37 汚冥界:島外(湾)
◼システィーナの視点
毒々しい紅黒い世界……
不浄さで澱み、かすむ世界……
汚冥界……ここが汚冥界……
太陽もないのに、空全体が紅黒く光っていて……
ただただ不気味。ああ、怖い。怖い。
澱んだ水の中を思わせる重い重い大気の空を、私たちはゆっくり、ゆっくりと堕ちる……
ゆっくり、ゆっくりと……
堕ちるごとに黒い霞が濃くなっていく……
「ゴホゴホッ」
「ゲホッこれは……瘴気だ。あまり長くいられないな」
コックリが囁く。うん、瘴気を吸い続けていると、体と心にダメージが蓄積されていくから……うう酷い空気。ゲホゲホ。
ああ、上空から見たときは薄いヴェールみたいな霞だったから汚冥界全体がうっすらと見えていたけれど、中に突入したら十数メートル先しか見えないくらいで……ああ、何か潜んでいないか……うう、怖い。
「神殿騎士様……向こうに何かが……!」
ええ!? まさか!? 亡者!?
慌ててアルシャーネさんが指し示す方向を見ると。
あ……黒い霞の先に、うっすらと尖った塔のようものが……あれはもしかして……
「修道院の大聖堂がある位置です。おそらく大聖堂の鐘楼の塔でしょう」
重なって存在する世界だから、同じ位置に同じ建物がある……あそこに大聖堂の鐘楼があるということは、私たちは島の外に堕ちて行っているのかも……サマラの魂の糸を辿って堕ちているんだけれど、彼女の魂は修道院にある訳じゃないのかしら?
魂の糸はまだまだ黒い霞の層の下へと伸びている。
ああ、下へ向かうごとに酷い臭いになってくる。
ううゴホゴホ。凄い腐敗臭……水から何から腐った腐敗臭が充満している……
うぅ、気持ち悪い……気持ち悪い。吐きそう。うぅ。
汚冥界に堕ちた魂は、そこで腐った肉体を得て永遠にさまよい続けるというけれど……納得できる。
「ゴホゴホ。コックリ、町並みが見える」
「ああ」
霞のなかに黒い建物群が……
不気味……何て不気味な町並みなの……?
黒い瘴気の霞が渦を巻き、うねる世界。
重い重い大気の空を、私たちはゆっくり、ゆっくりと堕ちて……
ゆっくり、ゆっくりと堕ちて……
ドチャッッ
グチョッッ
私たちは、不浄な汚冥界の大地に舞い降りた……うああっ、グチョグチョにぬかるんだ大地の上に。たぶん、現世では遠浅の海の上に。
「あっああっ!」
気絶したクラウディーアさんを抱き締めたままな上、足元がぬかるんでいるものだから、バランスを崩してクラウディーアさん共々倒れそうになった! けれどもとっさにコックリが私たちを支えてくれて。ああ、ありがとう! 危うくグチョグチョの大地に倒れるところだった。
「あ、ありが」
「しっ!」
コックリが人指し指を立てて唇に当てる。えっ!?
コックリは警戒している。左手でクラウディーアさんを支えながら、右手は腰に挿した愛用のシュヴァイツァーソードに添えられている! アルシャーネさんが慌ててコックリの代わりにクラウディーアさんを支えた。
と、その時……
ゥゥ……クル シ イ……
ァァァァ…………
黒い瘴気の霞の中から……見えないどこかから……
絞り出すような声が……苦しさで呻く声が……
ゥァァ……ナニ モ ミエナ イィ……
ォ ォォ ォ……デ グチ ハ ドコ ダァァ……
ズルズル……グチョ……
ズルズル……グチョ……
ああ……ぬかるみをさ迷う音が……
目を凝らすと瘴気の霞のそこかしこに、大小様々な影が蠢いていて……消えては現れ、現れては消えて……耳をそばだたせれば、両手では数えきれないほどの気配が……
亡者……亡者だ……
汚冥界に堕ちた魂は、こうやって永遠にさ迷い続けるのか……
コォォ ォ……ォ ォ ォォ……
壊れた笛から風が抜けるような音……
ああ……
不気味だ……
不気味なシルエットが、ヴェールの向こうで蠢いて……
ああ、死にながら……腐りながら……それでも生への渇望で蠢く亡者の姿を想像してしまって……
うう、寒気が……
私は肩が、体が震えだしてしまって……
とその時。コックリが私の肩に手を置いたの。
ああ! 大きな大きな手だ。安心感を与えてくれる大きな手だ。何度も何度も私を抱き締めて愛してくれた大きな手……
「大丈夫」
彼は私の震えを止めるように二の腕まで手を滑らせ、ポンポンと叩いた。うん……うん……
「こっちへ。静かに」
コックリは軽々とクラウディーアさんを肩に担ぐと、歩き始めた。私たちは静かに、静かに、コックリの後を着いて行く。
でも……
ううコックリ……やっぱり怖いよ。コックリのサーコートを掴みたいけれど、コックリの邪魔になるし……クラウディーアさんを担いでいるし……うう。
「シ、システィーナさん……」
アルシャーネさんが小声で。
青白い顔で。
同時に手を差し出してきて。
ああ、アルシャーネさんも怖いんだ……私はアルシャーネさんと手を繋いで歩き始めた。ああ暖かい、心休まる霊力だ。私はアルシャーネさんの霊力で励まされる気がして……同時に申し訳なくなった。
「アルシャーネさん……ごめんなさい」
「え?」
「私はアルシャーネさんの霊力で心強くなってるのに、アルシャーネさんは怖いままでしょう? 頼りなくてごめんなさい」
「そんな、逆です! 私はシスティーナさんがいてくれて、本当に心強いんです」
「え、本当?」
「はい。現世に戻ったら話しますね。本当に心強いんですよ」
ああ、それなら嬉しい。こんな私のどこが心強いのか分からないけれど……絶対に皆で現世に戻って、理由を聞こう。
アルシャーネさんは反対の手で魂の糸に手繰り触れながら歩く。糸は汚冥界のドロドロした大地にフワリと落ちて……
「アルシャーネさん。魂の糸は、このまま垂らした状態で大丈夫でしょうか? 切れたりしたら、私たち……」
「そうですよね……」 アルシャーネさんが頷いた。「私も心配ですが……大丈夫……と信じましょう。今までも一ヶ月以上、大丈夫でしたし……今は私の霊力で補強していますから……さらにイザという時の手はあります」
そうなんだ。私は歴史上の人物になりうるアルシャーネさんの言葉を信じた。
「アルシャーネさん、見て。海……かしら? あんな近くまで来てる」
そう、ヘドロのような粘性を持った紅黒い海が、近くまで迫ってきている。ああ、ボコンッボコンッとそこかしこから気泡が立って黒い胞子のような気体を吐き出してる……うう不気味だし、酷い臭いだし……近づくだけで体を悪くしそう。海の中に下りなくて良かったよ。とその時。
「シス、アルシャーネ司祭。見えて来ました」
ああ、サマラの魂の糸の先。
霞の先の方に、うっすらと浮かび上がる巨大な建造物のシルエットが……門のようなシルエット。あれはもしかして……
「あれは……島の入り口の……楼門?」 アルシャーネさんが呟く。
「ええ」
そう、楼門だ。
島に入ることができる唯一の楼門。コックリと私が現世のモンサンミシェリア島に入るために潜った『 慈愛の門 』。
まさか汚冥界でもここから島へ入ることになるなんて……
ああでも近づくと分かる。シルエットこそ現世の楼門を思わせるけれど……
楼門を思わせるけれど、形作る物質はまるで違う。まるで違う。
現世の楼門は、巨石を四角く削り磨いた石を組み上げていった美しい建造物だったけれど……この世界の楼門は……
「まるで……冷え固まった溶岩だ」
そうなの。シルエットこそは楼門のそれなんだけれども……素材が、焼け爛れたような黒いグロテスクな塊で……うああ表面がザラザラでボツボツ穴が開いてたりブツブツのイボがあったり。こ、こういうの苦手……
「中に入る前に、隊長をここで起こしましょう」
楼門の脇に移動すると、コックリはクラウディーアさんを肩から下ろして活を入れた。




