9-1 両隣の世界は
ことの顛末の話をしよう。
当時の私は一切頭が回っていなかったけど、そもそもあそこは工事現場、それも地面に掘られた大穴の中だ。そこであれだけの大暴れ。なんなら足場に思い切り巨人の手を押し付けるなんてこともしちゃってた。だというのに、大穴から脱出して振り返ってみれば、そこには何事もなかったような採掘穴があるばかり。
そりゃ穴が崩れでもしたら大事故だけど、それはそれとして一体なぜ?
「そりゃあおまえ、地形記憶させておかねえと戦えんだろ」
はあ、ちけいきおく。
「その場の地形を……衝撃で元に……あー、とにかく。どれだけ暴れても元の形に戻るんだよ。そういう魔法をかけといた」
「それもドラゴンの力ですか?」
「元の世界じゃあよく使われる。エレナも使えるんだけど、アイツ焦ってかけ忘れてたから」
まぁ詳しいことは分からないけど、とにかく魔法の力ということなんだろう。なんとも都合が良い。でもその良い都合のお陰で事故もなく、工事にも一切の支障が出ずに済んだのだから何も問題無いのだ。うん。
じゃああれは?
「あれ?」
「帰る前に……穴の中覗いたら、砂の山がまるっと無くなってたじゃないですか。あれ」
「ああ、あれか。あれは知らん」
「えぇ? あれもドラゴンパワーとか魔法とかじゃないんですか」
「なんだその意味分からん名称は。とにかくあれはオレの力でもエレナの魔法でもない。オレ達が目を離した少しの間に何かが起きて、消えた。それしか分からん」
……なるほど。これもよく分からないけど、そういうことにしておくしかなさそうだ。仕方が無しに頷いて、私はポンプを押し込む。水槽の中から水が吸い取られ、傍らの容器の中に溜まっていった。
「手慣れたもんだなあ」
「水換えですか? まぁ、そうですね……もう何年もやってますからね」
「それだけやってりゃ見なくてもできるか」
「流石に見なきゃ無理ですよ。ある程度体に染みついてはいますけど」
「……染みついて、ねえ……」
しみじみと吐き出された言葉に、私はため息を吐いた。水も、よし、このくらいか。ポンプを抜き、容器と共に床に置いて、それから背後を振り返った。
ソファの上に、香箱座りで悠々と寛ぐ猫。
「……言いたいことあるなら言えばいいじゃないですか」
「いやあ……」
「乗り掛かった舟ですからね。もう、いいですよ。愚痴でも惚気でも、聞きますから」
「ああ、そう? じゃあ」
こほん、と猫は咳払いを1つ。
それからトン、とソファを降り、ととと、と距離を詰めてきて、ひょい、と棚の上に飛び乗り、
「……どうなってんだよエレナ、アイツはさあ!」
小声で叫んだ。本当に器用なドラゴンだ。
私は肩をすくめ、小さいブラシを手に取った。水槽を中から磨いていく。そんな私に構わず、テルモスさんは「うー」と猫の唸り声をあげた。
「あれだけ一緒に居たのに! あれだけ何度もオレのブレス見てきたのに! 分からんもんかな既視感ってやつがさあ!」
「あーほら、あれでしょ? 思い込んだら一直線なんでしょエレナちゃんって」
「だとしてもこれならって思ってたんだよ! ああもう、あんなことならさっさとあの腕噛んだのに。どうせアイツ、オレの牙を見たって気付かねえよ」
「腕? あぁ、巨人の。確かにあれ手で引き千切るの無理そうすぎましたもんね」
「そうだよ。くそ、なんだったんだよあの大変さは」
「まぁでも……」
表面を終えて次は側面。回り込んで、水槽越しにテルモスさんを見やる。
「自業自得ではありますよね」
テルモスさんは黙り込んでしまった。じとり、猫のジト目と視線が合う。ものすごく不満そうだけど、こうして何も言ってこないということは本人も自覚しているのだ。
「一応聞きますけど、このままいくんですね?」
汚れをブラシで拭きながら問う。
「……ああ」
猫はハッキリ答えた。
「少なくともこの世界に居る間は、オレはテルでいるよ」
「エレナちゃんはテルモスさんを探してるのに?」
「どうせテルモスが見つかった所で、元の世界に戻る方法が見つからなきゃどうにもならん。つまり、やることは同じなんだよ」
同じねぇ。
きゅっ、とブラシがガラスを擦り、音を立てる。最後に水槽の縁で水を切って、ブラシを引き抜いた。
「それで、その方法が見つかった後は?」
傍らに置いてあったもう1つの容器を持ち上げる。よい、しょっと。中々に重い。落とさない様に慎重に傾けた。ゆっくり、少しずつ、飛沫を立てないように……。そうして静かに、新しい水が水槽に注がれていく。
「そうなったらもう誤魔化しようがないしなあ」
「まだ誤魔化す気あったんだ……」
「そりゃそうだろ。アイツを傷つけたくないし、嫌がられたくない。嫌われたくないし捨てられたくもない」
「常々思ってましたけど、あんたってエレナちゃんのことに関してだけすっごいポンコツですよね」
「おまえなあ。言い方ってもんがあるだろ。もっと歯に衣着せるとかさあ」
「これでも着せてます。オブラートを何枚か」
水の流れる音が少しずつ小さくなる。水位を増していく水槽に、猫の姿が揺らめいて映っていた。
「言うよ、そん時は。包み隠さず本当のことを」
ぴちょん、最後に落ちた水滴が水面に波紋を作る。
「結局はおまえが言ってた作戦通りってわけだ」
「え? 私なにか言いましたっけ」
「オスのドラゴンとして出会い直せってやつだよ。オレはテルとして信頼を築き直して、それで真実を告白する。そうすればほら、アイツもオスのテルモスを受け入れやすくなるかもしれねえし?」
「……どうでしょうねぇ」
笑い交じりに告げた言葉に、猫がピクッと髭を震わせた。私を睨み、前足でちょっかいをかけてくる。
「おい、今から不安を煽るようなこと言うなよ」
「いやいや、そんなつもりはないですよ」
「今のがそんなつもりじゃないならなんだって言うんだ」
私はふわふわの前足をあしらい、蓋を手に取った。
「なんにせよ、私は応援しますよ。テルさん」
それを水槽に被せる。と思えば、廊下の方からパタパタと足音が近づいてきた。




