安田の手土産
金曜日の定時過ぎ。
全ての仕事を終え、ビジネス鞄に必要な書類とペンケースを滑り込ませて帰ろうとしていると、営業所の出入り口付近の、薄暗い廊下に不意に懐かしい顔を見つけた。
……安田、だよな?
思わず自分の目を疑い、足が止まる。俺が戸惑った理由は、あいつの纏っている雰囲気が、普段の記憶にあるものとはまるで違っていたからだ。
いつもなら俺の姿を見つけるなり、「成瀬さ〜ん!」と、輝かしい笑顔を弾けさせてこちらに全力でやって来る。
先日の転職話をメッセージでバッサリ断ったから、気まずくてあんな顔をしているのか――いや、それにしては顔色が悪すぎる。
「お疲れ様です」「お先失礼しまーす」の挨拶がざわざわと飛び交う賑やかなフロアを、安田はまっすぐに進んできた。
俺の視線に気づいた安田は、いつも通りの軽い挨拶を返すこともなく、神妙な、どこか怯えるような面持ちで、床をカツカツと硬い音を立てて足早に近付いて来る。
そして、俺の目の前でピタッと正確に足を止めると、周囲の社員の目を激しく気にする素振りで耳元にぐいと顔を寄せ、誰にも聞かれない極小の声で囁いた。
「……成瀬さん。今すぐ、奥のミーティング室に来てください」
安田は元々、ここで一緒に汗を流して働いていた俺の可愛い後輩だ。だからこそ、この営業所のことは誰よりもよく分かっている。この時間になればミーティング室が確実に空くことも、フロアの人間が一気に減ることも、あいつはすべて計算した上で、この絶妙なタイミングを狙って潜入してきたのだ。
……ただ事ではない。
そう本能で察した俺は、言われた通り鞄を握りしめたまま、安田の後を追ってミーティング室へ入った。
重い防音ドアを閉め、カチャリと鍵が閉まる音が静かな部屋に響く。
机を挟んだ対面、椅子に座りもしないで立ち尽くしたまま、安田が喉をゴクリと鳴らして話し出した。
「成瀬さん。内密で話があるんです」
「え……あ、ああ……分かった」
いつになく真面目に、そして恐怖に震えるような表情を浮かべる安田の瞳から、目の前にある危機が、とんでもなく深刻な事態なのだということだけがダイレクトに伝わってくる。
気心の知れた、かつての後輩である安田が相手だというのに、俺は自分の背中に、いささか強烈な緊張の冷や汗がじんわりと溢れていくのを止められずにいた。
安田は、ミーティング室のすりガラス越しに廊下の様子を一度激しく警戒するように見やってから、意を決したように静かに口を開いた。
「実は、俺が働いている会社の共有サーバーの中に、ここの営業所の顧客データのファイルが存在していたんですよ」
「何……!? どういうことだ、それは!?」
突如として投げ込まれた爆弾のような事実に、俺の声は思わず低く上擦った。
安田はローテーブルに両手を突っ張り、苦しげに視線を落としながら、吐き出すように答える。
「きっと、俺以外の他社の人間がそのファイルを見たとしても、ただのありふれた顧客のリストにしか見えないでしょう。
……だけど、ここで働いていた俺だからこそ、一目で分かった。あの名前の並び順、契約している機械の型番、そして何より――リース機器の『プロット番号』までがびっしりと書き込まれていたあのデータは、明らかにこの営業所のシステムでしか知り得ない、門外不出の機密データです」
お互い、用意されているパイプ椅子に腰掛けることすら忘れて、机を挟んで立ち尽くしたまま会話を続ける。
窓の外の夕闇が、ミーティング室の白い蛍光灯の光をより一層冷たく際立たせていた。
「そうか……。この営業所を知っているお前がそこまで言うなら、間違いなく本物なんだろうな……」
あまりの衝撃の重さに、俺は目眩を覚えるようにして、思わず背後の冷たい壁に背中を預けて寄りかかった。
俺は壁を背にしたまま、喉をゴクリと鳴らして安田に目をやり、恐る恐る口を開いた。
「ということは……」
安田も俺のその動揺を隠しきれない視線に応えるように、今度は逃げることなく、真っ直ぐな、そして酷く真剣な眼差しをこちらへと返してきた。
「ええ……そういうことです」
熱のない床に、投げ捨てられたビジネスカバンが静かに佇んでいる。




