19
暗闇のなかを松明一つだけで歩き続けている。気のせいかな? 行きよりも帰りのほうが長く感じる。気のせいだとしても、この松明もそろそろ限界が近づいてきている。
真っ暗闇のなかで、壁伝いに手探り状態で戻る……そんなことになる前に帰りたい。
ふと視線を向けると、そこに天井がみえた。もしかすると、ようやく戻ってこれたのかもしれない。
歩調を早めてまたしばらく進むと、ついに見えた。作業場が暗がりのなかに見えた。ようやく戻れたんだ。帰り道はとっても長かった。
とにかく戻ってきた。疲れた。どれくらい歩いたのかわからないけど、とにかく疲れた。あとはゆっくり休みたい。
階段を上がって、ようやくもどった。屋敷のなかに変わったようすはない。でもヘレンの姿は近くにみえない。さすがに地下室の入り口の扉の前で、ずっと待っているとは思わない。
とりあえず厨房へ向かう。それに水も飲みたい。そして中庭に、ヘレンの姿があった。
また木の近くで座っているけど、なんだか今回は祈っているみたいな格好にみえる。
「ヘレン、戻ったよ」
それで振り返ったヘレンは驚いた顔をしている。なんだか、不意打ちの攻撃でも受けたみたいな感じにみえた。
「ハンク……ほんとうに、ハンクなの?」
ヘレンは駆け寄ってきてぼくの手を握った。
「ハンク!」
「ちょっとヘレン、どうしたの? なにかあった?」
「すっと祈りながら待っていたのよ」
待っていたとしても、なんだか大げさだ。
「どういうこと?」
「もう二日も待っていたの!」
「え?」
ヘレンはなにを言っているの? わけがわからない。ぼくは地下室の奥へ向かってただ歩いて、途中で引き返して、たったそれだけだ。どう考えても半日だってかかっていないような時間だよ。なのに……二日も待っていた? そんなはずはない。ありえないよ。
「ヘレンってば、ちょっと待ってよ、二日も待っていた? どういうこと?」
「どういうことなのか、それはこっちが聞きたいくらいよ! ハンク、こんなにもなにをしていたの、なにがあったの」
「ぼくは、ぼくはただ、あの地下を壁沿いに進んで、それで途中で引き返して戻っただけだよ」
ヘレンは怪訝そうな表情になる。
「それだけ?」
「うん」
ヘレンが身を引くようにしてぼくから離れた。
「ほんとうに、あなた、ハンクなのよね?」
「え、ちょ、ちょっとヘレンってば、いきなり変なこと言わないでよ」
ぼくは思わず自分の両手を見た。見慣れたぼく自身の手だ。それから顔や頭を手でさわってみる。
半獣人の、ぼくの自分らしさであるケモノ耳だってちゃんとしている。頭、首、胸元、おなか、腰にさげている銃だってそのままだ。あとは尻尾だってちゃんとしている。ほかには、ほかには変わっているようなところはない。だよね? ぼくは、ぼくのままだ。
「ぼくはぼくだよ。ヘレン、なにか、ぼくにおかしなところはないよね? なにも変わっていないと思うけど」
「ごめんなさい、ハンク。やっぱりあなたはハンクね」
「それならいいんだけど」
「わたし、それでも勇気を出して地下室へ入ったのよ。それで、少しだけあの暗闇のなかを進んだわ。それに大声でハンクのことを呼んだ」
そんなことまであったなんて、気がつかなかった。地下室で叫んだりすれば、音が反響して少しでも聞こえそうなものになのに。
「ごめん。なにも、まったくなにも聞こえなかった」
「謝らなくていい。わたしだって、それ以上のことはなにもできなかった。引き返して、地下室を出て、きっと帰ってくるって思いながら、祈るだけしかできなかった。ずっと待ちながら、祈りつづけるしかなかった。ハンク、もう地下室の探検なんて行かないで、お願い。この館は異常なのよ。地下室はもっと異常。ぜったいに普通じゃない!」
「だいじょうぶだよ、ヘレン。落ち着いて。ぼくはここにいるから」
「ほんとうに怖かったの! 寂しくて! もしも、もしハンクが戻ってこなかったらって想像したら……もしも一人でここで過ごさないといけないことになったらって、そんなこと……わたし、耐えられない」
「ごめんね。もう地下室の探検は、なしにするから」
ヘレンがこんなにも涙を流しながら、泣いているところを見るなんて初めてで、なんだか胸を絞めつけられるみたいな感じになった。ぼくは、ただヘレンの肩に手をそっとおいて、なにか言葉をかけてあげることしかできない。
「ヘレン、ゆっくりお茶にでもしよう。それで、落ち着いて、しばらく休もうよ」
「そうよね。ハンクも疲れているわよね、きっと」
「うん、まあね。歩き疲れたよ」
そしてヘレンといっしょに屋敷のなかへ戻って、お茶を淹れる準備をいっしょにする。お湯の入っているやかんはもう置いてあって、すぐに用意できた。あったかい飲み物を口にすると、気分が和らぐような感じがする。
ヘレンは呟くように訊いてきた。
「地下室の奥には、なにかあったの? なにか見つけることができた?」
「ううん、なにもなかった」
「なにもなかった? ほんとう?」
「ただ暗くて、とっても広い場所だった」
「広い場所? それってどういうこと?」
「天井も反対の壁も見えなくなるくらいに大きな空間で、そして闇がひろがっていた。それだけ」
「ほんとうに? ほかに変わったことはないの?」
「あ、でも、途中で光を感じたよ」
「光? 明かりがあったの?」
「ううん、違う。この失った右目の奥で、まぶしさを感じた。でも左目にはただの暗闇が広がる地下空間が見えるだけだったけど」
「それは、どういうことなの?」
「ぼくにも、よく分からない」
「ほかには? それだけだったのに、どうしてこんなにも時間がかかったの」
「分からないよ」
でもこころあたりがあるとすると……
「あとひとつ、松明の火が戻る途中で消えちゃって、まったくの暗闇のなかで少しだけ過ごすことになった瞬間があった」
「暗闇のなか……」
「でも、ほんとうにほんの少しのことだったけど」
あの奇妙な感覚を思い出すような感じがした。なにも見えないなか、まるで身体が溶けるような、周囲との境界が曖昧になっていくような感じ。ほんとうに一瞬のことだったけど、まるで闇に飲み込まれるみたいな。
「なんていうのか、闇の中に溶けちゃいそうな感じがした。ほんの一瞬のことだけど」
「もしかするとあの地下室の奥は、やっぱり強力な魔法か魔術が使われているのかもしれないわ」
「それって、どんなものかな?」
「はっきりとは分からないけど、ハンクが地下室を見ていたあいだに、わたしは二日も待たされていたこととか、地下に広い空間があったことから考えると、時間や空間に作用するような、なにか特殊な魔法かもしれないわ」
「いずれにしても、あの地下室はなにかおかしなことになっているのかもしれないね」
「最初から、ずっとおかしなことだらけよ」
「それよりヘレンは? 君が一人のあいだ、屋敷のなかで変わったことはなかった?」
「そうね……」
ヘレンは少し口ごもって、どこか遠くを見つめるような素振りをしてつづけた。
「ハンクが戻ってこないことだけが気がかりで、周りことのを気にする余裕なんてなかったから」
「うん……でも、ヘレンが無事でいてくれてよかった」
「ハンクだって、無事に戻ってきてくれてよかった」




