オフィスとワーク
不覚にも、フロアの真ん中で展開されている高橋とあさひの二人の世界にすっかり目を奪われてしまい、自分の作業の手が完全に止まっていたことに気づく。
隣にいた藤田が「じゃ、俺仕事戻りますね!」と軽く頭を下げて自分のデスクへ帰っていったので、俺も慌てて我に返った。
自分の仕事に目を戻し、デスクの上に置いてあった他部署への提出書類を手に取って、廊下の向こうにある事務部のエリアへと足を運ぶ。
事務スペースを仕切るハイカウンターまで行き、ふと、いつもよりフロアの中の人間が極端に少ないことに気がついた。
残っている数少ない事務職の女性たちも、デスクで楽しげに雑談を交わしていたり、コンビニの弁当を広げて食べていたりしている。
どこからか漂ってくる、温かいお茶と焼き魚の弁当の匂いにハッとする。
俺は嫌な予感がして、慌てて左手首の時計に目をやった。
あー……しまった。もう十二時を過ぎてる、完全に昼休憩の時間じゃないか……
この書類は今日中に回せばいいだけの、大して急ぎでもない用件だった。
それなのに、さっきの目の前で起きた高橋たちの電撃展開にすっかり気を取られていて、今が何時なのかすら何も考えていなかった。お昼を前に浮き足立っていた自分に、少しだけ心の中で反省する。
せっかくの貴重な休憩時間を、営業部の俺せいで邪魔してしまっては申し訳ない。
俺は事務の人たちに気づかれないように、そっと足音を消しながら、ハイカウンターの上から書類を引っ込めて去ろうと背を向けた。
「成瀬さん、それ、俺がもらいますよ」
背後からかけられた、低く落ち着いた声の方を振り返った。そこに立っていたのは、事務主任の立石さんだった。
本来、この会社では同性の年下のやつに対しては、親しみを込めて『君』付けで呼ぶか、あるいは呼び捨てにするのがいつもの決まりだった。
だが、俺は立石さんのことを、勝手に自分と同じ歳くらいだと思い込んでいたのだ。
そのため、初めてまともに言葉を交わした最初の日からずっと、自然と「さん」付けで呼んでしまっており、今更呼び方を変えるタイミングを失ったままこの関係が定着していた。
「立石さん……! すみません、大丈夫です!
全然急ぎの書類じゃないですし、せっかくの休憩時間ですから、また午後にでも出し直します」
俺が慌てて書類をカバンのように胸に抱えて遠慮すると、立石さんはいつものカタブツそうな面のまま、ぼそっと静かに呟いた。
「大丈夫です、このくらい。すぐ終わります。
今ここで中身を確認しますので」
そう言って、ハイカウンター越しに躊躇なくすっと白い手を伸ばしてくる。
もし、少し前の俺であれば、このぶっきらぼうな態度に対して「なんだ、相変わらず愛想のないやつめ」とでも思って、心の中で小さな不満を溜めていただろう。
だが、先日の藤田を交えた飲み会で、立石さんの隠された不器用な本性を深く話したこともあり、今となってはこの愛想ゼロの冷淡な態度すら、不器用な男なりの誠実さなのだと、何とも思わなくなっていた。
立石さんは男にしては少し背が低めなこともあり、俺がその手元を見ようとすると、自然と上から見下ろすような形になってしまう。
立石さんは俺の差し出した書類を素早くめくって見終わると、そのままカウンターに置いた資料の該当箇所を人差し指でトントンと指さしながら、冷静に説明を始めた。
「ここ、と、ここ。記載が間違っているので、営業部の方で訂正をお願いします」
一切の温度のない平坦な声。もちろん笑顔の欠片もなく、いつものように淡々と事務的に説明される。
普通なら萎縮してしまいそうなその冷たい空間で、俺は胸の奥を温かいもので満たしながら、つい、悪戯っぽく微笑んで口を滑らせていた。
「立石さんって……本当に、優しいですね」「は……!? 何を、言って……っ」
完全に虚を突かれたのだろう。驚いた顔の立石さんがガバッと勢いよく顔を上げ、その弾みで、眼鏡の奥に隠された黒い瞳と、俺の視線がやっと真っ直ぐにカチリと合った。
いつも鉄仮面のように無表情を貫いているその顔が、今はお手本のように狼狽え、動揺を隠せないその表情には、誰の目にも明らかなほどの真っ赤な『照れ』が透けて見えている。
いつも仏頂面の彼から、そんな人間らしい可愛い表情を引き出せたことが、なんだか無性に嬉しくなる。
だが、俺はあえてそれに気づかないフリをして、いつもの余裕のある笑みを少しだけ深くしてみせた。
「分かりました。大急ぎで訂正して、また後からちゃんと持って来ます。貴重な休憩時間に対応していただいて、ありがとうございました」
俺はカウンターの上の書類をスマートに回収すると、まだ眼鏡の奥でパチパチと瞬きをしながら硬直している立石さんに背を向け、軽快な足取りで営業部のフロアへと戻り始めた。




