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35歳の俺が上司ざまぁしたり、大人って案外楽しいぞと気づいたりする話  作者: VANRI


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未来へ向けて

 あさひは、ローテーブルの対角線上でずっと呆然としていた高橋へも、意を決したようにその視線を向け、震える声を絞り出した。


「高橋さん。私、あなたが思っているような完璧な人間なんかじゃないんです。

 ずっと、こんな大きな秘密を隠して嘘をついて生きてきた。

 ……私と一緒にいるってことは、これから先、この過酷な病気と一緒に生きるってことなんです。だから……」


 そこまで言って、あさひは次の言葉をどうしても紡げなくなった。

 その代わりに、彼女の大きな瞳から大粒の涙が、堰を切ったようにポロポロとこぼれ落ちていく。


 ――無理をしてまで、こんな面倒な自分と一緒にいる必要はない。


 あさひはきっと、男のプライドを傷つけないためにそんな拒絶の言葉を口にしたかったのだろう。


 だが、出会ってまだ間もないというのに、あさひにとって高橋は、もう簡単に手放したくないほど大切な存在になりつつあったのだ。


 だから、離れたくない。

 だから、その決定的な別れの引き金になるかもしれない次の言葉が言えないし、絶対に言いたくなかったのだ。


 あさひの張り裂けそうな胸の内を考えると、見守る俺の心臓までが、まるで手でぎゅっと握り潰されたかのように苦しくなった。


 高橋はしばらく静かに目を伏せがちにしていたが、ゆっくりと顔を上げ、今まで頑なに閉じていた重い口を開き始めた。


 「……さっきのショッピングモールで君が突然倒れた時、俺はただ突っ立っているだけで、何一つ出来なかった」


 あいつの声は、静かにリビングの空気を震わせる。


「なのに、隣にいた成瀬はすぐに何が起きたかを察して、テキパキと的確に動いてさ。

 ……俺、本当に成瀬のこと凄いって思った。同時にさ、君を抱いて救護室へ走って行く成瀬の後ろ姿を見て、猛烈に嫉妬したんだ。君がすぐ目の前であんなに苦しんでいるっていうのに、俺はただただ、自分の無力さと比べて嫉妬してた」


 高橋はそこまで言うと、自分の過去の不甲斐なさをすべて吐き出すように、深く、深く息を吐いた。


「その後さ、救護室の前で待ってる時、自分でも抑えられないくらいの怒りが沸々と湧いてきたんだ。それは、成瀬に君を勝手に連れて行かれた悔しさからじゃない。

 君が一番辛くて苦しんでいるその瞬間に、隣にいながら『何も出来ない自分』に対してだ……」


 そこまで一気に告げると、高橋は床から立ち上がり、ゆっくりとあさひのすぐ隣の床へと腰を下ろした。


 あさひは、高橋のその一挙手一投足の姿を少しも見逃すことがないようにと、涙を溜めた瞳で瞬きもせずに必死にその姿を目で追っていた。


 やがて、二人の至近距離で視線が完全に重なり合った、その瞬間。


 あさひの胸に顔を埋めていた佐伯さんが、すべてを察したようにそっと妹の胸から体を離し、一歩後ろへと下がった。


 あさひは今、高橋の姿を真正面に捉えている。

 高橋は微笑みを浮かべながら、あさひの白く小さな両手を、大きな手のひらで今度は優しく、壊れ物を扱うように包み込んだ。


「俺は、君を支えたい。

 ……君がこの小さな手で、自分自身に痛みを耐えながら針を刺さなきゃいけない時。

 これからは必ず俺がそばにいて、その痛みを、この手で少しでも癒やしてやりたいんだ」


 熱い想いを真っ直ぐにぶつけ終え、あさひの丸くなった目を見つめた瞬間、高橋は突然我に返ったようにハッとして、柄にもなく顔を真っ赤にして照れ笑いを浮かべた。


「……あはは。なんか、ちょっとカッコつけすぎたかな、俺」


 だが、あいつがそう言い終わるよりも早く、あさひは高橋の広い胸の中へと勢いよく顔をうずめていた。


 そして、泣きながら何度も何度も激しく首を横に振る。


「カッコ……す《・》ぎ《・》る《・》んだよ……っ」


 高橋はフッと愛おしそうに笑うと、腕の中の小さな身体を、世界で一番大切な宝物を受け止めるように、力強く抱き締めた。


 その光景を見ていた佐伯さんは、再び目から大粒の涙を流し始めた。

 だが、その涙はもう、さっきまでの絶望や同情、悲観の涙などでは決してなかった。最愛の妹が最高のパートナーに見初められたことを祝福する、心からの「喜びの涙」であることは、誰の目にも明らかだった。


 俺はそっと、膝を突いて泣いている佐伯さんのそばに寄り添い、その華奢な肩を自分の腕で優しく抱き寄せた。

 

 佐伯さんは俺の体温を感じて、安心したように俺の肩に頭を預けてくる。


 外で始まった、激しい夕立ち。

 いつの間にか雨はあがり、分厚い雲の隙間からは、夏の夕暮れの美しいオレンジ色の夕陽が、リビングの床を温かく差し込んで照らし出していた。


 あいにく、空に期待していたような綺麗な虹は見えなかったけれど、

 今の俺たちのいるこの部屋には、そんな奇跡の虹を遠くから眺めるよりも、何倍も価値のある温かい輝きが、優しく溢れかえっていた。


 

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