第20話 恭子と綾子
《《綾子》》
翌日の午後。
ホテルをチェックアウトした悟と真理子は、並んで北千住の駅へ向かった。
昨夜のことは、どちらも口にしなかった。真理子は前を向いて歩き、悟はその半歩後ろを歩いた。秋の昼下がりの陽射しが、真理子の長い黒髪を照らしている。その横顔は穏やかで、しかし悟には、何か別のことを考えているように見えた。
駅のJR北千住北改札口の前で、二人は立ち止まった。人の流れが脇を通り過ぎていく。ビジネスマン、学生、買い物帰りの主婦。誰もが自分の生活を抱えて、それぞれの方向へ歩いている。
しばらく待つと、改札を抜けてくる人影が見えた。
ジャージをだらしなく着た小柄な少女だった。恭子だ。除霊前の、精気のない足取りで歩いてくる。視線は定まらず、まるで夢遊病者のように、ぼんやりとしている。真理子の生霊がそうさせているのだと、悟にはわかった。
恭子は改札の外で立ち止まり、ぼんやりと周囲を見回した。まるで誰かを待っているように。しかしその目には、何の感情も宿っていなかった。
数分後、改札の向こうから、もう一人の人影が現れた。
ビジネススーツをきっちりと着こなした、長身の女だった。百七十センチはあるだろう。ハイヒールがそれをさらに強調していた。モデルのように整った顔立ち。肩まで伸びた黒髪が、歩くたびにわずかに揺れる。隙のない歩き方。人の流れの中にいながら、その女だけが別の空気をまとっているように見えた。
恭子の顔が、その女を認めた瞬間に微かに変わった。口元がわずかに動き、会釈をする。
悟は息を飲んだ。
真理子が静かに言った。「あれが九鬼綾子……かっこいいわね」
称賛とも皮肉ともつかない声だった。しかしその目は、品定めをするように綾子を見つめていた。悟は真理子の横顔を見た。真理子の瞳に、かすかな緊張の色が宿っているのが見えた。
恭子と綾子は短く言葉を交わすと、並んでJR北千住駅の北改札口を出て、ペデストリアンデッキの西口方面へ歩き始めた。二人の距離は近い。綾子が何か言い、恭子がうなずく。そのやり取りが、妙に親密に見えた。
悟と真理子は、距離を保ちながら後をつけた。
西口に出ると、二人はマルイ(ミルディス)側の左方向へ進んだ。デッキの端まで歩くと、本町センター通り方面への階段とエスカレーターを降り始める。綾子が先に立ち、恭子がその後ろを歩く。
悟と真理子もエスカレーターに乗った。真理子は何も言わなかった。ただ、前を見つめたまま、静かに立っている。悟は真理子の背中を見ながら、昨夜のことを思い出していた。真理子の肌の感触。低く漏れた吐息。しかしそれを口にすることはできなかった。
本町センター通りに出た恭子と綾子は、ぶっくらんどの入っているビルへと入っていった。恭子が二階へ上がるエレベーターのボタンを押す。二人がエレベーターに乗り込むのを、悟と真理子は少し離れた場所から確認した。
エレベーターのドアが閉まると、真理子が悟の手を引いた。ぶっくらんどの入っているビルを通り過ぎて、別方向に歩いていく。
「真理子、どこに行くんだ?綾子と恭子のいる店に行くんじゃないのか?」
真理子は歩きながら答えた。「同じ店内じゃあ、綾子に感づかれないとも限らないでしょう。別の喫茶店に行くわ」
「でも、それじゃあ中の様子が……」
「私の生霊の憑いた恭子の目で見えるのよ。彼女の五感は私の遠隔センサーみたいなものなの」
真理子は通りをさっと見回すと、一階にある喫茶店へ足を向けた。ガラス張りの入口から、店内が見える。客は少ない。奥の席なら、落ち着いて話ができそうだった。
二人は店に入り、奥の席に座った。真理子が窓際の席を選んだのは、外の様子を見るためではなく、店内の他の客から視線を遮るためだった。
「恭子と綾子はコメダ珈琲に行ったみたいね」と真理子は席についた悟に言った。
「見えるのか?」
「ええ」
「ぼくにも……見せてもらえるか?」
真理子は少しだけ目を細めた。「あなたも見たいの?」
「ああ……だけど……」
「私の手をぎゅっと握って」
真理子は対面の席から手を差し出した。その手を悟は握った。
瞬間、悟の視界が揺らいだ。
大学の頃、ディズニーランドに行った時と似たような情景が広がった。
あの時、悟は、シンデレラ城の前で、夜8時を過ぎた頃、真理子にキスをした。
柔らかく、甘いキスだった。悟の唇は、温かくて、少し震えていた。呪われるなんて、信じていない。でも、この瞬間は、ただの幸せだった。
しかし、唇が触れた途端、悟の体が硬直した。悟の瞳が、瞬時に変わった。真理子の手が、悟の腕を強く握っているのに気づいた。
悟の視野が、変わった。
ディズニーランドは、もはや夢の国ではなかった。現実の鏡像のような、核戦争後の荒廃した世界。地面は焼け焦げ、ひび割れ、溶岩のような赤い光が隙間から噴き出している。キャッスルは歪んだ鉄の残骸、木々は黒く炭化した骸、ネオンは血のような赤い炎に変わり、空を焦がす。
強風が吹き荒れ、転がるゴミや魂の欠片が飛び交う。悪魔のような影――浮遊する霊たちが、翼を広げて徘徊し、苦しむ亡者の顔が、廃墟の壁に浮かび上がったり、消えたり。遠くで、叫び声が風に混じり、すべてが赤黒く、炎に包まれている。パークのゲストたちは、炎の渦の中で苦悶の表情を浮かべ、霊の爪が体を掻き毟る。空は永遠の夕暮れのように暗く、救いの光はどこにもない。
あの時、悟は真理子の手を握り返し、必死に耐えた。真理子が見ている世界。それを、悟も見た。
そして今、同じことが起きた。
喫茶店の店内が、現実の鏡像のような荒廃した世界に変わった。床は焼け焦げ、ひび割れ、溶岩のような赤い光がカウンターから噴き出していた。他の客たちは、炎の中で蠢く影のように見える。
しかしあの時と違うのは、真理子の視点で悟が光景を視えたことだ。
喫茶店の店内から、視野が広がった。まるで、カメラがズームアウトしていくように。壁を抜け、ビルを抜け、視界が外へと広がっていく。
恭子が見ているコメダ珈琲の入口が視えた。正面には綾子の姿があった。二人は奥の席に座り、メニューを見ている。綾子が何か言い、恭子がうなずく。
悟は息を飲んだ。「これが……恭子の目……」
真理子は静かに答えた。「ええ。私の生霊が憑いた恭子の五感を通して、あなたにも見せているのよ」
「すごい……」
「美久、順子、楓、節子、紗栄子、佳子は、よくコメダ珈琲に来てダベっているらしいの。恭子の記憶がそう言っているわ」
悟は真理子の横顔を見た。「つまり……」
「この店で、恭子が綾子に六人を『見せる』ということよ」真理子の声は低く、静かだった。「綾子はここで、六人の情報を得るつもりなのね」
恭子と綾子は向かい合って座っている。綾子が何か言い、恭子がうなずいた。
しばらくすると、コメダ珈琲の入口のドアが開いた。
五人の少女が入ってきた。
恭子の視界が、わずかに揺れた。真理子の生霊が、緊張しているのだと悟にはわかった。
「……来た……でも、美久と順子と紗栄子と……時任姉妹だわ」
恭子の口が、小さく呟いた。真理子の生霊が、恭子の口を借りて言ったのだ。
綾子の目が、コメダ珈琲の入口へと動いた。五人の少女を見つめる。その視線は、鋭く、冷たかった。
「美久と順子と紗栄子はあなたが説明したターゲットよね。楓と節子と佳子はいないのね?それで、時任姉妹って誰?」
「時任姉妹は、私の同級生で姉の純子と別の高校で二年生の直子です。彼女たちは抗争には絡んでないわ」
「まず、三人だけでも確認すればいいわよ」
綾子はスマホをバッグから取り出して、少し離れたテーブルに座った五人を撮影した。その画像を恭子に見せた。
「さあ、誰が誰だか説明して」
「通路側に座っているフレンチカジュアルのギャル風なのが美久です」恭子は綾子に、若い頃の後藤久美子のような美少女の画像を指した。「その隣が順子。従順の順と書いて順子。これが紗栄子。で、向かいに座っているのが時任純子。純情の純と書く。隣が妹の直子。でも、彼女たちは関係ないわ」
「……時任……」綾子が眉を寄せた。「ちょっと、気になるわね……何か感じる……この子たちはどういう子?」
「北千住の氷川神社の娘たちで、普段は家の手伝いで巫女の仕事をしているわ。関係ないでしょ?」
「……巫女……」
綾子の目が細くなった。
(私のマンションの部屋でこいつの意識を読んだ時、ターゲットの六人の背後に、自分にとって敵となる手強い存在を感じたわね。そいつらに神霊が憑いている。その神霊だけじゃない。強力な何らかのエネルギー体がいる……そして今、目の前の時任姉妹からも同じ気配……いえ、もっと強い。巫女……氷川神社……まさか、臺與の系譜か?……敵だわ……これは予想外ね。計画を練り直す必要があるかもしれない)
綾子の内心が、わずかに波立った。しかしその表情は、何も変わらなかった。ただ、スマホを操作しながら、時任姉妹の画像をじっと見つめている。
別の喫茶店で、恭子の五感を使ってこの様子を盗み見ていた真理子と悟だったが、綾子が時任姉妹のことを気にしているのに違和感を持った。
「悟」真理子が静かに言った。「直接会わないとわからないけど、私はあの時任姉妹に会ってみたいわ」
真理子の守護神が、かすかに反応しているのを感じた。久しぶりの、懐かしい気配。
「真理子、恭子が指名したターゲットにされている六人じゃないだろう?あの姉妹は?」
「氷川神社、巫女……私も何か気になるわ。これからあの姉妹の家の神社に行ってみましょう」
「真理子が言うなら……」
悟は真理子の手を握ったまま、うなずいた。真理子の手は、わずかに震えていた。
《《事故物件》》
恭子と綾子が自分たちを盗み見ているのを知らない五人は、和やかに会話を続けていた。
コメダ珈琲の奥の席。美久、順子、紗栄子、そして時任純子と直子が、テーブルを囲んでいる。
「それでさ、純子ちゃん、ちょっと相談があるんだけど」紗栄子が切り出した。
「ん?何?」
時任純子が顔を上げる。純子は清楚な顔立ちの少女だった。黒髪をストレートに伸ばし、化粧っ気のない肌が透き通るように白い。目は大きく、まつげが長い。話す時、少し首を傾ける癖がある。
「美久ネエの実家の不動産屋が扱ったアパートが事故物件じゃないのか?って話なんだけど」
「事故物件?」純子が眉をひそめた。
「そう。佳子の彼氏の一朗さんって大学生の部屋でさ、ラップ音が聞こえたり、人がいないのに足音が聞こえたりするんだって」
「それで、その部屋を扱ったのが、『北千住駅前の㈱ミニミニ城北』、つまり私ん家なのね」美久が続けた。
「ポルターガイスト現象……?」
純子の妹、直子が小さく呟いた。直子は純子よりも幼い顔立ちだが、目の奥に姉とは違う鋭さを持っていた。髪は肩までのボブで、前髪を斜めに流している。
「そうなの。で、純子の家が神社じゃん?だから、純子のお父さんの神主さんに除霊をお願いしたいと思って、私が美久ネエに相談したのよ」
紗栄子がそう言うと、純子はしばらく考え込んだ。
「……うちのお父さん、最近忙しいんだよね。でも、一度話してみる。いつ頃がいい?」
「できれば早い方がいいんだけど……」
「わかった。今晩、お父さんに聞いてみる」
純子がそう答えると、直子が姉の袖を引いた。
「ねえ、お姉ちゃん。あの人たち、ずっとこっち見てない?」直子が小声で言った。
純子が視線を向けると、少し離れた席に座っている二人の女が、こちらをじっと見ていた。一人は長身のビジネススーツの女。もう一人は、ジャージ姿の小柄な少女。
紗栄子が目を細めた。「……あれ、あの子……」
「どうしたの?」と美久。
「恭子だ。鈴木恭子だよ、アネさん」
美久の表情が一瞬で険しくなった。順子も視線を向ける。
「マジで?あのチビか。女子少年院から出てきたのか」と順子。
純子と直子は顔を見合わせた。二人は抗争には関わっていないので、恭子のことは名前しか知らない。
「隣の長身の女は?」と美久が呟いた。
「知らない。でも……」紗栄子が言葉を濁す。
直子は眉をひそめた。「……なんか、嫌な感じがする」
その瞬間、二人の女は視線を逸らし、スマホを操作し始めた。
「恭子、何しに来たんだろうね」と順子が低い声で言った。
「わかんないけど……念のため気をつけた方がいいかもね」と美久。
別の喫茶店で、恭子の五感を通してこの会話を聞いていた真理子は、静かに目を閉じた。
氷川神社。時任姉妹。そして、除霊の依頼。
すべてが繋がり始めている。
真理子は悟の手を離し、ゆっくりと立ち上がった。
「真理子?」
「行きましょう、悟。氷川神社へ」
真理子の声は、静かだが、確固とした意志を帯びていた。
悟はうなずき、真理子に続いて席を立った。




