新たな問題への覚悟
「そうか……」
完全に静まり返った所長室。所長室の外も、もう皆帰ってしまったようで音すら聞こえない。
重厚な木製のデスクに両肘をつき、自身の頭を深くうなだれるようにした姿勢のままで、高橋が重い溜め息とともに、掠れた声を絞り出した。
安田から聞いた「プロット番号の流出」という動かぬ証拠。それを俺の口から伝えた瞬間、いつもなら飄々としているあいつが、目に見えて崩れ落ちるようにして完全に動きを止めたのだ。
――プロット番号が漏れてる以上、ただの書類の紛失じゃない。社内のメインシステムから直接データが抜かれた可能性が極めて高くなる。
部屋を優しく冷やすはずのクーラーの機械音が、今はまるで氷を押し付けられているかのように冷酷に響いている。
高橋は背に夕闇の影を落としたまま、おもむろに立ち上がると、背後にある鍵のかかったキャビネットの引き出しを開けだした。
カチャリ、と金属の冷たい音がして、中から一枚の小さなカードを取り出す。そして、それをデスク越しに俺の方へと差し出した。
「この件の調査はお前に一任する。これを使え」
その小さなプラスチックのカードを受け取りながら、手元に目を落とす。今まで見たことのないそのカードの表面には、数字と英語が不規則に混ざり合った文字列が記載されていた。
「これは……?」
「この営業所内にある、すべてのパソコンのデータにアクセス出来るマスターのログインIDとパスワードだ。
しかもこれは特殊で、ログを消した痕跡すら見つけることができる」
「え……? そんな重要で機密性の高いものを、本当に俺に任せていいのか?」
思わず、受け取ったカードを握る指先に冷たい汗が滲む。
高橋はまた、革張りの椅子に深く腰を下ろした。
そして、見たこともないほど険しい顔をして、ゆっくりと口を開いた。
「……成瀬。なぜ安田が、所長である俺じゃなく、お前個人にこの話を打ち明けたか分かるか?」
「それは……俺とあいつに、個人的な先輩後輩としての付き合いがあったからだろ?」
「それだけじゃないだろうな……」
高橋が大切に、大切に、一文字ずつ重みを置くようにして言葉を発していく。
高橋の放つただならぬ圧迫感から、事の重大さがじわじわと伝わってきて、俺の胸に強烈な緊張が這い上がってきた。自然と、自分の背筋がピンと真っ直ぐに伸びていく。
高橋はうなだれた姿勢から、ゆっくりと俺を見上げ、その鋭い視線を真っ直ぐにぶつけてきた。
「安田はな、ここのトップである俺のことすら疑ってるってことだ」
「は……?」
高橋の言っていることの恐ろしさに脳が追いつかず、俺は慌てて頭をフル回転させ、安田にミーティング室に呼び出されたあの瞬間からの会話を最初から組み立て直す。
高橋はデスクの上の自分の拳を、骨が白く浮き出るほどきつく握りしめた。
「まあ、お前はこうやって、俺に真っ先に報告してきた。だから、お前が犯人じゃないということだけは分かる。
もしお前が犯人なら、安田から聞いた時点で情報を揉み消しに走るはずだからな……」
そしてまた、高橋の祈るような、それでいてすべてを斬り捨てる覚悟を決めた孤高の瞳と、視線がカチリと交差した。
「成瀬。これからこの営業所の全員を疑え。普段どんなに仲が良いとか、プライベートの顔を知っているとか、そんな甘いものは一切関係ない。
たとえお前の――大切な恋人であっても、友人であってもだ。その冷徹な覚悟がないと、このオフィスに潜む本当の犯人は見つけることが出来ないだろう。
……いいか? 俺も疑え。俺のことも」
俺の背筋に、雨上がりの夜風よりも冷たい悪寒がゾクッと走り抜けた。
――――――
――やるしかない。
心の中でそう呟き、俺は高橋から受け取ったマスターカードをスーツのポケットの奥深くへと仕舞い込んだ。
もう、それしか道はないのだ。
まずは、メインサーバーに残された膨大なアクセスログを徹底的に調べる。
だが、他の社員がフロアにいる平日の日中にそんな怪しい作業を進めるわけにはいかない。調査ができるのは、必然的に誰もいない夜遅くか、あるいは皆が休みを謳歌している土日祝のオフィスだけだ。
ただでさえ気が遠くなるような作業なのに、動ける時間は極限まで限られていた。
だが、一刻の猶予もない。俺がここでグズグズと足踏みをしている間にも、また次の重要機密や顧客データがライバル他社へ抜かれる可能性だってあるのだ。
安田の会社で見つかったあのデータが、一体いつの時点で盗まれたものなのかもまだ正確には予測できない。
俺はとりあえず、メインシステムへアクセスした人間のログを、直近の日付から力技で一本ずつ遡って追っていくことにした。
だが、一体誰が――。
この見慣れたオフィスのどこかに、確実に存在する、まだ見えない『誰か』の影。
犯人を特定する気は当然ある。だが、あいつらの誰かが裏切り者だと確定してしまう瞬間の恐怖から、特定したくない、嘘であってほしいと願う弱い気持ちが少なからず自分の中にあることも、今の俺には否定できなかった。




