オフィスとラブ
――ガヤガヤと、オフィスの中にどこか落ち着かない、だけど少し浮き足立った空気が流れ始める。
午前中の電話ラッシュがようやく収まり、パソコンのキーボードを叩く音だけが響く、お昼休み直前の静かな時間。
営業部のフロアに突然、女性の、驚くほど高くてハッキリとした凛とした声が響き渡った。
「斗真さん!!」
耳を突き抜けるようなその響きに、俺は愛用のペンを握る指先をピタリと止めた。
……その声だけで、誰だかすぐに分かった。
あさひだ。
そもそも、社内で高橋のことを『斗真』と下の名前を知っている社員なんて、基本的にはほぼいない。だから、突然フロアに響き渡ったその聞き慣れない名前に、一体誰のことだと困惑して辺りを見回す奴ばかりだ。
誰かわかって振り返る人間なんて、この営業所内には、俺と――そして、もう一人の『あの人』以外には、存在しない。
「え、誰……? 所長のこと……?」
フロア全体がざわっと波打つように一瞬で静まり返り、社員たちの好奇の視線が一斉に出入り口へと集中する。
だが、あさひはそんな周囲のノイズには一ミリも目をもくれなかった。
今日も櫛でサラサラにとかされた美しい金髪をなびかせ、他社との打ち合わせ用だと言っていた、真っ黒のタイトスーツをビシッと身に纏った彼女は、大人の女性として背筋をピンと完璧に伸ばし、リノリウムの床にカツカツと心地よく、だけど圧倒的な存在感でヒールの音を鳴らしながら、満面の笑顔でまっすぐ歩いてくる。
あさひの目的地は、勿論、営業所のトップである高橋だ。
言われた側の高橋はと言えば、部下たちの前で突然名前を呼ばれて動揺するどころか、持っていた資料をデスクに置き、愛おしそうに目を細めてあさひの歩いてくる様子をただじっと見つめている。
白昼堂々のあまりの熱烈なアピールっぷりに、見ているこっちの胃が痛くなりそうなほどあてられてしまう。
おいおい、高橋、お前もデレデレしてないで少しは隠せよ……
俺が心の中で苦笑しながら、その二人の甘い光景から視線を逸らそうとした、その時だった。
――ゾクッ。
昨日の夜、誰もいない所長室で感じたあの冷たいクーラーの風よりも、何倍も禍々しく凶暴な悪寒が、俺の背筋を真っ直ぐに駆け上がった。
嫌な予感がして、反射的に視線を走らせる。
あさひの後ろ姿の、その斜め後方。事務スペースのハイカウンターの物陰。
書類をトントンと揃えながら、こちらへ向けられている瀬戸さんの、あの張り付いたような『仮面』の笑顔。
その仮面の奥にある彼女の瞳は、一切の光を通さないほど真っ黒に濁っており、高橋の元へと笑顔で進むあさひちゃんの背中を、まるで呪い殺さんばかりの、凄まじい嫉妬の視線でギロリと睨みつけていた。
あさひは高橋が立っている所へ着くと、持参した仕事の資料のような書類を広げ、真面目な顔で説明しながら手渡し始めた。
会話の内容こそビジネスのそれだったが、お互いを見つめ合う視線の甘さや距離感は、もう周囲の誰も邪魔することのできない、完璧な『二人の世界』そのものだった。
所長室に案内すれば二人きりになれるのに、敢えてそうせず、会話内容がすべて筒抜けのフロアで話している。
かつて不倫という日陰の関係に身を置いていた高橋が、この金髪スーツの女性に対してだけは、いかなるやましさも隠し事もなく、誰の前でも真っ直ぐで誠実な男でありたいと、所長としてのケジメを背中で示しているようだった。
狼狽えていたドライブの時から一転、本命の前に立つとどこまでも男前になる悪友の姿に、俺は「本当にいい男だな」と改めて強烈な好感を抱いてしまうのだった。
フロア中の社員が遠巻きにその光景を呆然と眺める中、俺のすぐ横に、いつの間にか後輩の藤田が音もなく立っていた。
「あの二人……いつの間に付き合ってたんですか……?」
藤田は大きな目をさらに丸くして、完全に二人の姿に目を奪われていた。
藤田はあのプレゼンのコンペであさひに会ってからまだ日も浅いので、金髪スーツの彼女のインパクトをはっきりと記憶していたらしい。
「どうだろうなぁ……。何だ藤田、気になるのか?」
あまりに真剣に、食い入るように二人を見つめているので、俺は張り詰めたオフィスの空気をほぐすように、ちょっとからかったトーンで聞いてみた。
藤田は同性が好きな男だ。だから、もしかしてあさひにではなく、いつも完璧で格好いい高橋所長の方に密かに憧れていて、それで嫉妬しているのかな――なんていう雑念が、一瞬だけ俺の頭をよぎる。
俺の言葉にハッとした様子で我に返り、藤田は長い睫毛を揺らしながら、俺へと視線を落とした。
「いえいえ! 滅相もないです! なんだかあの二人、物凄くお似合いだなあと思って……。
――あっ! それに俺、社内では何があっても絶対に『成瀬さん推し』ですから!」
藤田は胸の前で小さく拳を握り、いつもの人懐っこいカラッとした笑顔を向けてくる。
成瀬さんを裏切ったりしませんよ、という後輩なりの可愛いアピールだ。あいつのその曇りのない笑顔を見ていると、こちらの強張っていた肩の力が少しだけ抜けていくのが分かった。
だが、満面の笑みのまま、嬉しそうに言葉を続けたその瞬間、俺の胸の奥に、じんわりとした温かい気持ちが広がっていった。
「また近いうちに、立石さんと俺の彼氏の翔太と、四人で飲みに行きましょうね!
こないだ話した時、立石さんも『成瀬さんが来るなら、俺もまた行こうかな』って、乗り気だったんですよ〜!」
……立石さん、本当にいい人だよな……
以前は仕事を押し付けてくるカタブツな主任だと思って、話す時にも無意識に眉間に皺を寄せてしまっていたけれど、今は違う。
藤田が大学時代、同性愛者であることを周囲に冷たく嘲笑われ、深く傷ついていたあの暗い過去。
それをこの営業所で誰よりも心配し、不器用な態度の裏で必死に守ってくれたのが、事務主任の立石さんだった。
その優しさを知って以来、佐伯さんから「最近、立石さんの話をする時、笑顔になりますね」と言われるくらい、俺の中で立石さんへの信頼と好意は確かなものになっていた。
「ああ。そうだな。立石さんもそう言ってくれてるなら、落ち着いたらまたみんなで美味い酒を飲みに行こう」
俺は心からの本物の笑顔を、藤田に返し直した。




