、その一人だった。


いや。


誰よりも強く、勝利を信じていた。


そしてついに――。


北条の本拠、小田原城が見えた。


巨大な城郭。


幾重にも巡らされた堀と土塁。


山と海を背にした、関東屈指の堅城。


その周囲を、上杉方の軍勢が取り囲んでいく。


陣が組まれる。


旗が立つ。


焚き火の煙が上がる。


見渡す限り、白旗の海だった。


「これほどとは……」


将監が、思わず息を呑む。


「小田原城が、まるで小舟のように見えまする」


「逃げ場はない」


綱秀は城を睨んだ。


「氏康とて、ここまでであろう」


「いかに堅城といえど、この大軍を相手に長くは持ちますまい」


「北条が滅びれば、関東は元に戻る」


綱秀はそう言い切った。


乱れた秩序が正される。


新参の北条が退き、古くからの家々が再び土地を治める。


上杉が関東管領として諸将を束ねる。


三田もまた、北条の検地や命令に怯えることなく、奥多摩の山を守っていける。


そんな未来が、目の前にあるように思えた。


「将監」


「はっ」


「父上にも、この景色を見せたかった」


声には、わずかな寂しさが混じっていた。


父もまた、北条の伸長に抗った。


だが、この日を見ることなく世を去った。


綱秀は、遠くそびえる小田原城を見つめたまま続けた。


「我らが耐えた日々は、無駄ではなかった」


「さようにございます」


「小田原へ下らず、山を明け渡さず、ここまで踏みとどまった」


「はい」


「今日、ようやく報われる」


将監は、すぐには答えなかった。


主君の横顔が、あまりにも晴れやかだったからだ。


それは、長い苦悩から解き放たれた者の顔だった。


あるいは、人生のすべてが、この一日に結実したと信じる者の顔。


将監は水を差すような言葉を口にできなかった。


「長尾様がお通りになるぞ!」


前方で声が上がった。


兵たちが道を空ける。


やがて、騎馬武者の一団が現れた。


先頭にいるのは、白頭巾を身につけた若き武将。


長尾景虎。


のちに上杉謙信と呼ばれる男である。


背後には、「毘」の旗が翻っていた。


綱秀は馬を降り、道端に膝をついた。


景虎が近づいてくる。


年は綱秀より、はるかに若い。


だが、その佇まいには、周囲の空気を変えるほどの鋭さがあった。


私欲のためではなく、乱れた関東の秩序を正すために兵を挙げたとされる男。


綱秀が待ち続けてきた、正統の旗。


景虎の馬が、三田勢の前を通り過ぎようとした。


その時。


景虎がふと、綱秀の掲げる旗印へ目を向けた。


「武蔵の三田か」


綱秀は驚き、深く頭を下げた。


「はっ。三田弾正少弼綱秀にございます」


「北条のただ中にあって、よく旗を守った」


その一言で十分だった。


綱秀の胸に、熱いものが込み上げた。


「ありがたきお言葉」


「関東を正すには、そなたたちの力が要る」


「命に代えましても」


景虎は小さく頷き、そのまま馬を進めた。


ほんの短い会話だった。


だが、綱秀にとっては、これまでのすべてが認められた瞬間だった。


長き忍従。


北条への反発。


周囲から愚かと嘲られても、上杉への忠義を捨てなかった年月。


それらが今、報われた。


綱秀はしばらく、去っていく白頭巾の背を見つめていた。


「殿」


将監が、少し笑いながら声をかける。


「泣いておられますか」


「馬鹿を申せ」


「では、その目の光るものは」


「春の風だ」


「随分と湿った風にございますな」


「黙れ」


綱秀は乱暴に目元を拭った。


その日の夜。


小田原城を囲む陣では、至る所で酒が振る舞われた。


兵たちは火を囲み、北条滅亡後の話に花を咲かせている。


「小田原が落ちれば、すぐに国へ戻れる」


「奪われた土地も返るぞ」


「北条の役人どもを追い出してやる」


笑い声が夜空へ響く。


綱秀は陣の外れに立ち、無数の篝火を眺めていた。


城を取り囲む灯は、地上に降りた星々のようだった。


「美しいものだな」


「何がでございます」


隣に立つ将監が尋ねる。


「これほど多くの者が、同じ旗の下に集まっている」


「皆、思惑はそれぞれにございましょう」


「それでもよい」


綱秀は首を振った。


「今は皆、北条を倒すという一つの目的でここにいる」


十万の軍勢。


越後の龍。


関東の名門たち。


この力があれば、何も恐れることはない。


北条は滅びる。


上杉が関東を治める。


三田の山は守られる。


その未来を、綱秀は疑わなかった。


いや。


疑う理由など、どこにも見当たらなかった。


「将監」


「はっ」


「勝沼へ戻ったら、山の者たちを集めよう」


「何をなさるおつもりで」


「北条の検地帳を、皆の前で燃やす」


将監はため息をついた。


「まだ勝ってもおりませぬ」


「時間の問題だ」


「殿は、勝ち戦となると途端に気が大きくなられますな」


「長く負けることばかり考えてきたのだ。今くらい、勝った後の話をさせろ」


綱秀は声を上げて笑った。


将監も、今度ばかりは止めなかった。


小田原城の向こうに、月が昇っていた。


白旗の海を、淡い光が照らしている。


それは三田家の歴史の中で、最も輝かしい夜だった。


綱秀は、ついに時代が自分たちへ味方したのだと信じた。


正しい者が勝ち、耐え抜いた者が報われる。


忠義を捨てなかった者に、未来が与えられる。


だが――。


城内では、北条氏康が静かに時を待っていた。


十万の軍勢を前にしても、相模の虎は怯えてはいなかった。


大軍は、大きいほど腹を空かせる。


諸将は、集まった数だけ思惑が異なる。


そして越後には、景虎が決して背を向けられぬ宿敵がいる。


甲斐の武田信玄。


白旗の海が勝利に酔うその夜。


見えない場所ではすでに、十万の軍勢を崩す刃が静かに研がれていた。


綱秀はまだ知らない。


人生で最も眩しい夜が――。


長い孤独の始まりになることを。

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