第15話 黒い想念
スピーカーフォンから聞こえてきた声は、恭子のものだった。だが、昔の彼女の明るく小賢しくて毒のあるトーンではなかった。精気のない、機械のような、かすれた声だ、と悟は思った。
「もしもし……どなたですか?」悟の顔が青ざめた。真理子も眉を寄せ、スマホに耳を寄せる。
「恭子!ぼくだよ、悟!吉澤悟だ!久しぶりだね?でも、声が変だよ、大丈夫かい?」
沈黙が数秒続いた。息遣いが聞こえるだけ。
「……悟?あぁ……ゴスロリ好きのリーマン……」声に少しだけ力が戻った。でも、まだぼんやりしてる。悟は慌てて続ける。
「恭子、どこにいるんだ?家か?今から会いに行っていいか?住所を教えて欲しい!」
また沈黙が。真理子が悟の腕を軽く掴み、目で「落ち着いて」と合図した。だが、悟は興奮を抑えられない。
「……私の家……北千住のマンション……テラスコープⅢの605号室……」と彼女が投げやりに自宅住所を言った。悟はすぐにメモを取り、電話を切る前に叫んだ。
「すぐ行くから待ってて!」
電話を切ると、悟は真理子を見た。
「真理子、一緒に来てくれ!恭子の声の調子は絶対おかしい!おかしいよ!」
真理子は少し考え、穏やかに頷いた。「ええ、行きましょう。嫌な予感がする……この子、何かに取り憑かれてるのかもしれない」
二人はバーから飛び出し、タクシーを拾って北千住へ急いだ。悟がGoogleマップで検索すると、テラスコープⅢの場所はすぐにわかった。運転手に道順を告げた。
夜の東京を抜け、マンションに到着した。エレベーターで6階に上がった。
二人はドアの前に立った。悟がチャイムを押す。真理子は少し後ろに下がり、周囲の空気を「感じて」いた。マンションの廊下に、黒い霧のようなものが漂っている気がした。
しばらくして、ドアがゆっくり開いた。玄関に立っていたのは、だらしないジャージ姿の恭子だった。髪はボサボサで、目は虚ろだ。肌は青白く、唇が乾いている。昔の小賢しい笑みはなく、まるで人形のように無表情だ。
恭子の視線が、まず悟に止まった。一瞬、目が少しだけ輝いた気がした。
「……悟……来たの……?」
だが、次の瞬間、恭子の目が真理子に移った。真理子の優雅なゴスロリ調の服装、長い黒髪、神秘的な美貌。
恭子の瞳が、わずかに揺れた。過去の記憶がフラッシュバックする。
(この女……あの写真の……真中真理子……?悟の元カノ……完璧な美少女……165センチの長身、巨乳の……私が一番憎い女……!なんで、ここに……?悟を連れて、私を嘲笑いに来たの……?クソォ……殺したい……この女を……)
黒いものが、恭子の頭の中で渦巻いた。恭子の唇が、かすかに震えた。声は出ない。でも、目だけが、憎悪の炎を宿したように真理子を睨んだ。
悟は気づかず、恭子の肩を抱こうとした。
「恭子!よかった、生きてて……声が変だったから心配で……」
真理子は一歩前に出て、恭子の目を静かに見つめ返した。真理子の守護霊が、恭子の周りに黒い霧のようなものを感知する。
(この子……何かに染まってるわ……強い黒い想念が……)
恭子は悟の腕を振り払い、ドアを閉めようとした。でも、力が入らない。体がふらつく。
「……来ないで……この女……真中真理子でしょ……?私を……見下しに来たのね」
悟が少し驚いて、恭子を見つめた。「恭子……真理子の名前を覚えてたのか……? あの時のことをまだ根に持ってたのか……?」
真理子は穏やかに微笑み、恭子に近づいた。
「恭子ちゃん。私を知ってるのね。悟から聞いたのね?でも、今日はあなたを助けに来たのよ」
恭子の目が、ますます黒く濁る。綾子の想念が、恭子の心を締め付ける。
(殺せ……この女を……黒く……染めて……)
恭子はドアを強く閉めようと体を預けた。「入らないで……!悟だけなら……でも、この女は……嫌……!」声が震え、力がないのに必死に抵抗する。ドアが少し閉まりかける。
悟が慌ててドアを押さえ、「恭子、待って!話を聞かせてくれ!」と叫ぶが、恭子は首を振り、涙を浮かべて拒否する。
真理子は静かに前に出た。恭子の虚ろな目を見つめ、穏やかだが強い声で言った。
「恭子ちゃん、怖がらないで。私は敵じゃないわ。あなたの中の『黒いもの』を、感じてるの……今、取り除いてあげる」
真理子は恭子の抵抗を優しく押しのけ、ドアを押し開けた。恭子は力なく後ずさり、玄関に崩れ落ちる。悟が支えようとするが、真理子が「待って」と制した。
真理子は恭子の前に跪くようにしてにじり寄り、恭子の背中に左腕を回して自分の方に引き寄せた。恭子の身体が弓なりに反った。真理子は恭子にのしかかるようにして、右手で恭子の顎を掴んで仰向かせた。
「恭子ちゃん、少し失礼しますわね」と囁くなり、真理子は恭子の唇に自分の唇を重ねた。深い接吻。真理子の凍てつくように冷たい唇が触れ、強引に舌が恭子の舌を絡め取り、執拗に探るように動き始めた。
恭子は驚いて体をこわばらせたが、次の瞬間、真理子の瞳が禍々しく金色に輝いた。真理子の舌が恭子の舌を強く巻き込み、息を吸い込むように想念を引き寄せる。恭子の喉がヒクヒクと波打ち、得体の知れない黒い『塊』が唾液とともにせり上がり、真理子の口内へと滑り込んでいく。悟の眼には、それはまるで黒い霧が恭子の唇から真理子の喉奥へ吸い込まれていくように見えた。
真理子は恭子の唇を離さず、静かに息を吸い込んだ。彼女の内で守護霊の舞が優雅に回り始める。鈴の音のような幻聴が響き、金色の光が恭子の体を包みこんだ。舞が、黒い塊を引き寄せ、真理子の喉奥へと完全に飲み込む。
黒い塊は真理子の体内で暴れようとしたが、舞の光がそれを絡め取り、封じ込める。完全に消えたわけではない。真理子の体が少し熱を帯び、肌が粟立つ。想念の残滓が、彼女の中に残っている。
真理子は恭子の口を離すと、彼女を抱きしめた。二人の口から唾液が糸を引いて滴っている。真理子は息を荒げながら、穏やかに微笑んだ。
恭子は激しく息を吐き、涙をこぼした。「……頭が……軽くなった……でも、まだ少し……黒いものが残ってる気が……何なの……これ……」
「恭子ちゃん、大丈夫よ。あなたの中の黒い想念はほとんど封じたわ。私の守護神の舞で、誘い出して飲み込んだの。でも、完全に除くには……もっと時間がかかるかも。あなたを操ってたものが……今は、私の中で眠ってる」真理子は恭子から離れた。
悟は呆然と二人を見つめていたが、恭子に近寄ると彼女を強く抱きしめた。「恭子……何があったんだ……?」と耳元で囁いた。
恭子は悟の胸に顔を埋め、震えながら呟いた。「……九鬼綾子……って女に……呪われたみたい……私、黒く……染められて……」
真理子の瞳に、わずかな黒い影がよぎった。想念の残滓が、彼女の中に残っている……。守護霊の舞が、それを抑え込んでいるが、完全ではなかった。




