2-3 鬼の居ぬ間に洗濯
どこか夢見心地のままドアを開けると、西に傾きかけた日が一瞬光を放った。眩しさに目を細めて顔を反らし、正面を見る。切りそろえた生け垣が作り上げた影、その中で花奈が待っていた。
片足重心で立ちながら後ろ手を組み、もう片足をぶらりと振っている。どこか退屈そうに見える彼女に、私は家の鍵をかけながら声をかけた。
「花奈、行こっか」
「はぁーい」
ふにゃり、笑う花奈と連れ立って歩き出す。帰りのことを考えれば自転車を持って来れば良かったが、まぁ今更だ。
「駅で良いよね? どっか行くとこある?」
「なーい」
「おっけ」
坂を下る。ちらりと横を見ればすぐそこに花奈の顔があった。
つかず離れず、同じ位置にあるその笑顔は、私たちの歩幅と速度が変わらないことを示している。私は特に何も意識していないし、花奈も気を使うタイプじゃない。つまり、自然な歩き方が似ているのだ。これぞ幼馴染の妙。
「ちぁきちゃん可愛いねぇ~」
「え、なに急に」
「笑ってるから~」
「……うーん」
気恥ずかしくなって目を逸らすと、花奈が悪戯っぽく笑う。からかわれてる……けど、正直悪い気はしなかった。花奈の笑い方は空気を含むように軽い。だからかなんの含みも無く私の中に馴染んでいく。
花奈は神出鬼没で、自由で、自分勝手で我儘で、やっぱり呼び方は「ちゃき」にしか聞こえないし藤崎のことを覚える気も無ければ見知らぬ王様のことを「なんか」呼ばわりしてちゃんと自己紹介もしない。こうして挙げると中々にロクでもない子なのだけど、それでも、そんな花奈こそが私にとって唯一無二の幼馴染なのだ。隣を歩くことが当たり前の存在。会話も無く、閑静な住宅街の道を行く。気まずくなりがちなこの状況が特に気にならない、そんな相手は花奈だけだ。
多分、花奈がなにもかもを気にしていないと分かっているのが大きいんだろう。それくらい花奈とは長い仲で、お互いを分かり合っている。
だからこそ、親しき中にも礼儀あり、とはよく言ったものだ。
「花奈」
「な~に~」
花奈は空を見上げながら間延びした返事をする。そんな彼女に、私は目を伏せた。
「あのさ、さっきの……あの人のこと、黙っててごめん」
視界の端で花奈の髪が揺れるのが見えた。じり、と額の辺りを視線で焼かれている心地。
花奈と私は気の置けない仲だ。だから、というわけではないが、実は殆ど喧嘩という喧嘩をしたことがなかった。
私が本気で嫌がることを花奈はしないし、私の言動に花奈が怒る事も無い。そんなわけで、こういうやり取り自体久しぶり、というか。花奈相手に、じゃれ合いではない謝罪をするのは実に何年ぶりだろう。
先程まで至って自然だった沈黙が、急に重みを持って圧し掛かってきていた。黙ったままの花奈の表情が気になるような、見たくないような。
「は、花奈」
唾を飲みこみ、恐る恐る視線を上げる。
花奈は……
「わっ」
と、思わず驚きの声が出た。
私が顔を上げた瞬間、そこを狙って花奈がポスン、と自身の頭を私の肩口に埋めたのだ。
突然のことに思わず一歩後退る。咄嗟に出した両手で彼女の肩を掴み、後頭部を見下ろした。
花奈はなにかを唸りながら、ぐりぐりと頭を押し付けてくる。綺麗に巻かれた猫耳ヘアーが私の首を擦って少しくすぐったい。
「花奈? どうしたの」
「ん~」
「なんなんだ……」
私は困惑しきってしまい、ぽん、と彼女の背を叩いた。花奈の謎行動には慣れたつもりだったが、やっぱり謎な物は謎だ。なによりこんな住宅街のど真ん中でするようなことじゃない。ご近所の誰かに見られたらどうするつもりなんだろう。花奈は良いけど、困るのは私だ。
「ねぇ花奈、そろそろ」
「ちぁきちゃん」
言いかけた私を花奈が遮った。
花奈は私の肩に頭を預け、顔を傾けてこちらを見上げてくる。甘えた猫のような姿勢。
「今回はいいよ。許してあげる」
「……あ、うん。ありがとう……」
「隠し事だって別にしてもいいよ。それも許したげるね」
「どうも……」
「でもね」
そこで花奈は言葉を区切った。
ぱっちりとした目が、じぃっ、と私を捉えて離さない。瞬きも忘れたようなそれに、知らず唾を飲み込んだ。
「ハナを一番にするんだよ。それが条件」
分かった? とすり寄る花奈に、私はゆっくりと頷いた。
途端、花奈は満足気に目を細めると、もう一度私の肩に頭を擦りつけた。それからするり、と、これまた猫のように私の腕をすり抜けていく。
「じゃあ行こっ」
ステップを踏むように先を行く花奈の背に、私はひっそりと息を吐いた。
花奈だ。
いつも通りの花奈。
当たり前なのだけど、それでも少しだけ安心した。
あの時、王様のことでヒートアップした花奈に詰め寄られた時。
影が落ちた花奈の顔。間近に迫るそれは実に見慣れたもののはず、だったのに。
あれはまるで、見たことが無い人の顔のようだったから……少しだけ、不安感が心にあった。
「ちぁきちゃんはやく~」
でも、こうしてちょっと話しただけで分かった。
花奈は花奈だ。私の日常の象徴のような子。
「花奈、後ろ向きで歩いてたら転んじゃうよ」
「大丈夫! ちぁきちゃんが居るからね」
「じゃあもっと近く歩いてくれないと助けらんないって」
「走って来てよ~!」
小さく笑いながら、私は駆け足で花奈の後を追った。




