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杣(そま)の白旗――奥多摩三田戦記――  作者: 水川仁


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序章 杣の細道、動乱の予兆

「検地に従え、だと?」


低く漏れた声に、物見櫓の空気が凍りついた。


父より受け継いだ『綱秀』の名。


三田弾正少弼綱秀は、小田原から届いた書状を片手に、南の空を睨んでいた。


永禄三年――一五六〇年、初秋。


武蔵国多摩郡杣保。


険しい山々を縫って流れる多摩川は、今日も変わらず澄んでいる。


だが、その流れを見下ろす勝沼城の主の胸中は、濁流のように荒れていた。


「またでございます」


背後に控えていた重臣・師岡将監が、苦い顔で頭を下げた。


「小田原の使者は、田畑のみならず、山林の収益、木材の伐り出し、川を下る荷の数まで明らかにせよと申しております」


「山の木を、一本ずつ数えるつもりか」


「北条ならば、やりかねませぬ」


綱秀の指が、書状を強く握り締めた。


紙がくしゃりと音を立てる。


検地。


それは、ただ田畑の広さを測るためのものではない。


誰がどれだけの土地を持ち、どれほど米を収め、いくら銭を得ているのか。


すべてを帳面に記し、小田原の支配に組み込むためのものだ。


三田氏は、古くからこの奥多摩の山々を治めてきた。


深い森から木を伐り出し、多摩川の流れに乗せ、江戸や河越へ送る。


山の民を守り、川の道を押さえ、独自の力で領国を築いてきた。


そのすべてを、北条の帳簿に記せという。


綱秀にとって、それは支配ではなかった。


首輪だった。


「我らは、いつから相模の虎の猟犬になった」


「殿……」


「先祖代々、この山を守ってきた。木を伐る場所も、川を渡る道も、誰に言われずとも我らが決めてきた。それを小田原の役人どもに一つ一つ差配されよと申すか」


「されど、北条の力は今や関東一円に及んでおります」


将監は慎重に言葉を選んだ。


「周囲の国衆も、次々と小田原に膝を折りました。ここで逆らえば、三田の家だけでは済みませぬ。領民にも災いが及びましょう」


「分かっている」


綱秀の返答は短かった。


それだけに、将監は口を閉ざした。


綱秀とて、北条の恐ろしさを知らぬわけではない。


伊豆から興った伊勢宗瑞――のちに北条早雲と呼ばれる男が種を蒔き、その子・氏綱が武蔵へ勢力を広げ、今は氏康が関東最大の覇者として君臨している。


北条は強い。


兵の数だけではない。


城を築き、道を整え、検地を行い、国衆を一人ずつ支配の網へ絡め取っていく。


刀だけでなく、帳簿で国を奪う。


それこそが、北条の本当の強さだった。


「殿」


将監が再び声を落とす。


「降ることも、家を守るための戦にございます」


綱秀は振り返らなかった。


眼下には、青く連なる奥多摩の山々が広がっている。


幼い頃から見てきた景色だった。


父と馬を走らせた尾根。


領民と木を伐り出した森。


春には霞がかかり、冬には雪が谷を閉ざす。


豊かとは言えない。


平地も少ない。


だが、ここは三田の国だった。


「将監」


「はっ」


「山を差し出して、家だけ残して、それを生き残ったと言えるのか」


将監は答えられなかった。


「我らが守ってきたのは、姓でも屋敷でもない。この山だ。川だ。ここで暮らす者たちだ。それを他人の帳面に明け渡して、三田の名だけ残して何になる」


風が吹いた。


櫓の上を抜け、綱秀の髪を揺らす。


綱秀は今年、五十の坂を越えていた。


武将としては、すでに若くない。


鏡を見るたび、こめかみに混じる白いものが増えている。


父も、長くは生きなかった。


自分もまた、そう遠くないうちに命を終えるのかもしれない。


そんな予感が、ときおり胸をよぎることがあった。


だからこそ、残された時間を、屈服のために使いたくはなかった。


北条が伊豆で旗を揚げてから、七十年余り。


その間、三田もまた、この山を守り続けてきた。


相模の大国が勢力を広げた歳月と、奥多摩の小さな国衆が意地をつないだ歳月。


その重さに、何の違いがある。


「返書は出さぬ」


綱秀は言った。


「殿」


「検地の役人も入れるな。山のことは、山の者が決める」


将監の顔に苦悩が浮かぶ。


「それは、小田原に刃を向けるも同然にございます」


「ならば、向ければよい」


綱秀は握り潰した書状を、櫓の外へ放った。


紙片は風に乗り、谷へ落ちていく。


「売ってはならぬ喧嘩もある」


「……殿は、何をお待ちなのです」


将監の問いに、綱秀は南ではなく、今度は北の空を見た。


上野。


さらにその先には、越後がある。


かつて三田氏が仕えた、山内上杉家。


そして今、関東管領の名跡を受け継ごうとしている、越後の若き龍。


「まだ終わってはいない」


「しかし、越後が本当に動く保証など――」


その時だった。


遠くの山道から、激しい蹄の音が響いてきた。


一騎の馬が、土煙を上げながら勝沼城へ駆け込んでくる。


城門をくぐるなり、物見の兵が転がるように櫓へ上がってきた。


「申し上げます!」


息を切らし、膝をつく。


「越後の長尾景虎様、三国峠を越えられました!」


綱秀の目が見開かれた。


「何だと」


「大軍を率い、上野国へ進出! 関東の諸将も、次々とこれに呼応しております!」


一瞬、誰も声を発しなかった。


谷を渡る風の音だけが、櫓の上を吹き抜けていく。


やがて綱秀の口元に、ゆっくりと笑みが浮かんだ。


先ほどまでの険しい表情ではない。


長い夜の果てに、ようやく朝日を見つけた者の顔だった。


「来たか」


北の空を見上げる。


「越後の龍が、ついに関東へ戻ってきたか」


将監は、主君の横顔を見つめた。


そこには五十を越えた男の疲れなど、もはや残っていない。


あるのは、若武者のような光だった。


「将監。支度をせよ」


「どちらへ」


「決まっておろう」


綱秀は山々を見渡した。


杣の森。


多摩川。


勝沼の城。


そのすべてを胸に刻むように、ゆっくりと息を吸う。


「上杉の旗の下へ参る」


「北条と、戦われるおつもりですか」


「違う」


綱秀は笑った。


「ようやく、我らの戦が始まるのだ」


その日。


奥多摩の山々を、早馬が駆け抜けた。


谷から谷へ。


村から村へ。


長く北条の影に耐えてきた者たちへ、越後の龍の到来が告げられていく。


綱秀には、それが夜明けに見えた。


三田の意地を賭ける、最後の好機。


だが、その光があまりにも眩しかったからこそ――。


彼はまだ気づいていなかった。


龍の到来がもたらすものは、救いだけではない。


それは同時に、三田氏を滅亡へと導く、長く凄惨な戦いの始まりでもあった。

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