第21話 氷川神社へ
別の喫茶店を出た私と悟は、氷川神社へ向かった。
千住界隈には氷川神社がたくさんあった。千住本氷川神社、千住氷川神社、大川町氷川神社、仲町氷川神社、そして一番大きな神社が、稲荷神社と氷川神社が並んでいて「二つ森」と呼ばれていたのが、大正時代にふたつがひとつになった「千住神社」。
歴史は稲荷神社の方が古い。926年に伏見稲荷より分霊勧請し千崎稲荷神社が創建されたそうだ。その後隣に1279年、大宮の氷川神社から分霊勧請して創建。明治6年、1873年に合祀してひとつの神社になったそうだ。説明板にそう書いてある。
私は、恭子の記憶から、時任姉妹の家が千住神社だということがわかったのだ。
京成線「千住大橋」駅から歩いて7分ほどの場所に、千住神社はあった。
参道に足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。街の喧騒が、まるで水に沈んでいくように遠のいていく。長い参道の両脇には、狐の石像が並んでいた。稲荷神社の名残だ。それぞれの狐が、少しずつ違う表情をしている。悟は狐を一つ一つ見ながら、「随分と数が多いんだな」と呟いた。
境内は思ったより広かった。参道を抜けると、正面に本殿が見える。権現造り、流れ造り、神明造りの三者混合によるしっかりとした造りの趣のある社殿だった。昭和20年の空襲で焼失したものを、昭和33年に再建したものだという。
本殿の右手に、小高い塚があった。富士塚——千住富士だ。江戸時代中期に造られ、昭和11年に再築されたもの。頂上には浅間神社の小さな祠が祀られている。
私は富士塚をじっと見つめた。
木花咲耶姫。
火と浄化の女神。ニニギノミコトの妃。火中出産の故事から、安産と子育ての神として、そして火難消除の神として崇敬されている。
私の守護神が、かすかに反応した。
悟は境内をぶらぶらと歩いている。あまり興味がなさそうだ。私は本殿脇の説明板を読み始めた。
千住神社 御祭神
宇迦之御魂命
須佐之男命
宇迦之御魂命は稲荷神、五穀豊穣の神。
須佐之男命は天照大神の弟神で、ヤマタノオロチを退治した荒ぶる神だ。氷川神社の主祭神でもある。
説明板をさらに読み進めると、浅間神社のことも書かれていた。大正12年(1923年)、関東大震災の年に浅間神社を勧請し、富士塚を建立したという。
私は富士塚に視線を向けた。
木花咲耶姫がここにいる。
そして、時任姉妹に宿っている神霊も、ここと繋がっている。
その時、境内に人の気配がした。鳥居をくぐって、二人の少女が入ってきた。時任純子と直子だ。
姉妹は本殿に向かおうとした。そこで、説明板を興味深く読んでいる私と、ぶらぶらしている悟の姿に気づいた。
妹の直子が、私たちに近づいてきた。ニコニコした顔で、巫女らしい丁寧な言葉遣いで言った。
「お二人様、お参りでございますか?ここの神社の娘です。ようこそお参りくださいました」
私は直子を見た。幼い顔立ちだが、目の奥に鋭さを持っている少女だ。肩までのボブヘア、前髪を斜めに流している。その瞳が、私をじっと見つめている。
「ええ、お参りに」と私は微笑んだ。
「時間がお有りなら、そこの社務所でお茶でもいかがですか?」
直子は私に興味を抱いたようだ。姉の純子も、私たちを見ている。清楚な顔立ちの少女で、黒髪をストレートに伸ばし、化粧っ気のない肌が透き通るように白い。
私は悟を見た。悟がうなずく。「では、お言葉に甘えて」
私たちは本殿横の社務所に通された。二階の打合せ室で、畳部屋だった。ここは、お手伝いの巫女さんなどの控室も兼ねているらしい。窓からは境内が見え、富士塚の頂上が見えた。
直子がお茶を淹れてくれた。純子が座布団を勧める。
「私は東京大学の文化人類学研究室で民俗学部門の助手をしている真中真理子と申します。彼は、大学の同級生で、IT企業勤務の吉澤悟です」私は名刺を差し出した。悟も軽く頭を下げる。
「私は時任純子です。こちらは妹の直子。父が宮司をしております」純子が丁寧に答えた。直子がお茶を私たちの前に置く。
「この神社の由来について、少しお聞かせいただけますか?」
私がそう切り出すと、純子が目を輝かせた。
「ああ、民俗学の方でしたら、ご興味がおありでしょうね。この神社は、もともと稲荷神社と氷川神社が並んで鎮座していて、明治に合祀されたんです。『二つ森』と呼ばれていて……」
純子が説明を始める。926年に稲荷神社が創建され、1279年に氷川神社が勧請された。江戸時代には将軍が鷹狩りを行った場所としても記録に残っている。明治6年に合祀して西森神社となり、大正4年に千住神社と改称された。
私は純子の話を聞きながら、直子をちらりと見た。直子は黙って座っているが、その目が私をじっと見つめている。
「御祭神は、宇迦之御魂命と須佐之男命ですね」と私。
「はい。それと、境内には浅間神社もございます。富士塚の上に祀られていて」
「木花咲耶姫ですね」
私がそう言うと、直子の目がわずかに細くなった。
「ええ。火と浄化の女神として、安産と子育ての守護神として、崇敬を集めています」純子が答える。
私は少し間を置いて、言った。
「木花咲耶姫は、ニニギノミコトの妃ですね。天孫降臨の物語に登場する」
「はい」
「天孫降臨……天之鈿女命という女神をご存知ですか?」
純子が首を傾げた。「天岩戸神話で、踊った女神ですよね」
「そうです。彼女は、卑弥呼や臺與とも深い関わりがあるとされています」
直子の表情が、わずかに変わった。
「卑弥呼……邪馬台国の女王ですね」と純子。
「ええ。卑弥呼は鬼道を操り、人々を支配した。彼女の死後、臺與という少女が女王になった。臺與は卑弥呼の姪とも言われていますが……実は、臺與は卑弥呼に対抗する神霊として、今も封印されているという伝承があります」
姉妹は顔を見合わせた。
「封印……ですか」と純子。
「宇佐八幡宮の内宮に、八咫鏡が奉納されている。そこに、臺與の神霊が宿っていると」
直子が口を開いた。「真中さんは、そういうことを研究されているんですか?」
「ええ。古代の神話と、現代の霊的な現象の関連性を」
私はお茶を一口飲んだ。
《《姉妹の反応》》
直子がゆっくりと口を開いた。「真中さん、あなたは……ただの研究者ではないですよね」その言葉に、悟が僅かに身を固くした。純子も妹を見る。
私は微笑んだ。「鋭いですね、直子さん」
「さっきから、あなたの周りに……何かがいる。私には見えます」
直子の目が、私をまっすぐに見つめている。幼い顔立ちだが、その瞳には確かな力が宿っていた。
「直子、何を言って……」と純子が妹を止めようとしたが、直子は続けた。
「お姉ちゃんには見えないかもしれないけど、私には見える。真中さんの後ろに、女の人の影が揺れてる。すごく強い……昔の、神様みたいな」
私は驚かなかった。直子には霊視の力がある。純子よりも強い力が。
「直子さん、あなたにも何かが宿っていますよ」私がそう言うと、直子の目が見開かれた。
「私に……?」
「ええ。あなたと純子さん、二人とも。木花咲耶姫だけではない。もっと古い、もっと深い何かが」
純子が戸惑った表情で私を見た。「真中さん、私たちに何が……」
「時任さん、お二人は最近、何か変わったことはありませんでしたか?夢を見るとか、突然何かの声が聞こえるとか」
姉妹は顔を見合わせた。純子が小さく頷いた。「……夢を見ます。炎の中で、誰かが踊っている夢。その人は、綺麗な着物を着ていて……」
「私は違う夢を見る」と直子が続けた。「鏡の中に閉じ込められている女の人。その人が、私に何かを伝えようとしてる。でも、声が聞こえなくて……」
私は息を飲んだ。純子に宿っているのは木花咲耶姫。炎の中で踊る女神。
そして直子に宿っているのは——臺與。鏡に封じられた、卑弥呼に対抗する神霊。
「お二人は、選ばれたんです」
私は静かに言った。
「木花咲耶姫と臺與。二柱の神霊が、あなたたちを器として選んだ。それは偶然ではありません。今、何かが動き始めている。卑弥呼の怨霊が、封印から解き放たれようとしている」
「卑弥呼の……怨霊……?」純子の声が震えた。
「ええ。そして、それを解放しようとしている者がいる」
私は窓の外を見た。境内には誰もいない。しかし、先ほどまで確かに誰かの気配があった。
「九鬼綾子という女です。彼女は、恭子という少女を使って、美久さんたち——あなたたちの友人を狙っている」
「美久さんたちを……?」
純子が驚いた顔をした。
「なぜですか?」
「美久さんたちの背後に、あなたたちがいるからです。時任姉妹。木花咲耶姫と臺與を宿す巫女が」
《《綾子の視点》》
その頃、本殿横の社務所の脇で、綾子が耳を澄ませていた。長身のビジネススーツ姿の女が、塀の陰に身を潜めて、二階の窓から漏れる声を聞いている。
コメダ珈琲店から出て、美久たち三人と別れた時任姉妹を綾子はつけてきたのだ。恭子は用済みだったので自宅へ返した。
時任姉妹が参拝客の男女と話していて、本殿横の社務所に入っていった。参拝客のような女は、長身でゴスロリ衣装を着た女だった。その女が綾子には気になった。
綾子の目が細くなった。
(あの長身のゴスロリの女……やはり、ただ者ではない。卑弥呼、臺與、天之鈿女命……そんな話を、神社の娘たちにしている。あれは……霊能者。しかも、相当な力を持っている)
綾子の肌に、ざわりと何かが走った。あの女から、強い気配を感じる。
恭子の中で感じた「強力なエネルギー体」——それが、あの女なのか。
真中真理子。東京大学の民俗学部門の助手と名乗っていたが、嘘だろう。あの気配は、学者のものではない。
(時任姉妹に、臺與と木花咲耶姫が宿っている……面倒なことになった。計画を急ぐ必要がある)
綾子は窓から聞こえる会話に集中した。
「九鬼綾子という女です」
真理子の声が、はっきりと聞こえた。綾子は息を飲んだ。
(私の名前を知っている……?恭子から聞いたのか。いや、それだけではない。この女、私の正体を見抜いている)
綾子の背筋に冷たいものが走った。
このままここにいるのは危険だ。真理子の力がどれほどのものか、まだわからない。下手に接触すれば、こちらの力が読まれる。
綾子は静かに身を引いた。足音を立てず、境内の外へと消えていった。
しかし、その目には確かな決意が宿っていた。
(真中真理子……あなたが敵なら、排除するしかない。時任姉妹も、美久たちも、まとめて)
《《真理子の警告》》
私は窓の外を見た。綾子の気配が、消えた。逃げたのか、それとも一時的に退いただけか。
「真中さん、その九鬼綾子という人は、今どこに……」純子が不安そうに尋ねた。
「さっきまで、この社務所の外にいました。でも、もういません」
「え……?」
直子が窓に駆け寄った。境内を見下ろすが、誰もいない。
「盗み聞きされていた……?」
「ええ。でも、それでいいんです。綾子に、私の存在を知らせる必要があった」私は立ち上がった。「時任さん、お二人にお願いがあります」
「何でしょう」
「しばらくの間、一人で出歩かないでください。特に夜。綾子は、恭子という少女を器にして、黒い想念を操っています。あなたたちを狙う可能性が高い」
「私たちを……守ってくださるんですか?」と直子。
「ええ。私の守護神が、あなたたちを守ると言っています」私は微笑んだ。
「それに、美久さんたちも巻き込まれている。私は、全員を守るつもりです」
純子が深く頭を下げた。「ありがとうございます。真中さん」
「お礼を言うのはまだ早いですよ。これから、本当の戦いが始まりますから」
私と悟は、社務所を出た。
境内を歩きながら、悟が小声で言った。
「真理子、本当に大丈夫なのか?綾子という女、相当な力を持っているんだろう?」
「ええ。でも、私も負けないわ」
私は富士塚を見上げた。頂上の浅間神社が、夕陽を浴びて赤く染まっている。
木花咲耶姫。臺與。そして、私の守護神。
三柱の力が、今ここに集まっている。
綾子、あなたが卑弥呼の怨霊を解放しようとするなら、私が止める。
私はそう心の中で呟いた。




