昼飯は大事
立石さんとの会話を終え、書類を抱えて営業部のフロアに戻る途中、通路の真ん中で、瀬戸さんがまるで俺の行く手を完全に阻むかのように立っていた。
その濁った目は、未だにフロアの奥で楽しげに書類を広げている高橋とあさひの姿を、執念深くギロリと睨みつけている。
……瀬戸さん、お昼休憩してなかったのかよ……
当然、そんな失礼なツッコミを口に出せるわけもないので、それを自分の胸の奥にそっと仕舞い込み、何事もなかったかのように彼女の横を通り過ぎようとした。
ほんの少し手を伸ばせば触れてしまうほどの至近距離。俺は自分の身体が彼女に接触しないよう、細心の注意を払いながら身体をすり抜けさせる。
その一瞬、彼女が身に纏う独特の上品な、だけどどこか濃厚な女性用香水の匂いが、夏のぬるい風と共に俺の鼻腔を強く掠めていった。
俺が歩く時に起きた僅かな風で、瀬戸さんのウェーブのかかった長い髪が、さらっと冷たく揺れる。
「何あれ。ガキじゃあるまいし」
すれ違いざまに放たれた、明らかに鋭いトゲがある、ひどく嫌な言い方。
その低く冷え切った声の圧に押されるようにして、俺は思わず、その場でピタリと足を止めてしまった。
――しまった。聞こえないフリをして、そのまま素通りすればよかった……
反射的に瀬戸さんの方を振り返り、不意にその真っ黒な瞳と視線が合ってしまった瞬間、俺は心底自分の判断を後悔した。
あの休日出勤のオフィス以来、瀬戸さんは高橋に対しては、何事もなかったかのように普通の「職場の事務員」として接している。
だが、俺に対してだけは、冷淡な態度をとるようになっていた。
でも、俺はそれでいいと思っている。あいつが、別れた高橋に対して陰湿な嫌がらせや復讐をしないのであれば、それで十分だ。
高橋にぶつけられない分のドロドロとした八つ当たりを、友人の俺に冷たい態度として向けてくるというのなら、そっちの方が何倍もマシだと思った。
俺は咄嗟にビジネス用の愛想の良い笑顔を顔面に貼り付けると、目の前の瀬戸さんに、しっかりと焦点を合わせて言い返した。
「本当ですね。初めて恋人が出来た中学生みたいですよね」
瀬戸さんは、まさか俺の口から高橋を裏切って自分に同調するような言葉が返ってくるとは夢にも思っていなかったのだろう。
「えっ!?」と、完璧に計算が狂ったような、ひどく間の抜けた顔を晒した。
俺はその隙を見逃さず、張り付けた笑顔のまま、さらに言葉を重ねた。
「周りが見えなくなっちゃって。
……でも、素直で可愛らしくて、見ててなんだか癒されますよね」
瀬戸さんは瞬時に、強烈なカウンターの罠に嵌められたのだと理解したのだろう。張り付いた『仮面』のような笑顔が、怒りと屈辱によって、崩れていくのがよくわかった。
俺が瀬戸さんの張り付いた仮面のひび割れをすぐ目の前で目撃していると、当の本人たち――高橋とあさひが、何やら親しげに話しながらにこやかに、こちらに向かって歩いて来ているのが目に映った。
瀬戸さんはフンと鼻で笑うと、すれ違いざまに俺をもう一度冷たく睨みつけ、そのまま給湯室の方へとヒールを鳴らして去っていった。
入れ違いに俺の横を通り過ぎようとした瞬間、高橋からいつもの悪びれない明るい声で声をかけられる。
「成瀬。俺たち、今から外に出るから」
「あーそうですか、そうですか。真っ昼間っからオフィスでイチャついて、そのままデートとは、一般社員としては羨ましい限りですねぇ」
お目当ての佐伯さんに会えなかったガッカリ感も手伝って、俺は二人の顔を見ながら、わざと皮肉をたっぷり込めた言葉を投げ返した。
すると、二人は顔を見合わせて「あはは!」と声を上げて楽しそうに笑った。
高橋が肩をすくめながら、俺に目を向ける。
「違う、違う。デートなんかじゃないよ。今からあさひちゃんの会社に見学に行くんだよ」
「は……?」
俺が驚いて、分かりやすいくらい目をパチクリとさせて二人の顔を交互に見つめていると、あさひもスーツの襟元を正しながら、仕事モードの笑顔で口を開いた。
「こないだ成瀬さんたちにプレゼンしてもらった時にさ、それを気に入ったうちの他のフロアの社員が、ここの会社に頼みたいって言い出してさ。前回のプレゼンのよりは小さい規模にはなるんだけどね。
でもまだ、どんな機種が現場のオペレーターたちに合うか分からないから、業務内容とか動線とか、実際にオフィスを見て高橋さんに判断してもらおうと思って」
……マジか。まさか、ガチの仕事をしに来ていたとは。
ただ単に、好きな男に会いたくて職場に突撃してきた中学生レベルの恋バナだと思い込んでいた自分が、今になって猛烈に恥ずかしい。次元が違いすぎた。
「え? でも飯は? お前ら、昼飯はどうするんだよ。高橋、まだ食べてないだろ?」
俺は必死に食い下がる。二人で「仕事の打ち合わせ」を口実にして、どこかオシャレなレストランにでも飯を食いに行くという手だってあるはずだ。
それなら堂々とデートまがいのことができるんじゃないかと思ったのだが。
「あー、昼飯なら大丈夫、大丈夫。俺、一食や二食抜いたくらいじゃ死なねえし」
高橋の口から、またしても無駄にカッコいい言葉が飛び出した。しかも、タチの悪いことにあいつはカッコつけている自覚すら一切なく、ただ当然のプロ意識として自然にそれを言ってのけているのだ。
何なんだよこいつ……本当にいちいちカッコよすぎるだろ……。
だが、俺はすぐにハッとして、自分の手元をきゅっと握りしめた。
「いや! お前はよくても、あさひは……!?
注射の関係とか、色々あるだろ……」
俺は通路の左右を鋭く見回し、周囲の社員に他の誰にも聞かれないように、ぐっと声を限界まで潜めて二人に詰め寄った。
「あー、あたしも全然大丈夫。ちゃんとこれがあるからさ」
あさひは悪戯っぽく微笑むと、タイトスーツのポケットから、市販のスティックタイプの栄養補助食品を取り出して、俺の目の前で見せつけてきた。
「移動の車の中で、これでちゃんと成分とかカロリーとか色々計算して摂取してさ。こないだみたいな低血糖の発作を起こさないように自分で完璧に管理するから。
高橋さんを私の仕事に巻き込むんだから、このくらい当然だよ」
えぇー……何なんだよ、この最強のカップルは……。
仕事熱心すぎるだろ。お互いに三十代の『組織の管理者』同士だからなのか、一線を越えたプロフェッショナルな絆がそこには出来上がっているように思えた。
「成瀬、お前も一緒に来るか?」
「い……いや、俺は大切なお二人のお仕事のお邪魔をしたくないし。
何より、俺は一食でも昼飯を食わねえと、お腹が空いて死んじゃうヘタレの一般人だからさ」
「ハハッ、何だよそれ! じゃあな成瀬、行ってくるわ。――行こっか、あさひちゃん」
「うん、行こう!」
高橋はそう言って、あさひちゃんと並んで俺にヒラヒラと手を振ると、硬い床にカツカツと心地よい、ご機嫌な二人の足音をオフィスの廊下に響かせながら、フロアの向こうへと去っていった。
もう、あれだよ。 はたから見ると、あまりに甘い雰囲気が漂いすぎていて、仕事のフリをしてこのまま二人でラブホテルにでも直行しちゃうんじゃないかってくらいのラブラブなオーラなのよ。
なのに、その実態は「お互いの会社のために、昼メシの時間すら惜しんで、しかも心底幸せそうに現場の仕事見学に向かっている」という、究極の健全さとカッコよさ。
マジで俺は、一生かかってもあいつら二人の領域にまで登れる気がしません……。
てか、一般人の俺は、四の五の言わずに大人しく昼メシ食お。




